Episode 6. Dawn of the Golden Witch

 荘厳な大聖堂は、天窓より美しい光が差している。

 かつて魔女法廷が開かれた時とは、何かが違う。装飾が違う。
 温かに輝く白いリボンは、剃刀のように鋭いけれど、美しく棚引いて飾り付けられ。
 花々は美しく飾り立てられ、どのような場所でさえも祝福して見せる。
 さながら、ワイン樽に一滴の汚水を混ぜれば、その全てを汚染できるかのように。

 花とリボンと、そして赤い絨毯のヴァージンロードは、ただ存在するだけで、かつてここが、右代宮夏妃に罪を強いたのと同じ場所であることを疑わせる…。
 そこはまさしく、……婚礼の大聖堂だった。

「愛は寛容にして慈悲あり!」
「愛は妬まず、愛は誇らず!」

 司会の如き二人の悪魔が口にするそれは、神の前で愛を誓う儀式の祝詞の一つ。

 悪魔が祝う婚礼に、司祭の姿があろうはずもない。
 そこにあるのは奇跡を司る魔女の姿。
「健やかな時も病める時も。……そうね、病める時に支えてこそ妻だわ。そうよね、ヱリカ?」

「……はい。我が主……。」
「似合ってるわよ、それ。花婿の征服者として、相応しい装いじゃない。くすくすくすくす。」
「うっふふふふふふふ。光栄です、我が主っ。」
 ヴァージンロードの新婦は、古戸ヱリカ。……新郎の顔は見えない。
 新婦のその姿は見紛う事なき、祝福の、純白の花嫁衣裳。

 神の祝福の白さと、悪魔の酷薄さの白さを兼ね備えた花嫁のヴェール。
 山羊の貴族たちや魔女たち悪魔たち、大勢がこの婚礼に参列している。

 彼らの頭が山羊でさえなかったら、それはとても気品溢れる、この大聖堂に相応しい参列者たちだったろう…。

「……さすがよ、ベルン。いちいち考えることがエグイったらありゃしない。」
「病める夫に支える妻。……素敵じゃない。お似合いよ、ヱリカ。」

「……そして、……あなたにもおめでとう、……新郎?」
 そしてベルンカステルは、……新郎の顔をじっと覗き込む。
 新郎は、……応えない。

 瞳の色は灰色。
 ……唇は時折、何かを呟くが、それが意味ある言葉なのかはわからない。

「ねぇ、……聞いてる・・・・? あんたたち?」
 新郎に、あんたたちと複数形で語りかける。
 ……もちろん、新郎が複数のはずもない。

 そしてもちろん、灰色の瞳の新郎は、それにも応えない…。
「くすくすくすくすくす。聞こえてはいても、答えられませんか? ……安心して、戦人さん?」
「……………ぅ………………く……。」
「あなたの全てを。……私が、躙り尽くしてあげますから……。くっすくすくすくすくすくすくす!!」
 うっふふっはっはははははっはっはっはっはっはッ…!!
 悪魔たちも目を背けたくなるような邪悪の笑みで、奇跡の魔女は嘲笑う。
 その嘲笑にも、……戦人の灰色の瞳は、……何も応えない。

「人は、愛のために生きるのです! 即ち、今日、あなた方は生まれてきた意味を、目的を成し遂げたッ。」
「あぁ、生きる力、愛の力の何と偉大なことか…! 今日という日の輝きがどうか、お二人を永遠に祝福しますように!」
「……うるさいわ、悪魔ども。次の次第は何よ。」

「お二人に永遠の愛の誓約を求めます。」
「その次は指輪の交換を…!」
 戦人の手には、……この世界の領主である証の、片翼の鷲の紋章の入った指輪が。

 そしてヱリカの指には、如何なる奇跡でも砕けることを許さぬ、ダイヤモンドの指輪が。
 ダイヤモンドの石言葉は、“永遠の絆”。

 しかしダイヤモンドはギリシャ語で、“懐かぬ”を意味する。
 ヱリカが戦人に永遠の愛を誓うわけもない。
 ただただ、戦人を永遠の所有物として隷属させたいだけ。

 戦人を穢すためだけに、……この婚礼は執り行われようとしている。
「……ご安心を。あなたを永遠に愛したりなんかしません。だからこの挙式は、……あなたを征服する儀式です。…あなたの心は、永遠に脱出不可能の密室に閉じ込められ、……この私、探偵にして真実の魔女、古戸ヱリカに支配される。あんたの持つ領主の座もその証の指輪も、私の物となる…。」
「………………………れ……ない…。」
「……ん? 何です?」
「………く……ぅ………。……出られ……ない……。」

「ふ、…は、……はっははははははは…! 出られないですよね、その密室っ。あんたが自分で作った密室なんですからっ。あんたは永遠にその密室で苦しむんです。私は妻として、あなたの側に永遠にいて、その苦悶の表情を独り占めします。くすくすくす、あっははははははは…!! あなたを永遠に、私が穢し尽くしてあげます。……右代宮戦人ぁあああああああああああッ!!!」
 ……聞こえるのは、風の音。

 聞く者を悲しく、そして不安な気持ちに駆り立てる、あの不吉な音。
 ゆっくりと、……意識が戻ってくる。

 俺はスプリングの硬いベッドの上で、ようやく意識を取り戻す…。
 ここは、……どこだっけ…。

 ここがどこか、思い出せないけれど、……ここにいてはいけないことだけは、薄っすらと思い出せる。
 部屋は薄暗い。

 灯りは付いているが、むしろ薄暗さと不気味さを感じさせるものだった。
 窓にカーテンは掛かっていないが、窓の外は真っ暗で何も見えなかった。
 そんな真っ暗闇に目を凝らしたなら、……闇の中から密かにこちらをうかがう森の魔女と目が合ってしまいそうで、…それが怖くて、暗闇の窓から目を逸らした。
 ……見えないし、聞こえもしないけれど、……この部屋を出れば、そこは明るくて温かくて、誰かがいてくれる気がした。

 早く、みんなのところへ行きたい……。
 小さい頃の、嫌な記憶が蘇る。

 親族の集まりで、うとうとしていたら、いつの間にか知らない部屋に寝かされていて。ものすごく心細くなって大泣きした、とても嫌な、辛い記憶…。
 ここは、……いてはいけない部屋だ。

 とにかく、早く出たい。
 そう思い始めたら、一秒だってこの部屋にいたくなかった。

 怖い。気味が悪い。……みんな、どこ?
 早くこの部屋を出たい…。
 部屋を出ようと、扉を開ける。
 扉の隙間から、温かな灯りが漏れる。
 ……やはり、廊下には温かな灯りが満ちていた。

 聞こえるわけじゃないけど、何だか遠くで、温かで楽しそうな気配がする。
 ……きっと、向こうの部屋にみんな集まってるんだ。
 ……自分だけがたった一人、こんな寂しくて薄気味悪い部屋に閉じ込められている…。
 早く行こう。

 そう思った途端、無慈悲な金属音がして、扉をそれ以上開けさせない。
 ………チェーンが、掛かっていたのだ。

 俺は、チェーンロックが昔から嫌いだ。
 鍵なら、捻れば簡単に開く。
 ……でもチェーンロックは、何だか構造がとても意地悪で、なかなか器用に開けられない。

 …だから幼い頃から大嫌いなんだ。
 ………ほら、……やっぱりこのチェーンも、何だかうまく行かなくて、どうやっても開けられない。
 何だよ、早くこの気味の悪い部屋を出たいのにっ…。
 この扉一枚のすぐ向こうには、こんなにも温かい灯りがいっぱいに満たされてると言うのに…。
 開けられない、どうしてもチェーンが開けられない。
 そうしてヤケになればなるほど、この部屋の不気味な薄暗闇が、自分の背中にますます迫ってくる気がして、どんどん恐ろしくなる…。
 ……そして、ようやく気付く。

 このチェーン、……変だ。

 ……チェーンはチェーンでも、…チェーンロックじゃない。
 この扉をこれ以上開けまいとして打ち込まれた、鎖と楔なのだ…。

 つまり、開けられるように、出来ていない。
「な、……何だよ、これ……。ふ、ふざけんなよ、誰だよ、こんなことしたの…。」
 鎖も楔も、いくらやっても、どう足掻いても、抜けない、外せない、壊せない。

 この扉は、一瞬だけ開くと思わせて絶望させるための、悪魔の口だったのだ。
 それでも、この扉を何とか開きさえすれば、温かい廊下に出られるのだという誘惑が、……腕に噛み付いてドアノブを離させない。
 しかし無駄。

 鎖も楔も頑丈で、どんなにガチャガチャ言わせても、絶対に扉はそれ以上、開かない。

 温かな廊下をその隙間からうかがえるのに、それ以上は絶対に開かない。
 誰かを呼んだら、来てくれないだろうか…。

 外からなら、あっさりとこの扉を開いてくれるんじゃないだろうか…。
 そう思い、……誰か来てと声を出そうとするのだが、……お腹の底にまるで力が入らない。
 口をぱくぱくと、“誰か来て”と動かすのだが、そこから言葉が声となって出ないのだ。
 何、これ……!?
 誰か来て…。どうして声が出ないの…!?
 助けて助けて助けて。

 助けてと、声にさえ出来ないことが、とにかく恐ろしくて恐ろしくて。
 後ろを振り向いたら、……窓の外の暗闇から、この部屋をうかがっていた魔女が、……もう部屋にいて、…自分のすぐ後ろに立っていそうで……、恐ろしい恐ろしい、怖い怖いこわい…。
 誰か助けて誰か助けて…。

 出られない、出られない…。

 この部屋から、……出して……、助けて、怖い怖い怖い、出して出して出して、助けて助けて助けて……。
「お嬢、先方がいらっしゃったそうですぜ。」
「え? ………あ、………。」
 天草が私の頬を、なぞるように触れる。
 私は、直前までのまどろみから一瞬にして、意識を取り戻す。

 気持ち悪い起こし方をしないでと睨みつけてやるが、天草は白々しく知らん振りをする。
 ここは、……どこだろう。

 気品ある人の家の、応接室という感じに見えたが、……まったく覚えがなかった。
「…………………。」
 ここは、……どこだろう……?
 …そして、……私は……?

「お嬢、寝ぼけてるんですかい。」
「……えぇ、ごめん。ここ、どこ……?」
「はあ?」

 いくら寝ぼけてると言っても、ここまでとは思わなかったらしい。……それは奇遇、私もだ。

 どうして、私はこんな知らない応接室に?
 天草の言う、先方とやらの足音と気配は、もうすぐそこ、扉の向こうまでやって来ている。
 やり取りの声がする。女性だろうか…。
 私の前に置かれたコーヒーとお茶菓子から見るに、来訪したのは私なのだ。

 だからせめて、ここに来た用事と、……いや、せめて私が訪ねた相手が何者なのかくらい、思い出さなくては…。
 私は誰? 右代宮縁寿。
 後ろに突っ立ってる男は誰?

 天草十三。私の元護衛。
 小此木社長が手配してくれたボディーガード。
 ……じゃあ私は、……絵羽伯母さんが亡くなった後、……追っ手を振り切って、…………12年前のあの日に何があったかを知るために、…旅を……?
 ………そうだっけ…。

 …こんな記憶・・・・・、あったっけ……。
 ノックの後、扉が開き、……恐らく、私が会う目的だったに違いない相手が、お手伝いさんを伴って姿を現す。
 ……参った。…顔を見てもなお、彼女が何者なのか、思い出せない。
「お待たせいたしました。八城十八先生でございます。」

 助かる。お手伝いさんが先に向こうを紹介してくれた。…そして、ようやく彼女が何者かを思い出す…。

 “彼女”? てっきり、“彼”だと思っていた……。

「失礼ながら、……先生で?」
「えぇ。……私が八城十八(はちじょうとおや)です。」

「週刊誌に先生のサイン会の件が載ってましたぜ。サングラスにマスクでがっちりガードした謎の男性作家…、って触れ込みだったはず。まさか、女の先生だったとは、……こりゃどういうわけで?」

「……あれは、編集部の方に手配していただいた身代わりです。あのサイン会の時、後ろに待機していた介添えが私でした。」
「こりゃ驚いた…。……先生の作品は読んだことないが、多分、あんた本人の方がよっぽどミステリーですぜ。」

「読者など、本を読んでいるふりをしているだけ。……作者名とブランドだけで本を読み、読んだつもりでいる。……彼らには、私の本に何が書いてあっても、何も読んでなんかいない。ただ、今、流行りの作品は欠かさず読んでいるとインテリぶるために読んだふりをしているだけ。……その程度の者どもに、どうして我が身を晒せようか。あぁ、汚らわしきかな汚らわしきかな。」

「……なるほど。確かに、……あなたが八城先生のようですね。」

 この、相当の変わり者っぷり。
 間違いなく、八城十八本人だ……。
 八城十八は、近年、話題になっている推理作家だ。

 作品自体の評価も高いらしいが、作品以上にミステリアスなデビューで今、脚光を浴びている。
 彼女は昨年、複数の大手出版社が主催するそれぞれの推理小説大賞に、それぞれ異なる偽名で投稿し、それぞれで大賞を受賞するという快挙を成し遂げた。

 その後も次々に、低くない評価を受けていた無名作家の作品が、彼女の偽名による過去の作品であると発覚し、作品以上に作家自身がミステリアスであるとして人気が沸騰した。
 にもかかわらず、作者本人は決して表に出ず、謎のベールに包まれてきたが、つい先日、ついにサイン会にてその姿を現し、サングラスとマスクで顔を隠した文字通りの覆面作家として、さらに注目を浴びたのだが…。

 ……それさえも、本人ではなかったとは。

 そんな奇抜な人物だから、仮にファンを蔑ろにするようなとんでもない発言をさらりと口にしたとしても、それほど驚きはしなかった。

「右代宮縁寿さんのことも。ワイドショーでもずいぶん色々やってましたから、私もよく知っていますよ…。」
「どうせろくな話じゃないわ。」

「えぇ。ろくでもない話ばかりですよ。気分一つで人を雇ったりクビにしたり。何でもお金で解決しようとする無法者の乱暴者だとか。」
「違いねぇ。ヒッヒッヒ!」

「でも。……私はあなたのような、頭のいい人は嫌いではない。」
「……だから、会ってくれたんですか?」

「えぇ。伊藤幾九郎〇五七六が、私、八城十八の別のペンネームだと見破ったのはあなただけ。実に見事なるかな…。」

「“伊藤幾九郎〇五七六”。おかしなハンドルネームだったわ。でも、数字に直すと、11019960576と読める。」

 110億1996万576。この莫大な数字は、18の8乗に等しい。

 18の8乗。
 十八のハチジョウ。

 ……それで、八城十八となる…。

「ふふっ、……よく出来ました。実に見事。そんなあなただから、私も直接会ってみたかったのです。……ようこそ、人の子よ。我が邸宅へ。」

 彼女の口調はとても見下したものに聞こえたが、その優雅な振る舞いのせいか、不思議と腹立たしくは聞こえない。

 その口調が当然である、やんごとなき人物。……そんな風に感じてしまうのだ。

 ………むしろ、本来はニンゲンの前に姿を現す必要さえもない、高貴な存在が顕現したかのような、そんな気持ちにさえさせられる。

 特に彼女のファンのつもりのない私でさえそう思うのだから、相当の神秘的カリスマを持っているのは疑いようもない……。
 しかし、私が話をしたいのは、推理作家、八城十八ではない。

 ……インターネット上でのみ作品を公開している謎のネット作家、伊藤幾九郎〇五七六に話を聞きたかったのである…。
 伊藤幾九郎は、日本のインターネット界隈で有名なウィッチハンターの1人。
 ただし、かの大月教授のようなオピニオンリーダーではない。

 賛否両論で常に議論の渦中となる、「メッセージボトル偽書作家」の1人としてである…。
 メッセージボトル偽書作家とは、その名の通り、六軒島の事件を記した謎のメッセージボトルの、文章を捏造して発表する者たちのことである。

 彼らは、新しいメッセージボトルが発見されたと称し、よく似た贋作、もしくは、真相を自分なりに解釈した新説を、右代宮真里亞の文書を騙って発表するのだ。
 彼らは堂々と「右代宮真里亞」を名乗り、さも自分は当事者で真相を知っているかの如く、新しい奇怪な物語を描き、それを、ニンゲンが新しく手に入れた海、インターネットの大海に、第三、第四のメッセージボトルとして放っているのだ…。
 初期の偽書作家は、単なる悪戯目的か、さもなくば、好事家を騙すことを目論んだ詐欺師かのどちらかだった。

 しかし、メッセージボトルの物語の謎を解き「真相」に至ったと自称する人間が次第に現れ始め、あたかも出題者側に回ったかのように、右代宮真里亞による、第三、第四のボトルメールを語って創作を始めるようになった。
 彼らは好き勝手な解釈で魔女物語を書き綴り、その説の一部は時にネット上で絶大な支持を集めたため、あたかも真実が含まれているかのような信憑性を持ち始めている“創作”も存在する。

 そんな彼らは、厳格なウィッチハンターたちからは「偽書作家」「贋作作家」あるいは「魔女」と呼ばれ、激しく忌み嫌われている。
 真相に至ったと称し、にもかかわらず、至った真相を語らず、試すかのようにメッセージボトルの偽書を創作する。

 そんな彼らを、生真面目なウィッチハンターたちが極めて不愉快に思うだろうことは、想像に難くない…。
 しかしその一方で、六軒島のオカルトファンタジーを単純に楽しんでいる者たちの中には、ミステリアスな物語をさらに拡張させてくれると、その創作に作品性を認めている者も、極めて一部ではあるが存在する…。

 伊藤幾九郎は、そんな人間たちの間でもっとも高い評価を受けている偽書作家なのである。
「……End of the golden witch。読ませてもらいました。……人の親族を、よくも好き放題に殺せるものです。」
「それが言いたいためだけに、わざわざここへ…? いいえ、違うでしょう、右代宮家の最後の末裔よ。」
 彼女の最新の偽書、「End」は、その作中で少なくとも親族たちを7人は殺している。

 いやいや、彼女のこれまでの偽書、「Alliance」や「Banquet」も含めれば、どれだけの親族を、何度、惨たらしい方法で殺しているやら…。

 私が嫌味の一つも言いたくなっても、これは当然のことだ。
 しかしこれらの作品群は、その規模、完成度において、限りなく、「右代宮真里亞」本人が記してきたそれまでの物語に近いと評価されていた。
 特に、伊藤幾九郎の最初の偽書、「Banquet of the golden witch」は、九羽鳥庵で右代宮絵羽が難を逃れるまでを全て描いており、これこそ六軒島の真実ではないかとさえ囁かれ、ワイドショーでまで取り上げられたことがある…。
 これらはまだ、ネット上の電子テキストに過ぎないが。
 ……やがて伊藤幾九郎の正体は、八城十八だとわかるだろう。
 そうなれば、“あの奇人”八城のことだから、これはただの創作ではなく。…実は本当に、第三のメッセージボトルも持っていて、それを創作のふりをして発表したのではないか、などということになり、神秘性と信憑性を同時に高めることにさえなるだろう…。

「……狡猾、ですね。」
「どうして?」

「そうしてあなたは、自分の偽書に神秘性と信憑性を与える。」
「信憑性とは?」

「それを得て、あなたの偽書は、真実に昇華される。」
「昇華? ふっ、愚かしい。そんなもの、私の作品には必要ありません。」

「……なぜなら、あなたの作品は偽書ではなく、真実だから…?」
「えぇ。真実なのですから、昇華など不要。」
「あなたは真里亞お姉ちゃんじゃない。ましてや、あの日の六軒島にも存在しない。なのにどうして真実などとおこがましいことを?」

「お嬢、頭に血が上りすぎですぜ。」
「うるさいわねっ、私のどこがそうだってのよ。」
「くすくす……。」

 感情的になり過ぎてしまったことを、半ば自ら認めてしまった。
 縁寿は、溜息を漏らしながら肩を竦める…。
「あなたがここへ来た理由は。親族を偽書の中で何度も殺めた、私を詰るためではないでしょう…?」
 八城はやさしく、……だけれど、まるで幼い子を見守るような母性、あるいは驕りで縁寿に微笑みかける。

 縁寿にはそれがわかっていまい、いらつきを抑えられない。

 そして天草には、縁寿のそれがわかるらしい。
 彼は縁寿をしばらくの間、茶化し、話題を一度リセットしてくれるのだった。

「あなたが私に聞きたいのは。……私の至った“真実”でしょう?」
「…………どうして真実に至ったと確信を……?」

「全ての物語を理解したからです。」
「だから、どうしてそうだと確信を?」

「……太陽が地球の周りを回っていたことはあると思いますか?」

 唐突に天動説の話を切り出される。

 ……質問に質問で返すなと言い返すところだが、縁寿にはすぐにその意味がわかった。
「……かつてニンゲンは天動説を支持していた。しかし近代、それは否定されることとなる。……なら、否定された瞬間に、太陽は動きを止め、地球がその周りを回り始めたというのだろうか。」

「……そんなわけもない。ニンゲンが何を信じようと、真実は変わらない。」
「ならば今。あなたが私の真実を否定するのは、つまりはそういうこと。」
 ガリレオ以前にも地動説を主張した学者は大勢いた。
 ……しかし、当時の技術では、それを客観的に示せる資料と証拠は難しかった。

 しかしだからと言って、真実は変わらない。

“それでも地球は、回っている”。
「………真実は、その立証の如何にかかわらず、真実だと…?」

「そうです。これより未来。やがて全ての真実が明らかになった時。私がすでに真実に至っていたと、遡って人々は気が付くでしょう。」

 八城の人間性とは、どうやら縁寿は相容れないらしい。
 何度もいらつき、その度に天草に茶化されてはそれを飲み込まされている。

 しかし、彼女が紛れもない鬼才であり、常人とは異なる嗅覚から、あの島で何があったのか、興味深い見解を持っていることだけは間違いなかった…。

 だからこそ、伊藤幾九郎と接触し、その見解を聞いてみたいと思ったのだ。
 しかし、会えて本当に幸運だった。

 伊藤幾九郎が本当に八城十八であることに、絶対の確信はなかったし、出版社が本当に連絡を取ってくれるとは思えなかったし、……ましてや、ミステリアスな覆面作家が、これほどの突然な来訪を許可してくれるなんて、とても思えなかった。
 そう思えば思うほど、こうして彼女の会えたのは、全てが“奇跡”の塊だった。
 ……そう。奇跡。

 ……だって、ほとんどの場合、出版社からは何の連絡もなくて、そのまま明日、新島に出発してしまうのだから。
 ………………?
 ………新島に出発したら、それから六軒島に行って。

 ……お姉ちゃんに、…さくたろうのぬいぐるみを。

 ……え?
 ………どうして私、さくたろうのぬいぐるみを………?
 …………………………。
 未来の記憶が、混濁する…。
 頭が、……痛い…。
 八城は、良い物を見せましょうと言ってソファーから立ち上がり、書斎机へ向かう。

 彼女が背を向けると、天草は辛そうにしている縁寿に、具合が悪いのかと問い掛けた。

「……ねぇ、天草。……私って、…いつからここにいるの…?」
「はぁ? さっきから様子がおかしいですぜ。何事ですかい。」

「………私、いつからここに座ってるのか、記憶がないの。」
「まだ寝ぼけてんですかい?」

「そうじゃなくて。……だって、私は確か、大月教授とはアポイントが取れたけど、伊藤幾九郎の件では、出版社から返事がなくて、……結局、この日は一日、何も出来なかったんじゃなかったっけ…?」
「はぁ?」
「天草は、……あの、大きな黒いバッグを、受け取りにいったんじゃなかったっけ…?」

 そう。天草は新島へ出発する直前に一度、別行動をし、……知人に武器を手配してもらったみたいなことを言って、あの大きな黒いバッグを受け取ってくるのだ。
 それが、今日じゃ、……なかったっけ………?
 私、……何を言ってるの……。

 だって、……新島に行って、……川畑船長と出会って、…そして布団売り場で、………え? ……………あれ……。
「……どうしました…?」
 私は、混乱する不安な気持ちを、吐息に漏らしてしまっただろうか…?

 背を向けていたはずなのに、……彼女は私の胸中を見透かしたかのように、ゆっくりと振り返り、……微笑む。
「い、……いいえ、何も。」
 自分でも理解の出来ない、おかしな記憶。

 せめて悟られまいと誤魔化すが、………なぜか八城の瞳は、その胸中を全て読み取れているかのような、……不気味な輝きを見せるのだ。

「私は、何冊もの偽書の中で、何度もあなたのご親族を蘇らせては、殺す。……まるで魔女のように。」
「好きなだけ蘇らせて、好きなだけ殺す。………無限に。…まるで、ベアトリーチェね…。」

「えぇ。……だから私はやはり、ネット上で彼らがそう呼ぶように、魔女なのかと、思って。」
 彼女は鍵の掛かった引き出しから、分厚い何かの入った大きな茶封筒を出していた。
 中にはぎっしり、印字されたプリンター用紙が詰まっているようだった。
 ……彼女の原稿を印刷したものだろうか。
 そして茶封筒には万年筆の達筆な字で、……「Dawn」と記されていた。

 Dawnの名で始まる偽書は存在しない。
 ……と、いうことは……。
 ……直感する。これは、新作なのだ。
 彼女の未発表の最新偽書……。

「Dawn of the golden witch」…。
「全てを知る私には、全てが退屈。……しかし、何も知らぬ無知にそれを読ませ、何がしかの反応を得ることは嫌いではない。……だからあなたに、読んで欲しい。」
「……新しい無限の魔女としての、新作を?」

「そうです、人の子よ。あなたが憤慨しようとも感嘆しようとも、それは私の病を一時、忘れさせる。」

「…………………。……もう茶番は終わりにしましょう。…あんたは誰。……私の記憶に、こんな出会いはないわ。」

 確かに、八城十八とコンタクトを取ろうとはした。
 でも、結局、会えなかったんだ。

 だからこれは全て、虚偽。

「今度は私は誰の駒? ……悪いけど、この右代宮縁寿。飼い慣らせると思ったら大間違いよ。」

「………ふっ。……くすくすくすくす………。やはり、…そなたは面白いかな。うっふふふふっふっふっふ…。」

 彼女はついに堪えきれずに笑い出す…。

 次第に、室内が不思議な紫色の霧で滲むようにぼやけていく…。
 室内そのものさえも、ぐにゃりと歪んでいく…。
 彼女の姿も、ぐにゃりと歪み、……形容し難い得体の知れない何かを経て、彼女が名乗る通りの、……魔女そのものの姿に変わった。
「見事なり。よくぞ、私を見破った…。」
「………私ってつくづく魔女に好かれる性分ね。………あんたたちに特徴的な、どこか人を舐めた口調。すぐに魔女だってわかったわ。」
 そこにはもう、ソファーに腰掛けた小説家の姿はない。
 こういう時にいるべき、ボディーガードの姿もない。

 凝った装飾の大きな揺り椅子に身を任せる、人ならざる者の姿があるだけだ。

「面白きかな、人の子よ。……愉快なり、それでこそ我が退屈に相応しい。」
「こっちは全然、愉快じゃないわ。……どうして私は生きてるの? ……私は名前を明かしたルール違反で、酷い殺され方をしたと思ってたけど…?」

 まぁ、……それでお役御免にしてくれるほど、連中が甘いと私も思ってない。

 ……今度はどんな茶番に付き合わせると言うの?
 何でもいい。私に与えられた役割の範囲内で、お兄ちゃんに貢献できるよう、最大限の努力をする。

 もちろん、わかってる。

 ……お兄ちゃんが勝とうとも、“私”のもとへは、誰も帰って来ないのだ。
「でもね、……足掻くわよ。あの日の私のところへ、お兄ちゃんを帰すためにね。」
「そういきり立たずとも良い。私がそなたに求める役割は、駒ではない…。」

「じゃあ何の用で呼び出したの。まさか、あんたの書いたとか言う、新しい物語を読めとでも言う気じゃないでしょうね。」
「その通りだ。……そなたに望むのは駒ではない。元より私は傍観者。あやつらのゲームにちょっかいを出す気など、毛頭も無し…。」

「………意味わかんないわ。あんたは私に何を期待してるの。」
「私のために、ベアトリーチェの紡ぐカケラの観測者であれ。」

「観測者…? よくわかんないけど、お断りよ。」

「かつて。私は戦人を通してカケラを鑑賞していた。……しかし、彼がゲームマスターを継承した今、観測者として相応しくないのだ。私は、心より純粋な気持ちで物語を追っている。その私にとって、今の戦人を通して観測することは、さながら推理小説を逆さに読むにも等しい興醒め…。」

「……お兄ちゃんがゲームマスター?? 何の話をしてるのかさっぱりだわ。」
「さっぱりだろう。知りたいであろう。……私も知りたい。戦人がゲームマスターを継承し、紡ぐ物語がどのようなものか。…そして、戦人が至ったという真実がどのようなものか、私の、自らの思考の旅で追いたいのだ。………私は病の深き身。考えねば鼓動を続けることさえ叶わぬ…。」
「………つまり。…あんたは新しい絵本を、私に朗読してもらいたいってわけ…?」
「そういう解釈でよい。見返りに、そなたもまた自由に思考を旅することが出来る。そなたとて、未だ真相には至っていないはず。………続けたいはずだ。…真相を知る旅を。」

「あんたに得をさせる義理がないわ。」

「粋がるな。私は時に寛大だが、多くの場合、そうではない…。」
「……………………。」
 縁寿とて、未だ真相に辿り着いてはいない。

 魔女たちの戯れだとしても、続く物語を追って、真相というキングを詰めるゲームを再開したい……。
「……私は、私が真実に至るために物語を追うかもしれないけれど。……あんたのために、最後まで朗読する義理はないわ。…意味はわかる?」
 縁寿は朗読を引き受けることも出来るが、しかし、機嫌を損ねればいつでもそれをやめられる。

 “私”の機嫌を損ねるような真似をするな、という釘刺しだ…。
「無論だ。……絵本と称したが、私にとっては死に至る病への唯一の薬。そなたの介添えなくして飲むことも出来ぬもの。……即ち、相利共生だ。」

「……あんたが寝入るまで、私に本を朗読しろと。その代わり、私にも読むことを許す。……そういうことね。」

「そうだ。……引き受けてくれるならば、しばしの一時。私の朗読者に任ずる。」
「偉そうな役職名だけど、所詮はただの本読みでしょ。」
「私の朗読者であるということは、私の使いであるということ。……即ち、そなたへの干渉は私への干渉。私は、ベアトリーチェの物語の続きを読みたいという唯一の興味を、何者にも邪魔されることを許さぬ。……そなたを弄んだ、ベルンカステルもラムダデルタも、無論ベアトリーチェさえも、そなたに対して一切の強制力を持つことは許さない…。」
 神格さえ感じさせる魔女は静かに、そして力強くそう言う…。

 凄みがあったわけではない。

 ……しかしそれでも。彼女がベルンカステルたちとは一線を画した、軽んじれぬ存在であることは理解できた。

「本を読ませる代わりに、私を保護してくれると…?」
「無論だ。私は朗読を望んでいる。………それを邪魔する者は、何人であれ許しはしない。」

「………………………。」

「……私の態度が横柄に感じるならば謝ろう、人の子よ。私はこれでも、そなたに最大の敬意をもって語りかけている。」
「みたいね。……その魔女らしい口調さえ、…どうやらあんたの中では、数百年ぶりに見せた敬意って感じがするわ。」

「そなたは本を読む時、本に、よろしくお願いしますと語りかけてから表紙を捲るか…?」
「……そういうことよね。理解したわ。」
 彼女が、……対話に応じるだけで、それは最大限の敬意と譲歩。
 縁寿は肩を竦めながらも頷き、同意の意思を示す。

「いいわ。……あんたの朗読者を引き受ける。あんたが私に同意を求めた時点で、最大の敬意を表したことを理解したわ。」
「良き理解だ、人の子よ。」

「……私の名は縁寿よ。人の子だかタケノコだか呼ぶのはやめて。」
「ふっふふふふ。……良いだろう。私が敬意を示すことの証に、そなたの名を認めよう。」

 彼女にとって人の名など、舞い散る落ち葉の一枚一枚に名前を認めるのと同じこと。

 だから、………彼女が縁寿の名を認めるのは、奇跡。いや、僥倖。

「…これよりそなた右代宮縁寿を、観劇の魔女、フェザリーヌ・アウグストゥス・アウローラの巫女にして朗読者に任ずる。そなたが朗読を終えるまで。そなたの朗読を妨げようとする全ての者に災いを与えよう。」
 観劇の魔女、フェザリーヌがそれを宣言すると、……縁寿は眩い光に包まれる。
 縁寿自身は特に何も変化を感じないが、……人ならざる者には知覚できる何かが、確かに彼女に与えられていた。

 これにより、縁寿は今、観劇の魔女の眷属であることが示されている。
 それによって、縁寿に何か特別な力が与えられるわけではないが、……少なくとも、彼女にちょっかいを出そうとする者は、観劇の魔女フェザリーヌを、敵に回す覚悟が必要になるだろう…。

「あんたの名前、ずいぶんと長いのね。ローマの偉人みたい。……何と呼べば?」
「親しくない者はアウグストゥス・アウローラと呼ぶ。」

「………私に敬意を示してくれたあんたに、私も敬意を示して。フェザリーヌと呼ぶわ。問題は?」
「ない。……病んだこの身には名を呼ばれることさえ、噛み締めがいのある愉悦だ。人の子よ。」

「縁寿よ、私の名前。」
「……ふふ。そういうやり取りさえも、心地良きかな。……縁寿、我が巫女よ。」

 縁寿は受託する。
 観劇の魔女とともに、物語を観劇することを。

 第6の物語が、幕を開ける……。
 かつて、ベアトが魔女たちだけを集めて雑談を楽しんだ、魔女の喫煙室。

 そこには、珍しく多くの人影があった。
「うっふふふふ。戦人は一体、どういうゲームを見せてくれるのかしらね。」

「……それが退屈を忘れさせ、壊し甲斐あるものなら、何でも歓迎よ。」
「お任せ下さい、我が主っ! 必ずや主の望まれる結果となるよう、最善を尽くします!」

「えぇ、そうしてね。……前回のゲームではおかしな表情ばかり見せちゃったから、頬が歪んで変なしわにならないか不安だわ。」

「そ、そんなことはありませんっ。どんなおしわが出来ようとも、我が主の美貌は完璧ですっ。」
「……………………ッッッ!!!」

「うっふふふふ! ベルンがこんなにも楽しそうなんてね。本当にベアトのゲーム盤は素晴らしいわ。」
「……そのゲーム盤の主が、もはや不在なのは悲しいことデス。」

「虎は死んで皮を残す。ベアトも死んでゲームを残したわ。」
「チェスは残っても、その作者の名は残ってないわね。」

「あ、ホントだ! きゃっはははは、ゲームの作者って不憫ね〜。」

「それにしても、戦人さんはずいぶん待たせるじゃないですか。第6のゲームの準備、まだ終わらないんですか?」
「……ガートルード。バトラ卿の準備は如何デス?」

「謹啓、謹んで申し上げる。……もうじきのことと知り給えと奉るもの也。」

「待たせるってことは、それだけ自信作なんでしょうよ。……前回、我が主の前で、あれだけの恥をかかされたんですっ。是が非でも打ち破って見せます…! 特にあんたっ、二度と無様を見せないで下さいよ…!」
「……奮起して臨むもの也や。」
 戦人がベアトのゲームの全てを理解したことは、先代ゲームマスターのラムダデルタによって保証されている。

 しかし、それを認めさせるには、自らの手によるゲームを開催し、やり遂げて見せなければならない。
 つまり、ヱリカにとっては、この戦人の手によるゲームを何とか打ち破れば、前回の汚名を返上することも意味できるのだ。

 ヱリカはいつでも来いとばかりに鼻息を荒くしているが、戦人は遅れているようで、なかなか姿を現さなかった。
 その時、黄金の蝶の群が、ふわっと現れ、人型を作る。

 それは見慣れたドレスの輪郭だったので、すぐにそれが誰か一同にはわかった。
「おや、ベアトリーチェさんじゃないですか。てっきり前回、死んで消えたとばかり。」

「……消えたのはプレイヤーのベアトよ。こいつは駒でしょ、戦人の。」
「駒ではあっても、ご本人と変わりありマセン。」
 ベアトリーチェは、スカートの裾を摘み、上品に会釈をした姿で現れる。

 高笑いで現れそうな彼女のイメージからすると、むしろその畏まった登場は、いよいよ第6のゲームの始まりを告げる緊張感さえ感じさせた…。
「お父様はもうじきお越しになられます。どうかもうしばらくのお時間をお許し下さい……。」

「……………。…あっは。お父様?、何それ。それが今回の趣向?」

 ベアトが、らしくもない言葉遣いで語り出した上に、恐らく戦人のことだろうが、“お父様”と呼んでみせる。
 一瞬、呆気に取られていた一行だが、すぐにこれが何らかの趣向であることを理解して、ニヤリと笑う。
 ベアトだって、こんな言い方を我慢できるタイプじゃない。
 もうすぐ化けの皮が剥がれて、ケタケタと品の無い笑いで噴き出すだろう。
 やる気満々のヱリカは、さっそくベアトに絡んでいた。

「まさかあの、無能の戦人さんが、あなたのゲームの真相に至るなんてね。」
「……お父様なればこそ、深遠を理解されたのでしょう。さすがだと思います。」

「……………。しかしあんたもラッキーです。戦人がゲームマスターになれなかったら、二度と復活できなかったんですよ。まったく、悪運が強いと言いますか。」
「……悪運?」

「まぁいずれにせよ。前回の借りはきっちり返させてもらいますので。あんたという戦人の妄想幻想ッ、きっちり消し去って、忘却の深遠に叩き落してやりますから。」

「私も、みすみすやられるわけには参りません。……その、お手柔らかによろしくお願い致します。」

「………………………???」

 その頃にはもう、一同の違和感は紛れもないものになっていた。

 確かに、顔もドレスも髪形も、ベアトリーチェに他ならない。
 ……しかし、……表情が違うのだ。

 ベアトの顔ではあっても、決してベアトが浮かべないような表情を見せるのだ。

「…………………。」
「……誰よ、あんた。」

 場が沈黙する。

 ……ラムダデルタの問いは、全員のそれを代弁するものだった。

 最初は、微笑みながらもきょとんとした表情を浮かべていたベアトだったが、……場の空気がすっかり乾いてしまったことに気付くと、ようやく表情を曇らせ、俯いた。

「あんた、……誰です。」
「……ベアトリーチェ卿とお見受けしていますが、…違うのデスカ…?」
 ドラノールでさえ、無礼を承知でそう尋ねざるを得ない。

 それほどに、……その、一見、ベアトに見える女は、別人だった。
「………皆さんの期待されるベアトリーチェとは、……違うでしょうか。」

「あんた、……何、言ってんの。」
「まさかとは思いますが、記憶喪失とか何とか言い出すんじゃないでしょうね…?」
「わ、…私はまだ生まれたばかりですので、記憶は何もありません。……で、ですがっ。皆さんの期待されるベアトリーチェになれるよう、色々と勉強を…、」

「ベアト。……部屋にいるように言ったはずだ。」
 どこからともなく、戦人の声が聞こえた。

 ……少しだけ冷たい口調だった。
 ベアトはまるで小さい子が叱られたような表情を浮かべる。
 黄金の蝶の群が渦を巻き、……戦人が現れる。

 貫禄ある姿と身なりは、このゲームの支配者に相応しい。
 ……しかし表情には憂いが浮かび、…その眼差しはベアトに向けられていた。
「……部屋に戻れ。ここはお前のいる場所でない。」

「わ、…私は少しでもお父様のお役に立ちたくて……、」
「部屋へ、戻れ。」

 静かに強い口調で言う。
 有無を言わせないものだった。

 ベアトは俯きながら、スカートの両端を掴んで、退室前に会釈する…。

「それから。」
「は、はい、お父様。」

「……俺の名は戦人だ。…二度と他の呼び方をするな。」
「…は、………はい。」
 ベアトは黄金の蝶の群に溶けて消える。
 戦人がゲームマスターになっての物語だから。
 相当に派手な展開が来るだろうと想像していた魔女たちにとって、これは全て想定外。

 ……開いた口が塞がらないという感じだった。

「……変わった趣向ね。」
「失礼した。……今のは忘れて欲しい。」

「ふん、うまいこと言って、それも作戦の内ですか? また北風太陽作戦みたいに、印象操作して何かを煙に巻こうって魂胆でしょう。」

「……何かあったのデスカ。」
「気にするな。お前たちには関係のないことだ。」
「そう。なら関係ないってことだわ。さぁ戦人! 早く新しいゲームを始めてちょうだい! もう待たされ過ぎちゃって、退屈してたんだから!」

「……あぁ。第6のゲームを始めよう。……ヱリカ、そしてベルンカステル。これが、俺の物語であり、俺がベアトの真相に至ったことの証明だ。…ラムダデルタ。それを、先代ゲームマスターとして見届けてくれ。」

「えぇ、楽しみにしてるわー。タイトルは?」
「……“Dawn”。…黄金の魔女の夜明け、だ。」

「すぐに沈む冬の太陽だけれどね。」
「もちろんです、我が主。すぐに引き摺り下ろしてご覧にいれますっ。タイトルだけはグッドです、そこだけは褒めましょう、戦人さん。」
「気に入ってもらえて良かった。…では始めよう。これより、第6のゲームを開始する。」
 戦人は厳かに、ゲーム開始の宣言をする。

 ……前回のゲームの最後で、次で決着をつけてやるとヱリカと火花を散らし合っていた様子からは、それはあまりに静かな様子だった……。

「……縁寿。ベアトの様子が、あまりにこれまでと違うな。」
「私も驚いてるわ。……何が何だかさっぱりよ。それ以前に、何でベアトが蘇ってるのかさっぱりだわ。さっき読ませてもらったけど、……前回の物語の最後で、お兄ちゃんが真相に辿り着く直前に、死んで消え去ったんじゃなかったの?」
「この世界での死は2つある。……1つは駒としてゲーム盤より取り除かれること。これはゲームにおける死でしかなく、仕切り直せば、何度でも蘇る命だ。」
「……だから魔女たちはその命を奪うことに、あまりに無慈悲なわけよね。」
 魔女というプレイヤーにとって、ゲーム盤の上の登場人物の命など、取ったり取られたりを競うチェスの駒以上でも以下でもない。

 次のゲームが始まれば、また並ぶ駒なのだから。
「真里亞における、さくたろうが、その駒の最たるものであっただろう。」

「……さくたろうが、お姉ちゃんの駒…?」

 確かに、……そうかもしれない。
 お姉ちゃんの内面世界という名のゲーム盤では、確かにさくたろうは存在して、お姉ちゃんと常に寄り添っている駒だった。

 現実の世界では、ただの布と綿のぬいぐるみであっても、お姉ちゃんのゲーム盤では、それは他の駒と何の区別もない、立派な1つの駒なのだ。
「でも、……どうかしら。…魔女のゲームの駒なら、簡単に生き返らせることが出来るんでしょ。……でも、お姉ちゃんの世界では、さくたろうは蘇ることが出来なかった。」

「……世界でたった一つのぬいぐるみという依り代が失われたからだ。だから、駒の存在条件が崩れ、真里亞のゲーム盤では復活することが出来なかった。……そなたが、その存在条件を再び満たしてやったからこそ、さくたろうはゲーム盤に蘇ることが出来たのではないか。」

「………確かに。」

 真里亞お姉ちゃんは、ぬいぐるみという依り代を失ったから蘇らせられなかっただけ。

 ……ベアトのゲーム盤における私の家族みたいに、“依り代”が必要なかったなら、いくらでも蘇らせることは出来たのだ。

「そうね。……確かに、さくたろうはお姉ちゃんの駒かもしれないわ。少なくとも、依り代が無事である限り、何度でも蘇れる存在だわ。」
「そう。依り代が無事である限り、何度でも蘇ることが出来る。それが駒の命というものだ…。」

「……それが、この世界での死における1つ目。……もう1つは?」

「ゲーム盤の外の存在の死だ。さくたろうの話で続けるなら、この場合は、真里亞の死だ。」
「駒じゃなく、……本当のお姉ちゃんの死、ね。」

「死だけではない。興味や関心の喪失でも同じだ。……真里亞がぬいぐるみ遊びを卒業すれば、ゲームのプレイヤーとしての真里亞は死ぬ。さながら、テレビに飽きてスイッチを切るかのように、簡単にあっさりと。」

「………なるほど。つまりプレイヤーとしてのベアトは、前回までのゲームで、勝利を完全に諦めたので、……死んで消え去ったわけね。…ならつまり、ベアトが再び、お兄ちゃんに勝てるつもりになって戻ってきたら、生き返るってことだわ。」

「理屈ではそうだ。人も魔女も神さえも。興味と関心を失えばいつでも死ねる。そして、それを取り戻せばいつでも蘇れる。……しかし、神の世界には時間の概念がないから、いつ蘇るも自在だが、矢の如く時が過ぎ去る人の世では、それは容易ではないな…。」

「そうね。1日のズル休みならともかく、3日もサボると、学校に行くのがものすごく億劫になるわ。」

「それが1ヶ月、1年、10年。それこそ、魔女の世界のように、千年にも及んだら?」

「……なるほど。ズル休みもそれだけになればもはや、社会における“死”ね。……それだけの長い間、死んでいたら、社会的な遅れを取り戻せないだけじゃなく、当時のモチベーションだって、絶対に蘇らないわ。……それはつまり、命があっても、一度死んだのと同じことだわ。二度と、……元の自分には戻れない。蘇れない。」

「ベアトは、勝てる道理も希望も全て失った。……それを知りつつ気付かぬふりをし、あれだけのゲームを戦ってきたのだ。だからもう、ベアトは戻らない。彼女の希望は潰えた。気を取り直して再び戦う気力の全てを、もう費やしている。だから。……あのベアトリーチェが蘇ることは、二度とない。
 あの、第5のゲームで、ずっとずっと虚ろな瞳のままぼんやりとしていたベアトはまさに、……彼女の骸だったのだ。
 それでもゲーム盤に留まったが、……消え去ってしまった…。
 もしあの時、ラムダデルタでなく、ベアトがゲームマスターだったなら、その時にゲーム盤も消え去り、全ては終わるはずだった。
 思えば、第4のゲームの終盤頃から、ベアトは戦意を失い始めていた。
 ベアトが戦意を失えば、……このゲームの世界は、消える。

 しかし、このゲーム盤の世界を遊び続けたい魔女たちが、ラムダデルタがそれを許さず、呪いの枷で彼女を縛った。
 例えベアトが戦う意思を失っても、ゲーム盤が消え去らないように、枷で固定したのだ。
 それはさながら、チェスで言うなら、制限時間を撤廃して無限にしたようなもの。

 しかし、だからといって、無限にベアトの手番で止まってしまっていては、魔女たちは退屈の病で死んでしまう。

 だから、ラムダデルタがゲームマスターを引き継いだ。
 ……その時、ベアトの存在が、このゲームの存在する前提条件で、なくなった。

 多分、それが理由で、彼女をゲーム盤に縛る枷が解けたのだろう。

 だから、第5のゲームで彼女は消え去ってしまったのだ…。
「……お兄ちゃんは。ベアトに、真相に辿り着いたことを教えるには、…1つゲームが遅かったということね。」

「第5のゲームなど、ラムダデルタの慈悲だ。……戦人の、絶対に真相に辿り着きたいという信念に、絶対の魔女が慈悲を示しただけのこと…。」

「………何が慈悲よ。ただの魔女たちの暇潰しの気まぐれじゃない。……話を戻すわ。じゃあ、あのおかしなベアトは、プレイヤーのベアトじゃないってことになる。駒のベアトということだわ。」

「そうだ。……だったら、誰もがよく知るベアトになるはず。……戦人も、そういうベアトを望んだはず…。」

「…………………。……ぬいぐるみじゃ、…嫌だったってこと?」
 ぬいぐるみごっこは、ぬいぐるみに、自分のもっとも望む人格を投影できる。

 ……しかし、自分が演じるからこそ、一切のイレギュラーがない。
 望外の喜びを、一切望めないのだ。
 人の世において、予定調和ほど退屈なものはない。

 だから、ぬいぐるみは世界で一番のお友達でありながらも、……いつかは飽き、卒業する…。
 お兄ちゃんは、本当のベアトでないと嫌だったのだ。

 ベアトのふりをさせるぬいぐるみでは、耐えられなかったのだ…。

「………戦人の駒として生み出されたベアトは、戦人の望むとおりに動くだろう。」

「駒なんだから当然だわ。プレイヤーの指す通りに動く。……そして、それ以外では、一切動かない。……お兄ちゃんが何を望んでるのかはわかるわ。じゃあ、このおかしなベアトは何者なの。」

「……戦人は、ベアトを本当の意味で蘇らそうとしているのかもしれない。……人の子らの、諦めきれぬ夢、だ。」
「あんたはさっき赤を使って、それはないと否定したわ。」

「……“あのベアト”が蘇ることは、決して無い。しかし、もう一度“ベアト”を生み出すことは、不可能ではないということだ…。忘れたか? 第1のゲームの最後で、ベルンカステル自らがベアトの正体を語ったはず…。」

「……………………。……思い出したわ。…ルールが具現化した存在、みたいなことを言ってた。」

「そのルールと情報が練り上げられ、最終的に、あのベアトリーチェという魔女が形作られたのだ。それを再びなぞれば、同じベアトリーチェをもう一度生み出し、それをもって復活と呼ぶことも出来よう…。」
「………つまり、あのおかしなベアトは、………さながら、ベアトの卵、…あるいは雛ってところね。」
「そう解釈するのが妥当であろう…。……即ち、このベアトこそが、あのベアトへ至る雛なのだ。」
「それはつまり。………この純情可憐な子が、やがてはあの、ひねくれてイカれた魔女に成長するってことね。」
 つまりは、あのベアトは、私たちのよく知るベアトの、赤ん坊。

 生まれながらの悪党などいないように、……生まれたばかりのベアトもまた、悪ではなかったわけだ。
 それは確かに別人だけれど、………本当に根底の、…魂の部分で、……それは確かに、復活と言ってもいいかもしれない。

 ……しかしそれはきっと、……受け入れるのは容易ではない現実。
 理屈上では、確かにベアト本人でも、……それは紛れもなく、……別人なのだ。

 誰が見ても違和感を覚えてしまうような、あのような感じに……。

「退屈しない…。……そなたの朗読は楽しい。」
「……あんたに朗読が必要なのか疑わしいわ。…あんたはもうすでに、全てを知っているように見える。」

「そなたと対話をしているから、その思考に至るだけだ。……我が思考は八百万を束ねて超える。人の子には、まるでそう見えるだけに過ぎぬ。……されど、そなたがいなければ、思考する力さえない、か弱き病人に過ぎぬ…。」

「最初からそう言えば、もっと素直に朗読を引き受けてやったのに。」
「……私の機嫌が良くなっただけのこと。…浮かれるな。私はお前の命など、しおり代わりに挟んだまま忘失する木の葉よりも軽んじているぞ…。」

「続きを読んで下さい、お願いします、って解釈するわ。OK?」
「ふっ……。退屈しない。…そなたは巫女として優秀だ。」
 フェザリーヌは揺り椅子を軽く揺らしながら天を仰ぎ、そのやり取りさえ小気味良いと笑った。

 縁寿も次第に、このおかしな魔女の扱い方がわかってくる。
 ……彼女もまた、退屈なのだ。
 病床の長い病人は、退屈が過ぎれば時にひねくれもする。
 その一方で、やさしくされることにも少し飽きている。

 自分を目上だと多少は敬ってもほしいが、少しぞんざいな口調で扱われる方が、多分、面白いのだ。
 ……なぁんだ。
 つまりかつての私と、同じじゃないか。
「とにかく。……第4のゲームでベアトとお兄ちゃんに何か確執があったことは間違いないの。このベアトを知ることは、真相に至る鍵の一つになり得るわ。」

「そうであろう。……私も興味を持った。…彼女の物語も、併せて読むのだ。」
「はいはい、仰せのままに。我が主。」

 縁寿が指揮者のように両手を振り上げると、不思議な書斎の本棚たちが応える。

 ……再び、何冊もの本がふわりと飛び出し、縁寿を中心に渦を作った……。
 金蔵の書斎は、ニンゲンの世界での、主の部屋。

 ならばこの、人ならざる世界の書斎は、……ニンゲンを俯瞰する、このゲーム盤の主の部屋なのだ。
 だから、書斎の中央に仁王立ちするローブの男は、一瞬、金蔵と見紛うかもしれない。
 違う。

 ……それは、ゲームマスターを継承し、新たにこの世界の領主となった、戦人だった。
「……………………………。」
 戦人の周囲に、光のカケラが、まるで天体のように渦巻き、……床には赤い魔法陣のようなものが浮き上がっている。
 それは傍目には理解の出来ない幾何学模様に過ぎない。

 しかし、その中心に立つ戦人にとっては、新しき物語の筋書きそのものなのだ…。
 戦人の目線を追うように、魔法陣の新しい線が伸びていく。

 そして、複雑な形をした記号にそれが連結した瞬間、魔法陣全体は、力強く瞬いた。
「……これで、……どうだ。」
「見事です、お館様。……第6のゲームの、完成でございます。」

 額の汗を拭い、ようやく緊張を弛緩させる戦人に、後ろでそれをじっと見守っていた源次は、深く頷いて答えた。

「……俺は、ゲームマスターってのは、もっと好き勝手に物語を作っているものとばかり思っていたが。……想像以上に骨が折れるな、これは。」

「複数の物語を描き、その表裏を合わせねばなりません。……それにしても、初めてとは思えない、見事なお手並みでした。……ヱリカさまも、きっとこのゲームならご満足いただけるでしょう。」

「あの探偵殿の好みに合うといいんだがな。……しかし、…ベアトを純粋に尊敬するぜ。…よくあんなややこしい物語をあっさりと作ってみせたもんだ。」

「……あっさりとではありません。……ベアトリーチェさまも、深く深く悩み、物語を生み出しては、矛盾に悩み、常にロジックエラーと戦われておりました。」

「ロジックエラー?」
「物語の表裏が合わぬこと、矛盾することでございます。……これが生じると、ロジックエラーと呼ばれる致命的な反則手となり、即座にゲーム盤は破綻、崩壊いたします。魔女側が犯せぬ、最大最悪のミスです。」
「ベアトのゲームも。何度かそれに抵触しそうになったのか…?」
「……ゲームを生み出す際には、常にそれと戦われておりました。…特に、戦人さまが手強くなられてからは、相当の苦労をなさっていたようです。」

「…………今回の俺のこのゲームは。……ベアトに見せても、…恥ずかしくない出来、かな。」

「……はい。……それはもちろんでございます。」

「……………。……ベアトは、まだ目を覚まさないのか。」

「………………………。」
「ルールの擬人化から体を組成して、もうだいぶになるはずだ。まだ目覚めないのか…。」
 源次はしばらくの間、沈黙を守った後、答えた。
「……三日ほど前に、お目覚めになっております。戦人さまが第6のゲームの設計に集中されておりましたので、お知らせを控えておりました…。申し訳ございません…。」

「そうだったかっ。あいつめ、だいぶ長いこと寝てたから寝ぼけてやがったに違いない。あいつにぜひ、俺のゲームを見てもらいたかったんだ! いや、あいつに俺はゲームを見せなきゃならないんだ。俺が全てを理解したことを、あいつに教えなきゃならない。」

 戦人は表情をほころばせて喜ぶ。

 その表情には、かつてベアトを家族の仇と憎んでいた頃の陰りは見られない…。

「……ある意味。…これが第5のゲーム、最後の謎だったわ。」
「そうだ。……戦人は真相に至ると同時に、ベアトに対する心証が大きく変わった。」

「それはつまり、やはりお兄ちゃんとベアトには何かの関係があって、それを彼が忘失していたと考えるのが適当なの…?」

 しかし、第4のゲームでそれを疑った戦人はそれをベアトに問い掛けている。

 それに対し、赤き真実で、“戦人の6年前に、ベアトリーチェという人物は存在しない”と物語では語られている…。
「……6年前にベアトが存在しなかったとも受け取れるし、6年前には戦人と縁がなかったとも受け取れる。しかし、いずれにせよ、戦人はその後、6年間。六軒島には訪れない…。」

「ベアトリーチェとお兄ちゃんは、この1986年10月4日が初対面のはず。……なのに、どうしてすでに確執があるの? さっぱり意味がわからないわ。」

「……第4のゲームでベアトが戦人に問い掛けた、右代宮戦人の罪、に何かの鍵があろうな。…その結果が、ベアトリーチェという存在なのかもしれない。」

「その結果? お兄ちゃんの罪の結果が、ベアト…?」

 それはまるで、お兄ちゃん自らがベアトリーチェという魔女を生み出したようにさえ聞こえる…。

「まるで。……ベアトリーチェとは、戦人の駒のようだな。」
「……え…?」
「6年前の戦人の罪。その罪で、人が死ぬ。殺すのは、ベアトリーチェ。……全てが6年前の戦人の罪から連綿と続くと考えるなら、…ベアトリーチェを生み出したのは戦人自身。まるで、戦人の駒のようだと思った…。」
「意味わかんないわ。お兄ちゃんが何かの罪を犯したとしても、少なくとも殺人なんかよりよっぽど軽い何かだわ。それに対する仕返しがこの大虐殺なのだとしたら、あまりにお兄ちゃんの罪と割が合わない。」
「ベアトは親族たちを皆殺しにした。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんなみんな。……それに見合う罪がお兄ちゃんにあったなんて、信じられるわけがないっ。」

「罪は量る人間によって重さが異なる。戦人にとって忘失できる程度の罪でも、ベアトにとっては、6年を経てなお、一族を皆殺しにするほどの恨みを持つに値するものだったのかもしれぬ。……まぁ、私もそれは、あまりに吊り合わぬと思うし、そして何より、そんな相手だったら、真相を知ったとはいえ、戦人があれだけ親身になるとは到底思えぬ…。」

「…………………………。」

 フェザリーヌの推測は興味深い。

 ベアトが過去のゲームではっきりと、この2日間の惨劇の原因が、お兄ちゃんの6年前の罪にあると宣言している。

 それがどんな罪だったかは、未だわからない。

 しかしそれを、彼は第5のゲームの最後で気付き、……ベアトに対し、謝罪の言葉さえ口にした。

 6年前の罪への仕返しに、一族を皆殺しにするような魔女に、……戦人は謝罪したのだ。

 ……確かに、謝罪したのは、プレイヤーの戦人であって、家族を何度も殺されている駒の戦人ではない。

 しかしそれでも、……戦人は、謝罪するに値する何かを、前回のゲームの最後に思い出したのだ…。

「……その6年前の罪。……これまでの物語のどこかに、それが隠されていたとでも言うのかしら…。」

「…私はすでにある仮説を立てている。」
「へぇ? 聞かせてよ。」

「ふっふふふふふ、まだ話せぬ。もうしばらく、私だけ答えを知っているかのような愉悦を楽しむことにする…。」

「……続き読まないわよ。」

「はっはは…、それは困る。……しばし堪え、もう少し続きを読め。私の仮説もまだ想像の域を出ぬ。……確信を持てたら、その時、話すこととしよう。」
「はいはい、我が主。私だって続きを知りたいわ。」

 お兄ちゃんとベアトリーチェに、……一体、何の、どんな関係があるというのか。

 ……多分、それを知ることが、この世界の真相に至る、一番大きな鍵になる。

 だって彼は、それを思い出すことによって、この世界の真相に、至ったのだから。
「ベアトリーチェ…!!」
「お館様、ようこそお越しを…。ベアトリーチェさまがお待ちでございます。どうぞこちらへ……。」
 ここは、ベアトリーチェのための別荘。

 ベアトが外界に触れることなく、過ごせるように作られた、彼女だけの聖域。
 胸が高鳴る。……無事に蘇ってよかった、本当によかった…。

 ベアトはルールの擬人化だ。
 だからこそ、一度滅んだが、もう一度生み出すことが可能なのだ…。
 戦人は、ベアトの体を蘇らすことには早々に成功していたが、その魂がなかなか呼び戻せずにいた。

 しかし、彼が第6のゲームの設計に没頭している間に、目覚めていたのだ。それは3日も前のことだった。
 戦人は案内され、食堂へ向かう。

 その食堂は、ベアトと自分のために用意させたもの。

 ……全ての真相に至ったからこその語らいを、紅茶をたしなみながらするための、食堂だった。
 伝えたい。
 自分が真相に至ったことを、ベアトに伝えたい。
 そして、そのための食堂でベアトが自分を待っていてくれる奇跡に、戦人は胸の高鳴りを抑えられずにいた…。

「ベアトリーチェはどうなんだ。変わりないか。元気そうか。」
「えぇえぇ、それはもうお元気でいらっしゃいます。お館様がお出でになるのを、ずっとお待ちでいらっしゃいましたとも。えぇえぇ。」

「食堂にいるのか。メシでも食ってるのか。あぁ、いいさ、何でも構わない…!」
「ほっほっほ、驚きますよ…。」
「ベアトリーチェ…!!」
 食堂の扉を勢いよく開けると、……そこには、戦人を祝福するかのような光景が広がっていた。

 大きなテーブルの上には、ささやかではあるけれど、美しく彩られた料理の皿と、シャンパンの瓶が並べられている。
 ……そして、……美しい金髪と懐かしきドレスの姿の彼女が、深々と頭を下げてお辞儀をして迎えてくれた。
「……ベ、……ベアトリーチェ…。」

「私に姿を与えて下さり、……誠にありがとうございます。」「は、…はははは…。いいんだ、そんなのは……。…良かった…。ベアト………。」

 戦人は駆け寄って、ベアトを強く抱き締める。
 その姿が霞でも幻でもないことを、力強く確かめるために…。
「……俺は、……お前の謎を、……ちゃんと解いたぞ……。なのに、それを伝える前に、消えちまいやがって……。」
「……私はここにいます…。消えたりなんかしません…。」
「やめろよ、そんな喋り方。恩を着せるつもりなんか全然ない。……とにかく、お前に謝りたい。そして語らいたい。……何から先に口にすればいいかさえわからない。」
「私がお父様に謝られることなど、何もありません。…私はただ、お父様のお役に立てればそれで幸せなのです。」
「………ベアト……?」
「ベアトリーチェはお父様のために生まれてきました。どうか、あなたの力にならせて下さい。そしてお父様。第6のゲームの完成、誠におめでとうございます。」

「だからそんな喋り方やめろって。胡散臭くてたまらねぇぜ。」
「……この喋り方ではお気に召しませんか? 不調法をどうかお許し下さい…。」

「お気に召しませんかってことはねぇが、らしくねぇぜ。やっぱお前は、いつもの口調がぴったりだ。」

「…………………。」

 ベアトは曖昧に笑う。

 戦人にそれは、似合わない口調を互いに笑い合えたように見えたかもしれない。

 ……しかしベアトは本当の意味で、曖昧に笑ったのだ。

 だって、どう“喋ればいいのか”、わからなかったから…。

「それよりベアト。一体、これは何の冗談だってんだ? まさか、大ベアトリーチェさま自らが、手料理を作ったってのか…?」

「第6のゲームが完成されましたと聞き、ささやかですが、労いの席が設けられないかと思いまして……。」
「…ほっほっほ。ベアトリーチェさまが、それはもう、大層頑張られてお作りになられたんですよ。私は一切手伝っておりませんとも、えぇえぇ。」
 テーブルの上に並ぶ料理は、確かにささやかで、やや不器用なものだった。
 料理を得意としないベアトが、精一杯がんばって作った苦労が見て取れる…。

 しかしもう、戦人の顔には違和感と焦燥感が浮かび始めている……。

「……これは、………どういうことだ…。」

「えぇえぇ、ですから、ベアトリーチェさまがお館様を労おうと……。」

 熊沢の額にも、うっすらと汗が浮き始めている…。

 ……彼女とて、…違和感を持っているのだ。

 それを見て取り、戦人はそれが自分だけの勘違いではないことを理解する。
 ベアトは戦人に背を向けながら、シャンパンの瓶にコルク抜きを刺す。
 そしてそれを戦人に見せる。
「お父様、第6のゲームの完成、誠におめでとうございます。必ずや宿敵、古戸ヱリカに勝利することを祈願して、これを捧げます。」
 ポン。

 シャンパンの瓶があって、そう音がしたなら、誰だってコルクが抜けた音だと思う。

 しかし、抜けたのはコルクではなく、……瓶の底だった。
 ベアトが用意した上等なシャンパンは、バシャリと落ちて、床と彼女のドレスを汚す。
 そして同じ音が数度、繰り返す。

 ……その度に、テーブルの上の料理の皿が弾けて飛んだ。

「お、……お父様、……お気に召しませんでしたか…?」「お前は、……誰だ…。」

「…わ、……私はベアトリーチェでございます。…お父様のために生まれてまいりました…。」

「違う…。」
「ぇ………。」

「こいつは誰だっ。ベアトじゃない…!! そして俺を、お父様なんて呼ぶなッ…!! これはどういうことだ?! 何なんだこれは?! ベアトを蘇らせたんじゃなかったのか?! 源次ッ、これはどういうことだ!!」

「……畏れながら。紛れもなくそのお方はベアトリーチェさまでございます。」

「そんなはずあるかッ! これのどこがベアトなんだ?! 全然違う、偽者だ!!」

「いいえ、ベアトリーチェさまでございます。ゲーム盤のルールに従い、生み出された、紛れもなくベアトリーチェさまご自身でございます。」

「いいや、こんなのはベアトじゃない…!! ベアトってのはもっと、おかしな喋り方をして、品の無い笑いをして、それからそれから…ッ!!」
「いいえ、間違いなくベアトリーチェさまご自身でございます。」
「じゃあ、どうしてこんな喋り方をする? どうして俺をお父様なんて呼ぶんだ?!」

「ベ、ベアトリーチェさまはお生まれになったばかりでございます…。かつてのような振る舞いをいきなり期待されるのは、あまりに酷というものでございます…。」

「まだ記憶が戻らないということなのか?」
「………お館様。確かにこの方は、ベアトリーチェさまご自身です。しかし、お館様がよくご存知のベアトリーチェさまではありません。」

「どういう意味だ…! 俺はゲームマスターなんだろ?! どうしてベアトを蘇らせられないんだ…?!」
「えぇえぇ、確かに蘇りましたとも。しかし、かつてのベアトリーチェさまは、千年を経られたベアトリーチェさま。……一方、こちらのベアトリーチェさまは、ご本人なれど生まれたばかり…! 違う人間のように見えるのは、致し方ないことでございます…!」

「じゃあ…、どうやったらあのベアトは蘇るんだ?! 体はある、ここに! 魂はどうやれば蘇る?!」
「……同じ千年の人生を歩めば、かつてと同じベアトリーチェさまにもなるでしょう。」

「千年を待てと…?!」
「ひ、人の性格は生まれながらだけのものではありません。その後の生き方や経験によって、如何様にも変わります…。」

「……意味がわかりますか? 同じベアトであっても、同じでないということが。」
「わかるわ。……同じ人間が2人いたとしても、生い立ちで人はいくらでも変わる。」

「本来は同じ人間であるにもかかわらず、その生い立ちによって、別人と言ってもいいほどに変わり得る。……本来、人は人であり、人格そのものを指して人とは呼びません。しかし、人格を人だと認めるニンゲンたちにとって、それはさながら他人のようなものでしょう…。」
「……違いねぇですな。お嬢だって、12年前の気の毒な一件がなけりゃ、今頃は笑顔が似合うキュートな女の子だったかもしれねぇ。」

「失礼ね。今だって充分キュートだってば。」

 ……意味はわかってる。

 私たちにとって人格が人そのものならば。
 例え同じ肉体を共有していても、異なる人格を指して別人であると言い切れるだろう。
 少なくとも。
 今の私と、12年前の私は、まったくの別人だろう。

 そして、12年前に家族が帰ってきてくれていたなら、……やはりその自分と今の自分も、まったくの別人だろう。
 人は、同じ人間であっても、別人になり得る。
 いや、生い立ちと無限の可能性によって、無限の数の別人になり得るのだ。

 ……だから、同じベアトだからといって、……お兄ちゃんのよく知るベアトであるという保証など、まったくないのだ。
「ましてや、ベアトリーチェは千年を経た魔女。……人は三日あれば、死ぬことだって生まれ変わることだってできる。それが千年じゃ、………どうにもならないわね。」

「………あなたはなかなか出来る読者のようですね。…並の読者相手だったら、同一の人間であっても、その生い立ちと時間によって、別人になりうることをを説明するために数百ページを割かねばならぬというのに。」

「あまり読者を舐めないで。私たちはただ読んでるだけじゃない。読んで、考えてるの。」

「……100人に読ませれば、90人くらいは読める。しかし意味がわかるのは、50人。そしてそこからさらに考えられるのは20人もいない。……よく噛んで飲み込みなさいと。…ただそれだけの話なのに。くすくす。」

「しかし、“あなた”はどうやら…、その貴重な20人の中の1人らしい…。だからここへ招いたのです、人の子よ…。」

 この八城十八という人物を好きになるのは、あまりに困難だ。

 ……しかし、彼女が書くこの偽書は、……まだ冒頭の部分だけとはいえ、確かにメッセージボトルの物語と、とてもよく似た何かを感じる。

 抽象的に言えば、……匂い。

 何とも形容できない、……空気の淀んだ図書室のような、…癖の強い、硬い空気の感じ。

 メッセージボトルを記した“ベアトリーチェ”と、八城十八は別人。

 ……であるにもかかわらず、その物語は、同じ匂いを持つ…。

 ……なるほど。
 物好きなウィッチハンターたちの一部が、熱烈に信奉するのが、よくわかってきた…。

 彼らの鋭い嗅覚が、この同じ匂いを敏感に嗅ぎ取っているのだ……。

「さ。……どうぞ、続きを読んで。文字を追うあなたの顔を見るのが、何よりも楽しいの。そして、言葉を交し合うことも…。」

「物書きは感想に飢えてるってのは本当ね。……でも申し訳ないけど、こんな分厚い原稿を、延々と読んでる時間はないの。それより私はあなたに、……………。」
「……時間なんて、いくらでもあるでしょうに……。」
 彼女の後ろにある、凝った意匠の飾り時計は、……振り子も秒針も、ずっと動かし続けている。

 なのに、……全然、さっきから時間が経っていない。

 この部屋に通されてから、まだ3分くらいしか経っていないのだ…。

「ね? 時間など、気にすることもないでしょう。……あなたが読み終わるまで、全ての時間はあなたを追い立てない…。」
「……………………………。」

「お嬢、次のページ、次のページ。」

 天草に次のページをせがまれるので、……私は再び、物語の世界へ戻る。
 ……なぜ、彼女の物語は、ベアトリーチェのそれと、同じ匂いがするのだろう…。

 彼女が自称するように、……真相に、至っているから?
 真相を知る者には、いくつでもメッセージボトルを無限に生み出すことが出来る、というのだろうか。

 ……それこそが、猫箱の世界…?
 なるほど。……確かに彼女もまた、無限の魔女なのかもしれない。

 そして。……真相を知ったなら、誰もが無限の魔女になれるのかもしれない。
 無限の魔女たちによる、無限の物語。
 無限に弄ばれる、1986年10月4日からの二日間。

 ……終わらせなきゃ。

 この物語から真相の手掛かりを得て、……この無限の物語を、終わらせる。
「どうだ、ベアト。俺の作った、第6のゲームは。」
「……………………。」

「まぁ、素直に褒めるヤツじゃないもんな。せいぜい、“無能なりにそこそこ頑張ったではないか”、ってとこだろうぜ。」

「くっくくくく。無能なりにそこそこ頑張ったではないか。」

「へっ。ゲームマスターの立場になってよくわかったぜ。……お前も毎回、ずいぶんと苦労してやがったんだってな。」
「……………………。」

「“ゲームを作るのは楽なことではない。よもやそなたと、それを労い合う日が来ようとはな”。」

「ゲームを作るのは楽なことではない。よもやそなたと、それを労い合う日が来ようとはな。」

「…………………………。」
「…………………………。」
「……違う…。……こんなのは、……ベアトじゃないッ…。」
 戦人は激しく机を叩くが、駒のベアトは何の反応も示さない。

 ……戦人が“それに反応するように”命じないから。
 駒としてなら、あのベアトを蘇らせることは容易い。

 しかしそれは、戦人が望んだ通りに動くだけ。

 ……会話だって、これじゃ、……独り言を言ってるのと、……何も変わらない………。
 ゲームマスターは、どんな駒でも呼び出せる。
 そして駒たちをどのようにも動かせ、絶対の神として君臨できる。
 ……しかし、だからこそ、……ただの駒。

 それは信じられないほどに、孤独で、……悲しい。
「……お前はたくさんの家具たちや、色々な物語を紡ぎ出して来た。……俺はそれを見て、……お前はきっと、さぞや楽しいだろうなと思っていた。」

「“だが違う”。」

「お前は、……信じられないくらいに、孤独だったんだ。」

「“お前にとって、…俺という、自らに反逆する対戦相手が、どれほど愉快なものか。今の俺には、痛いほど理解できる”。」

「………あの、礼儀正しい、おかしなベアトは、……確かに、お前なんだろうな。……千年前の。」
「“しかし、……別人だ”。」
「お前の姿に瓜二つだからこそ、むしろ許せない…! 辛い……。」
「“しかし、駒ではないから、俺の意思に背ける”。」
「駒のお前なんかより、あのベアトの方がはるかに血は通ってるだろうぜ。それは認める! だが、違うんだ!! あれはお前じゃない! お前の生き別れの妹か何かで、まったくの別人なんだ! だからむしろ、……どうしても受け入れられない…!!」
 ……これほどまでに、駒のベアトを嫌悪しながらも。

 戦人はそれ以上に、……“雛”のベアトを嫌悪する。
 たとえ、千年を経ても。
 二度と元のベアトにはならない。

 仮に、元のベアトの真似をするように命じたところで、……それはただの模倣だ。

 ベアトによく似た別人であって、断じてベアト本人ではない。
 ……やはり、………ベアトは前回のゲームで、……本当に永遠に、消え去ってしまったのだ…。

 ゲームマスターになってさえも、………蘇らせられないのだ………。
「……笑えよ。この無様な俺を。」
「…………。……ふっふふふ、くっくっくっく。ふっひゃっはっははははっはっはぁあああ!!」
 うるせぇよ……。

 俺が笑えと命じなきゃ笑えず、……それを命じ続けなきゃ、それを続けることさえ出来ない、……幻め…。……消えてくれッ!!
 ……六軒島は、今日も、…いや、今回も何も変わらない。
 台風はもうじきやってくる。
 今はまだ曇天だが、雲の流れは速い。
 夏妃は、金蔵の不在を今年も何とか誤魔化そうと、その工作に余念がない。
 蔵臼はそのストレスのせいか、胃痛を起こし、部屋で休んでいるようだった。
 朱志香と熊沢は、買い物と、新島で親族を迎えようと、先ほど船で出て行った。
 使用人たちは皆、一年で最大の行事の準備のため、早朝から慌しい…。
 紗音と嘉音は、ゲストハウスの準備に追われていた。

「……親族の方々を泊めるなら、お屋敷の客室で充分だろうに。」
「そうね。こっちのお掃除、大変だもんね。……でも、ゲストハウスのお掃除は、好き。」

「奥様や、他のムカつく使用人もいないから静かでいいもんね。」
 紗音は苦笑いしながら、客室の細部を点検していく。

 掃除のし忘れがないか、消耗品が切れていないか。
 最後のチェックを、彼女は入念にこなす……。
「昨夜も入念に点検したじゃないか。姉さんは本当にマメだな。」
「こういう日に限って、油断すると悪戯されるの。……いざって時、大切な物が見つからなかったり、閉めておいたはずのものが開いてたり。」

「姉さんはそそっかしいからね。よく確認しながら仕事をしないからだよ。」
「だから私と一緒に点検してくれてるんだよね。ありがと。」

「……別に感謝されることじゃないよ。姉さんがしっかりしてくれれば、僕まで付き合わなくて済む。」
「………くす。本当は私と一緒にいたいんだよね? 甘えん坊さんなんだから。」

「そ、そんなんじゃないってば…。姉さんは最近、譲治さまのことで浮かれてるみたいだからね。ミスが多そうで見てられないだけだよ。」
「くす…。……嘉音くん。ちょっとお喋りしよっか。」
「……駄目だよ、仕事中だよ。」
「私と譲治さまのことばかり茶化して。……嘉音くんと朱志香さまはどうなの?」
「べ、……別に何もないよ。そんなことよりちゃんと仕事を…。……わっ、」

 嘉音は、あまりに露骨に話題を逸らそうとする。
 それを後ろから、えい、と紗音がベッドに押し倒す。
「お嬢様に、一緒に親族の方々をお迎えに行こうって誘われたのに、どうして断ったの?」

「………仕事があるし…。」

「嘘。……仕事なんか、何もないくせに。」

 紗音と嘉音の攻守が、逆になる。

 普段は嘉音の方が優位なのに、恋愛の話になると、それは逆転した。

 紗音の言うとおり、……本当は、新島の港に親族たちを迎えに行くのは、朱志香と嘉音のはずだった。

 しかし、嘉音が、仕事があるからと突然言い出したので、熊沢と変わったのだ。

 嘉音には仕事など、なかった。それを紗音は知っていた…。

「お嬢様、言ってた。……文化祭の時のことがあっても、やっぱり嘉音くんが好きだ、って。」
「…………僕は、家具なのに…。」

「そうだね。私も家具だね。」
「……なのに、姉さんはニンゲンと恋をしてる。……できるわけなんてないのに。」

「そうかな…。……そう決め付けてるから、…私たちは家具なんじゃないかな。」

「僕は朱志香お嬢様のことを、何とも思ってない。……お仕えする右代宮家の御令嬢だとしか思ってない。」

「本当に…?」
「本当さ。」

「……………………。」
「……な、……何。」

「私ね。…………ひょっとすると今夜。…譲治さまに求婚されるかもしれない。」
「……………っ。」

 紗音の顔は、とても涼しげな笑顔が浮かんでいたけれど、……決して話をはぐらかさせない強さも感じさせた。

 嘉音は、きっとこの話をするために、ゲストハウスの仕事を手伝わされたのだろうと気付き、小さく舌打ちする…。

「……家具のくせに、ニンゲンと結婚なんか出来るつもりなの。」
「出来ると思う。」
「無理だね。」
「どうして。」
「譲治さまの描く未来の夢を、姉さんは叶えられない。」
「そ、……それは……。」

「……僕たちはニンゲンじゃない。それに劣る、家具。譲治さまは姉さんをニンゲンだと思い込んでるだけ。」
「…そ、……それはそうかもしれないけど……。」

「今日までよく騙し通してこれたものだと思うよ。そうやって、いつまで譲治さまを騙し通せるつもりなの? 自分が家具であることを、未だに話せない姉さんが。」

「……家具とかニンゲンとか、…そんなの関係ない。……譲治さまは、私の全てを受け止めてくれると思うの。」

「それを確かめる勇気もないくせに。」
「……………………。……私ね? ……求婚、…受けてみようと思うの。」
 紗音は天井を見上げながら、……自分と譲治で描ける新しい未来の想像を語った。

 その表情には、未来への不安はありながらも。……愛に生きることを覚えた喜びも浮かんでいた。

 嘉音はそれをまざまざと見せられ、……そんな紗音に、もう、どんな言葉も届かないことを知る…。
「……ふん………。…好きにしたらいいよ。……姉さんは一度言い出したら、どこまでも頑固だから。」

「うん。……私の、生きたいように生きてみたい。……もう、家具だからとか、ニンゲンだからとか。…そういうのに怯えるのは、止めようと思うの。」

「……………………。」
 嘉音は無言で窓際へ行く。

 ……薔薇庭園が、つまらない灰色の花をいっぱいに咲かせているのが見えた…。
 紗音が身の程知らずなのはわかってる。
 そして、決して幸せに幕を下ろすことのない物語であるのも知っている。

 ……しかし、覚悟を決めた紗音に、今さらどんな言葉を掛けたとしても、それを思い留まらせることなど出来ないと、嘉音もよく知ってる。
「………なら、……僕が言えることなんて、何もないよ。……やめろと言っても姉さんは聞かない。好きにすればと言えば、好きにする。……何で僕にそんな話をするのさ。僕の答えなんて、姉さんは何も求めてないじゃないか。」

「私が知りたいのは、……嘉音くんの、お嬢様への気持ちなの。」「……僕は姉さんたちとは何の関係もないよ。」

「嘉音くんは、……本当にお嬢様のことは、…何とも思っていないの?」

「……思ってないって、何度も言ってるよ。」
「嘘。」

「どうして嘘だってわかるの。」
「わかるもん。姉さんだもん。」

「わからないよッ。僕の気持ちなんて…!!」
「わかるよ。嘉音くんのことなら、私は何でもわかる。」
「本当にわかってるなら、どうして聞くんだよッ! 姉さんは譲治さまのことで、もう胸も頭もいっぱいじゃないかッ!! そして、僕もそんな一途な姉さんが大好きなんだッ! だから、……僕なりに応援してるんじゃないか!! そうでなかったら、……僕だってッ!!」
「僕だって?」
「僕だって、………お嬢様を好きになりたかったッ…!!!」

 嘉音はようやく振り返り、偽らぬ感情を、心の底から伝えた。

 それが、紗音は聞きたかったのだ。
 そして、それを聞いた上でさらに、嘉音の本当の心に迫る。

「そんな言い方じゃ駄目。許さない。」
「じゃあどうすればいいんだよッ!! 何て言えばいいんだよッ!!」

「好きになりたかったなんて言い方で誤魔化さないで。嘉音くんの、素直な気持ちを、そのまま口にすればいいの。」
「僕には、……眩し過ぎるんだよ、お嬢様が!! 太陽のようで、生き様が眩しすぎて!! そんなお嬢様が好きなんだ…! そんなお嬢様に手を差し伸べられて、……共に歩こうと言ってもらえて嬉しかった!! うぅん、嬉しいんだッ!!」
「好きなんだよね?」
「あぁ、好きさ!! お嬢様が大好きだッ!!」
 嘉音はようやく、……想いの全てを告白する。
 いや、自ら口にしてようやく、自分の偽ざる気持ちを理解したのだ。
 激情の雫を両目に浮かべ、……ようやく嘉音は、それを認める…。
 ぼろぼろと零れ落ちる涙を、止められない。
「お嬢様も僕も、この島に閉じ込められて、何の希望もなく生きてるのはまったく同じだった…! なのにお嬢様は自らの道を自ら照らし、自らの足で運命を切り拓くんだ…! それが眩しくて、羨ましくてッ!! お嬢様と一緒になら、……こんなみすぼらしい自分じゃない、別な、本当の自分を見つけられそうな気がして…!!」
「お嬢様の告白を拒絶して。……悲しかった?」
「悲しかったッ!! 自分につく嘘が、こんなにも辛くて悔しくて悲しいなんて知らなかった!! そして僕のそんな嘘が、お嬢様を傷つけたのが、堪らなく許せなかった!! そんな自分に、もう二度と恋をする資格なんてないと思ってたッ!!」
「あるよ。恋の資格はね? 自分だけが与えられるの。家具だから駄目とか、そんなの関係ない。駄目だって自分で決めたら、もう駄目なの。決め付けちゃ駄目。だから私は与えたよ、この身の程知らずな家具の身に、恋の資格を。だから嘉音くんにだってあるよ。」
「恋をする資格が?」
「うん。あなたにあげられないなら、私があげる。」
「ありがとう。……僕は、……やっと、……海が、…見られる気がする……。」
「……きっと。譲治さまは今夜。……私に求婚すると思う。」
「…………………………。」
「求婚を、私は受けて。……この島を出て、譲治さまと新しい天地で、新しい生活をするつもり。」
「それが、姉さんの選んだ道だというなら。……僕に、何も言えるわけがない。」
「この島を出て、……そしてこの島へは、二度と帰らない。……嘉音くんとは、お別れになる。」
「………………………。……そうだね。……僕たちは、……お別れだね。」

「もし。……嘉音くんが心の底からお嬢様を愛していて、……それが、私の譲治さんへの思いと同じか、それ以上だと言えるなら。………私は、あなたと、決着をつけなきゃならない。」
「……ね………、…姉さん……。」

「それが、お互いのため。………嘉音くんの想いを、私を理由に、諦めないで。」
「僕のわがままが、姉さんの幸せを傷つけるかもしれないのに……?」

「私も、自覚してるよ。……私の幸せが、……嘉音くんを傷つけることを。」
 私たちは、傷つけ合わずには、いられない。

 紗音はそう言い、嘉音に背中を向ける…。

 嘉音はその背中に、……紗音の強さと、…それでもなお自分を想ってくれる姉の愛を感じた。
「……姉さん。僕は、姉さんと一緒で、幸せだったよ。」
「私もだよ。君がいてくれたから、今日まで頑張れた。……だから、譲治さんとも出会えた。」
「うん。僕も姉さんが教えてくれたから、……お嬢様の眩しさに気がつけた。」
「私は、自分の想いを曲げない。……その気持ちだけを見つめて他を無視して、嘉音くんの心を踏み躙ることから目を逸らさない。」
「……僕も、姉さんを理由に、……自分の気持ちをもう、偽らない。」「私の恋が実っても。君の恋が実っても。………私たちは互いを祝福しよう。」
「うん。……約束する。そして僕が勝ったら。……お嬢様を愛し、……姉さんも大切にする。」
「ありがとう。でも私が勝ったら。……君と島を忘れて、ここを永遠に出て行く。」
「うん。……勝ったら。自分の恋に、全力を。……たとえそれが報われない恋だと知っていても。」
「うん。私たちは、だって、もう。」

「「家具じゃ、ない。」」
 親族たちの乗った船が六軒島の船着場に到着する。

 船上での戦人の騒ぎを茶化しながら、一行がぞろぞろと下船する…。

 それを出迎えるのは郷田だけでなく、嘉音の姿もあった。

「皆様、ご無沙汰をしております。六軒島へようこそいらっしゃいました。」
「……長旅、お疲れ様でした。六軒島へようこそ……。」

 そうそう、お上手ですよ。
 郷田が小声で嘉音を褒める。

 それを嘉音はちょっぴりだけ不機嫌そうに無視して、親族たちへの会釈を続けていた。

「戦人くんは、郷田さんも嘉音くんも初めてだよね?」
「うー! 真里亞も戦人初めて! きゃっきゃ!」

「郷田さんは凄腕のシェフでいらっしゃるんだぜ。この島に来る唯一の楽しみさ。」
「光栄でございます。戦人さま、どうか滞在中のお食事はご期待いただければ幸いです。」

「そりゃ楽しみだぜ…! よろしく!」

「嘉音くんもお久し振りね。今日は元気そうね。良かった。」
「……そ、そうでしょうか…。」

「そうね。顔色が悪くないわ。血色がいいというか、目つきが凛々しくなったというか。」
「ははっ、成長期なんだろ。そうして少年は大人になってくんだなぁ。」

「普段のあんたは今にも貧血で倒れちゃいそうな顔ばっかしてるのに。今日は少し違うわ。」
「生気があるんや。男子は三日ありゃ成長するもんなんやで。嘉音くんも少しずつたくましくなってるっちゅうことやな!」

「からかわれてないわよ。みんな褒めてるのよ。くす。」

 ……嘉音は、今日から少しだけ、生き方を変えようと誓ってはいた。
 でも、それは胸の中だけの話で、それを表に出したつもりはまるでなかった。

 それを、開口一番に見破られたようで、……そんなにも自分の顔は普段と違うのかと、戸惑いさえした。
 いや、……むしろ、普段の表情が、そんなにも顔色が悪く見えるものだったのかと、そちらを驚くべきだった。
 一行は郷田を先頭にゲストハウスへ向かう。
 嘉音はしんがりで、熊沢の買い物の荷物を手伝っていた。

「……僕、…今日はそんなにも顔色がいいでしょうか。」
「ほっほっほ…。私にもそう見えますよ。……何かいいことありましたぁ? くすくすくす。」

 熊沢にまで言われる。
 ……嘉音は自分の顔がどんなのかわからず、気恥ずかしくなって俯いてしまう。
 ……薔薇庭園までやってくると、一行がゲストハウスへぞろぞろと入っていくのが見える。

 するとそこから、朱志香が駆けて来るのが見えた。
 ……朱志香お嬢様にまで、今日は機嫌が良さそうだねと言われるのかな。

 嘉音はさらに俯いてしまう。
 だから、半ば小さく逆上するかのように、先に嘉音の方から口を開く。

「……僕は、そんなにも違うんですか。」
「え? あ、ははははははは。……ほら、嘉音くんってさ。積極的に挨拶とかする性分じゃないでしょ。だからみんな、珍しいと思ったんじゃないかな…。」

「…………………。……先ほどは、お嬢様にご同行できなくて、申し訳ありませんでした。」
「え? あ、いいよいいよ…。こっちこそ、新島まで迎えに行くから付き合ってなんて、下らないことに誘ってごめん…。嘉音くんだって今日の仕事、いっぱいあるだろうし…。」
「仕事は、……特にありませんでした。……お嬢様が眩し過ぎて。…一緒にいることに耐えられないほど。……僕が弱かったからです。」
 嘉音が何を言い出すのかわからず、朱志香もまた、戸惑う。
 でも、笑って誤魔化してはいけない何かだけは理解できていた。

「……何かあったの、嘉音くん…。」
「紗音が、……結婚するって。」

「………そっか。…やっぱり譲治兄さん、今回でプロポーズするんだね。」

 朱志香は嘉音の様子が違うのは、紗音との別れが悲しくて心境に変化があったからだろうと思った。
 嘉音も、そう思われてるだろうとわかっていた。

 ……だから、はっきりと自分の言葉を、素直に口にする。伝えるために。

「僕は、姉さんがここを辞めることがあった時。自分も辞めると決めていました。」
「……知ってるよ。…じゃあ、嘉音くんも辞めちゃうの?」
「今は、わからなくなりました。……辞めたら、お嬢様という太陽が照らしてくれた何かを、また見失ってしまいそうだから。」
 朱志香は何を言われてるのかわからず、呆然とするしかない。
 ……しかし、嘉音が大切なことを伝えようとしていることだけはわかる。

 だから、続く言葉が、何のまやかしも誤魔化しもなく、そのままに受け取れる…。
「僕は、朱志香お嬢様のことが、好きです。」
「…………わ、………私もだよ…っ…!」
「あなたの太陽の如き生き方を、僕も一緒に歩んでみたい。あなたとなら、家具と蔑んだ自分から決別できるかもしれない気がする。」
「嘉音くんは家具じゃない。そして使用人になるために生まれてきたのでもない! 年頃の男の子として、もっともっと、人生を楽しんでいいはずなんだよ…! は、ははははは。私も、……眩しいや。嘉音くんが眩しくて、……目が見られない。」
「これが、偽ざる僕の気持ちです。………それを、…今まで誤魔化してきて、すみませんでした。……僕の臆病さが、お嬢様を傷つけたあの日を、お詫びします。」
「いいよ。その言葉だけで、……私は嬉しい。」

「だから。……僕はお嬢様といつまでも一緒にいるために、……家具をやめようと思います。僕に、そのための時間を下さい。……最後に、その弱さを許して下さい。」

「よ、弱さなんてとんでもない…! 嘉音くんは見せてくれたよ。今までの自分と決別したいっていう、飛び切りの勇気を。だから私は応援したいし、急かさずいつまでも待つよ。」

「……私が太陽になって君の道を照らせるなら。私だって、君という人がいてくれたから、誰よりも眩しく輝いて、君の瞳に私だけを映したいと思った。君がいなかったら、私だって太陽になんて、なれなかった。……だから待つよ。ずっと。」
「ありがとう、お嬢様。」
「……お嬢様は、もう嫌だな。」
「名前で、……呼んでもいいんですか。」

「うん。………あ、二人きりの時だけね? じゃないとその、…嘉音くんに迷惑を掛けるかもしれないし。」
「……そうですね。姉さんたちもそうしてるらしいし。」

「紗音が婚約するって話にならなかったら、……こういうことは言ってくれなかった?」
 嘉音は再び俯き、しばし言葉を失う。

 しかし、それが真実だった。
 紗音が婚約のことを打ち明けてくれなかったら、今日、今ここで、こんな話をしなかっただろう。
「………はい。…だからこそ、真剣に考えることが出来ました。」

「そんなこと言っちゃって。紗音の話を聞いてて、恋がしてみたくなっちゃった?」
「はい。」

「……す、素直だな。……ま、……まぁ、私も……。紗音たちを見ててその、……羨ましいなぁと思って…。」

 本当は、二人とも、違う。

 恋の気持ちを口に出し、相手に伝える勇気を教えられたからだ。
 嘉音も、朱志香も。

「……僕は、……何と、お呼びすれば。」
「朱志香がいいな。」

「……呼びつけは、……照れます。」
「じゃあ、さん付けでもいいから、最初はっ。言ってみて? ほらほらッ。」
「じぇ、………朱志香さん……。」
「うん、今はそれでいい。だから私も、嘉音くんのこと、名前で呼びたい。……嘉音じゃなくて、……本当の名前があるんでしょ? きっと、嘉音の嘉が含まれた名前だと思うな…。な、何だろ、……えへへ…。」

「……嘉哉と、言います。」
「え、……と、……どういう字?」

 朱志香は手の平に、でたらめな漢字を色々となぞる。
 ……その手に、嘉音は自分の指で、自分の名をなぞる…。

「これで、嘉哉(よしや)と読みます…。」
「……嘉哉、くん…か…。……うん、いい名前だね。……私の変な名前と違って、素敵だと思うよ…。」

「そんなことありません。お嬢様の朱志香って名前だって、」
「あっ、それもう一回言って…!」

「え? ……お、お嬢様の朱志香って、」
「もう一回っ!」

「おっ、お嬢様の朱志香って名前だって……、その、………何か?」
「……くす。何でもないよ。ありがと。…嘉哉、くん。」
 互いの気持ちが、初めて疎通した二人を、薔薇庭園の花は、静かに赤く赤く祝福する…。

 ……その様子を、薔薇庭園の東屋で静かに見つめる、人ならざる者の姿があった…。
「…………………………。」
 思えばあの二人はこれまで、互いの名を呼んだことはなかったのだ。
 朱志香は、嘉音の本当の名を知らなかった。
 嘉音は、朱志香を名前では、呼ばなかった。

 相手の名を呼んで、人は魂の価値を認める。
 だから、名前は神聖。
 ……それを口にすることを許されることは即ち、自分の魂を認めてくれたということ。
「……だから、……お父様は、名前を呼んでほしいと……?」
 いや、……それは多分違う。
 お父様は、かつての私という、もう一人の私の面影を私に重ねられているのだ。
 そしてその私はお父様のことを、きっと名前で呼んでいたに違いない。

 だからといって、……お父様はきっと、私が名前で呼んでも、きっと良い気持ちにはなられないだろう。
 なぜなら、………私は私であって、………お父様の知るベアトリーチェでは、ないからだ。
 ……私は、お父様のために、……何をすれば良いのだろう……。
 お父様の、お役に立つ。

 それだけが、私の生まれてきた理由なのに……。
 ベアトリーチェは俯きながら、薔薇庭園と地続きになった黄金郷の東屋で一人、……たそがれるのだった…。
 その様子を、……観劇の魔女たちも、向かいに座り、じっと見ていた…。

「………可哀想な子ね。」
「そなたがベアトに同情するとは思わなかった…。」

「……このベアトを、かつてのベアトと同一人物と呼ぶのは、酷な話だわ。これはまったくの別人じゃない。」

 確かにこのベアトはルール上は本人かもしれない。

 ……しかし、そうだと認めるのは、あまりに彼女に気の毒な話だった。

「………かつての好敵手を蘇らせてこれでは、戦人も気が滅入ろうというもの。」

「お兄ちゃんの絶望も、少しはわかる。……でも、この子の気持ちもわかるの。……人は決して、誰かの身代わりにはなれない。それがたとえ、かつての自分であってもね。」

 新しい自分たちを見つけるため、互いを本当の名で呼び合った少年少女たちと比べ、……あまりにその魔女の姿は弱々しかった。

 魔女は、自分がかつての面影を模して再び生み出された幻だと、知っている。

 そして、安易にそれを真似ようとしても、かえって戦人を傷つけるだけになることも、知っている。

「………それでも、このベアトは戦人の役に立ちたいと思っている。…健気な話だ。」
「それが、ベアトリーチェという魔女の、意味なの?」

「……彼女はそうだと自称している。自分は戦人の役に立つために生まれてきたと。」

「お兄ちゃんのために生まれてきたベアトが、やがては連続殺人を犯し、お兄ちゃんに永遠の拷問と称しておかしなゲームに引きずり込む? 意味わかんないわ。」

「千年を経れば人は別人にもなり得ると、そなたも理解しているはず…。」
 ……少なくとも。ベアトリーチェは、戦人のために生まれてきた、無垢な存在だった。

 今の弱々しい彼女には、恐ろしい連続殺人事件の引き金を引く勇気も、そんなつもりが毛頭ないことも、容易に見て取れる。
 なら、……私たちのよく知る、あの物騒な魔女は、生まれてから千年を経て、変容した存在だということになる。
「……千年とか偉そうな単語がよく出てくるけど、魔女の世界ではどうも、長い月日を示す別称として使われてる気がするわ。」

「神の世界に近付けば近付くほどに、時間の概念は曖昧になる。6年も千年となるし、1000年がほんの一眠りにもなる。……ほんの2週間の月日でさえも、百年の魔女を名乗るに相応しい永遠となり得るのだ…。」

 つまり、あの無垢なベアトが、あの残忍なベアトに、……千年という名の6年を経て、変容していったことになる…。

 じゃあ、その6年の間にお兄ちゃんを恨むようなトラブルがあったとでも言うのだろうか。

「納得いかないわ。その6年間。お兄ちゃんは六軒島はおろか、右代宮家の籍から抜けてさえいるのよ。……その変化に、お兄ちゃんは何の関係もない。まったくの逆恨みだわ。」
「………………………。」
「おや、こちらにお出ででしたか…。お紅茶でもお淹れしましょうか…?」

「……熊沢さん。……知りたいことがあります。」
「ほっほっほ…。はいはい、何でしょうか。」

「………私は、ベアトリーチェという名前、……なんですよね?」「えぇ、そうですとも。お嬢様はベアトリーチェさまでございますとも。」

「でも、……お父様が口にするベアトリーチェという人物は、私のことではありません。」

「……それは………。」

「お父様は、私に、その人であってほしかったように思います。……だから、……私がその人にどれほど似ていても、別の人間なので、……失望されたのではないでしょうか。」

「そんなことはございませんよ…。お嬢様はお嬢様、ベアトリーチェさまご自身ですとも。……新しくお生まれ変わりになる時、以前の記憶を失ってしまっただけでございますよ…。たとえ記憶をなくされようとも、お嬢様はベアトリーチェさま。お館様の愛されるお方と同一人物でございますとも。」

「……その記憶というのは、……どうやれば取り戻すことが、出来ますか…?」「それは…………。」
 ベアトはその方法を教えて欲しいと、祈るような目つきで熊沢を見る。

 ……その方法がもしもあるならば教えたい、とでも言う風に、熊沢は頼りなげに目を逸らす…。
「取り戻すことが出来ないなら、……せめて、お父様の愛したベアトリーチェが、どのような人物であったかを教えて下さい。」

「そ、……それならお話はできますけれど……。」

私は、お父様のために生まれてきました。だから、お父様の望む、黄金の魔女、ベアトリーチェになりたいんです。」
「……ベ、……ベアトリーチェさま……。」

「私に魔法は使えません。……でも、お父様の望む魔女が使えるなら、それを学びましょう。私は、お父様の望む魔女になります。それが、お父様に生んでもらったことへの、私が示せる唯一のご恩返しです。」

「………健気じゃない。千年を間違えなきゃ、最高にいい子だわ。」

「魔女の雛……、なかなか面白きかな。……気に入ったぞ、縁寿。その雛の娘に我が書庫を許すがいい。魔女の世界へ帰る扉を、開いてやるが良かろうぞ。」

「……彼女自身に、かつての彼女の物語を朗読させようというわけね。…なるほど、私も知りたいわ。

黄金の魔女ベアトリーチェを作る物語・・・・。」

「……………………。……いいでしょう。あなたが望むならば、……扉を再び開きましょう。」「……熊沢、…さん…。」

 辺り一面から、黄金の飛沫が湧き上がる。

 ……それは黄金の蝶の群。

 老女の姿が、黄金の輝きと共に、ドレスを着た魔女の姿に変わる……。

「あなたの進むべき道は、あなたが決めなさい。……それは恐らく、薔薇の道。美しく咲き誇った薔薇があなたを祝福するかもしれないし、その棘であなたを苛むかもしれない。……しかしそれでも、あなたがいつか辿った道。…その結果、同じ千年を経てもいい。異なる千年を経てもいい。望むなら、道を引き返してもいい。」

「進みます。……私は、この庭で千年、お茶を飲んでいるだけで過ごしたくないんです。……お父様のために、このベアトリーチェは生まれてきました。だから、お父様のために、生きようと思います。教えて下さい、黄金の魔女を。」
 ……偉大なる魔女は両手を広げ、目が眩むほどに眩しい天に、彼女の変わらぬ意思を伝える。
 すると眩い光に二人は飲み込まれ、……気付くと、そこは不思議な書斎になっていた。

 そしてそこには、書庫の主の、古い偉大なる魔女とその巫女の姿があった。

 …ワルギリアは優雅に深々とお辞儀をする。
「……拝謁、至極光栄に存じます。尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女、フェザリーヌ・アウグストゥス・アウローラ卿。」

「面を上げよ、人の子よ。……その娘に、しばしの間、我が書庫を自由に閲覧する資格を与えようぞ。……我が巫女、縁寿。その方に世話を命ず。」

「はいはい、お任せを、我が主。素直に、そなたの物語が見たいと言えばいいのに。」

「観劇の魔女の巫女よ。……ベアトリーチェをお預けします。」
「……よろしく、……お願いします……。」
「…………………。……あんたのなろうとしているベアトリーチェは、……彼女なりに何かを苦しんでいたわ。…少なくとも、今のあなたはその何かから解き放たれている。……自ら、その枷を取り戻すために旅に出るの…?」

「は、……はい。……私は、黄金の魔女になりたいんです。……それが、私の生まれてきた、理由です。」
「彼女の煉獄を巡る旅が快適であるよう、そして保護が与えられるよう、無限と有限の魔女、プブリウス・ワルギリア・マロの名において要請します。」

「え? あ、えっと…。……観劇の魔女の巫女にして、無限の魔女、反魂の魔女見習い、エンジェ・ベアトリーチェの名において、了承するもの也やと奉ったり踏んだり蹴ったり…。」

 フェザリーヌが、ぷっと吹き出す。

「……あなたも、……ベアトリーチェという名を……?」「………えぇ。あなたのことは、よく知ってるわ。」

「教えて下さい。私が、どんな私だったのか。」
「えぇ。……だから教えて。あなたが、どうしてあなたになったのか。」
「……この書庫には、これまでのそなたのゲームの物語のカケラが、全て書物として収められている。それを読むことで、そなたはこれまで何があったかの全てを知ることが出来るだろう…。」
「それを読めば、私は黄金の魔女になれますか……。」

「……黄金の魔女を継承するには、黄金の碑文を解かねばならぬ。……そして、その試練は、たとえベアトリーチェ本人だとしても、免れることは許されぬ……。」

「が、がんばります。ですから、私に書庫の本を読ませて下さい…!」
「……本当に健気だわ。わざわざあんなのに、何で戻りたがるんだか…。」

「その私が、どんな自分だかは知りません。……でも、その自分がお父様のお役に立てるなら。私はそれになりたいです。」

 縁寿は眩暈を覚えたような仕草で溜息を漏らす。
 ……彼女の尊い意思を、止める言葉などありはしない。

 …自分は観劇の魔女の巫女。
 ただ舞台を、見守ることしか出来ないのだから。
 そう、これは演劇への干渉ではない。
 彼女の昔語りに、スポットライトを当てるだけの、……ただの演出。

 これすらも、観劇の魔女の、観劇に過ぎないのだ。
「読めば、そなたはかつてのベアトリーチェがどのような人物だったかを知るだろう。……しかし、そこから何を得られるかは、そなたが決めるが良い…。……書庫に留まるも自由、立ち去るも自由、再び戻ることさえも自由だ。……その対価として、私はそなたを観劇する。」

「観劇、とは…?」

「……要するに好きにしていいって意味よ。」
「あ、ありがとうございます、アウグスアウアウ、……えっと、」

「フェザリーヌって呼ぶと喜ぶわよ。」
「ありがとうございます、フェザリーヌさま……。」
 フェザリーヌに迎えられたベアトは、……自らを知る旅に出る。
 その物語が、古い物語を、新しい物語に、繋ぐ。紡ぐ。
 ……彼女を巡る千年の物語は、振り出しに戻り、自ら尾を飲み込む蛇となる。
 その蛇の輪は次第にゆっくりと、大海に浮かぶ小さな島の輪郭となった。

 それが、……六軒島。
 この島で生まれた魔女の千年は、この島で紡がれた。

 それは千年か、あるいは6年か。
 ……もしくはそれ以上の昔からの物語。

 ベアトリーチェは今、自身を探る旅に、出発する……。
 先ほどから風は強くなっている。
 打ち寄せる波も激しい。
 連絡船はもう当分来られないだろう。
 大きな雷鳴は、この島がもう、外界から隔絶されたことを示すもの。
 大粒の雨がぼたぼたと降り注ぎ、戸外の愚か者たちに、無様に駆けて屋根の下へ逃げ帰れと嘲笑った。
 もはや誰も、島から出られない。
 ……そして、訪れることも出来ない。

 ……奇跡に、許しを得ない限り。
 再び、大きな落雷。

 ……それを見た者すべての網膜を、真っ白に潰す。
 それがゆっくりと晴れた時、激しい波打ち際に、……ずるりと不気味な人影が起き上がる…。
 それは思い出したかのように激しく何度も咳き込み、胃袋に詰まった海水を汚らしく吐き散らした。

 ……そしてライフジャケットのマジックテープを乱暴に引き千切り、何の感謝もせず、彼女を波間に漂わせてくれたそれを叩き付けるように投げ捨てる。
「はっはははははは、あっはっはっはっはっはっは!! うがッ、げほげほごほごほガハァッ、っは、っはあ、はぁ、…。……くっくくくく、あっははははははははははは!! いつも変わらぬ、嵐での歓待、実にグッドです! さぁ、楽しませてもらいますよ、戦人さんッ!!」
 漂着者、古戸ヱリカの一報は、すぐに六軒島を駆け巡った。
 ヱリカは丁重にもてなされ、台風が過ぎ去るまでの間、客人として迎えられることになるのだった。
 食堂は、郷田による素晴らしい晩餐も終わり、コーヒーとチーズが並ぶ、和やかな食後のひと時になっていた……。

 6年ぶりということで注目を浴びて照れ臭かった戦人にとっては、ヱリカというちょうどいいスケープゴートが現れてくれて安心、という感じだった。
 それどころか、むしろ彼女は饒舌。

 高尚なミステリー談義を始め、すっかり大人たちも巻き込まれてしまった。
 ミステリーに造詣のある南條も舌を巻くほどの知識の深さだという。

「わっはっはっは、確かにな。嵐の孤島に洋館に不気味な一族。そこに雨宿りの探偵と来りゃ、もうお膳立てが揃ったも同然だぜ。」
「ご安心を。どんな難事件であっても解決してお見せしますので。それが探偵の務めです。」

「頼もしいじゃないか。むしろ何か、怪事件が起こって欲しいものだね。犠牲者役は御免被るが。」
「あなた、不謹慎です。」
「まぁ。ニンゲンのミステリーの歴史なんて、ほんの百年足らず。そのトリックもアイデアも、ほんの数種の焼き直しですでに描くべきことなどありません。如何なる不可能犯罪、密室殺人が起ころうとも。すでに類型化されているどれかのトリックを、形を変えただけに過ぎないのですから。」
「……まぁ、それでもミステリーが読み物として現代でも通用するのは。古典もろくすっぽ読まない付け焼刃の自称マニアが、自分の不勉強ゆえに知らない古典トリックをさも新鮮であるかのように勘違いして大騒ぎしてるだけなんですが。」
 あまりの大言に、一同もあんぐりと口を開けてしまう…。

 齢を経た批評家が言うならいざ知れず。
 ……よくもこのような若輩の身でそのようなことが堂々と言えるものだ…。
「ミステリーなんて。もう半世紀も前に終わったジャンルなんです。私に言わせればですが。……でも、不勉強な馬鹿ばっかりのお陰で、私は探偵面が出来るというわけです。くっすくすくすくすくすくすくす…!」

「それを言ったら。恋愛なんて、シェイクスピアの時代に完成されてて、以後は読む価値もないってことになるぜ?」
「そうですね。じゃあロミオとジュリエットさえ読んどけば、恋愛なんてもう理解できたも同然ってことじゃないんですか。」

「そんなわけねぇさ。………本は、読んだ数を競うものでもねぇが。さりとて、これで充分だと威張るもんでもねぇ。……過去の古典の話ばかりで新書を読まねぇのは、いわゆる悪しき懐古主義じゃねぇのか? それこそ、読書をサボる年寄りどもの言い訳だと思うぜ。」

「…………………。……そうですね。私も、戦人さん程度には本を読まないと、言い負かされちゃいそうです。」
「俺? はは、本なんか読まねぇし。」

「………………………。」
 戦人はへらっと笑うが、……ヱリカは前回のゲームで、“戦人”が実はかなりの読書家であることを知ってしまっている。

 だからその言葉にかえって挑発的なものを感じてしまうのだった。

「そんなにも推理自慢なら、クイズとかパズルとかは得意そうだね。」
「あー、真里亞さ、ほら、クイズとかの本、持ってなかったっけ。」
「うー! あるー!!」

 ヱリカの、やや傲慢な大言が少し空気を悪くしていることを敏感に察し、譲治はさらりと話題を変える。
 この頃にはもう、彼女が見た目通りの、可愛らしい客人ではないことは充分に理解できていた。

 真里亞は鞄から、クイズやパズルの書かれた本を取り出し、それをみんなに出題する。
 和やかなクイズ大会になるかと思いきや、………やはりそうはならない。
 さすがに大口を叩くだけあって、ヱリカの正解率と即答率は見事なもの…。
 完全にヱリカの独断場。……彼女の大口もますますにエスカレートするのだった。

 譲治はちょっぴりだけ、振り直す話題の方向を間違えたと後悔していた。
「106回です。トーナメント表を書くまでもありません。」

 107チームでトーナメント試合をしたら、何試合が必要かという問題にもヱリカは即答する。
「これは問題というより、知識です。参加チームから1を引いた数が必要な試合数という公式がありますので。……まぁ、例題の、4チームなら3試合、8チームなら7試合という数字を見た時点で法則性に気付いて当然ですが。」

「うー! ヱリカ、すごーい!」

「ヱリカお姉ちゃん、でしょ?! 言ってごらん。」
「うー、ヱリカお姉ちゃん、すごい。」

「大したもんだな。………なるほど、自称探偵は伊達じゃねぇってわけだ。」
「まぁ、探偵を気取るつもりなら、この程度は。」

「すごいね。きっと将来は、本物の探偵になれると思うよ。」
「まぁ、もうそのつもりですが。」
 いとこたちみんなで答えを考えるのだが、どの問題もみんなヱリカが一番に答えてしまう。

 楼座は、せめて答えがわかっても、みんなが考えてる間に即答してしまうのは、ちょっと場の空気が読めてないのではと思ったが、相手は客人なので、それを口にするのは遠慮した。
 ……実際、それも含めた上でヱリカは、答えを即答しているのだ。

 この程度の問題、皆さんはまだ解けないんですか〜? …とでも言わんばかりに、即答してはにやにやと笑うのだった…。

「……ヱリカちゃんは名探偵さんなんだから、あまり本気にならなくてもいいんじゃない?」
「そうですね。子供向けの問題なのにむきになってしまいました。……気を付けますので、次の問題をお願いします。」

「よーし、今度は負けねぇぞ。真里亞、次の問題を頼む!」
「えっと、……大きなチーズが1個あります。それをナイフで1回切り分けると2つになります。では、8個に切り分けるには、最低何回、切ればいいでしょう。うー!」

「あ、僕はこれ知ってるよ。だから黙ってよっかなぁ。」

 大人な譲治は、答えがわかっても即答しないような空気を作って、ヱリカに釘を刺す。
 ヱリカにもその意味は伝わったらしく、小馬鹿にしたように鼻で笑いながら目線を逸らした。
「……8個なら、4回で切り分ければ良いのでは?」

「馬鹿ねぇ。それが答えだったら問題にならないじゃなぁい。」
「はっはっは。そういうことだな。こういうのは、想定の回数より少なく出来るものと相場が決まっている。しかし、どうすればいいやら。」

「……あー、わかったわかった。こりゃチーズだから出来ることだな。」
「そうね。バースデーケーキでこれをやったら大喧嘩になるわね。」

「わっはっはっは! そやなぁ。チーズならともかく、ケーキを切るには、その切り方じゃあかんなぁ。」
「え? え? みんな答え、わかってんのかよ?! くそ、わかんねぇの俺だけかよ?!」

「あー、わーかったぜー! なるほどね、三次元で考えなきゃ駄目なんだ。」
「うお、朱志香まで?! わかんねぇー、どうすりゃいいんだぁあぁああ!」

「きひひひひひ、真里亞、答えわかるよ。ここに書いてあるもん。きひひひひ。」
「こら、真里亞だって答え見るまでわからなかったでしょ。くす、わかる? 戦人くん?」

「なるほど、私にもわかりました。これはチーズだからこそ出来ることですな。」
「うぇ?! 南條先生までわかっちゃったのかよ?! ひょっとして俺だけ? 俺だけがわかってない?!」

「……戦人さんの頭も、少し火を通せば、チーズみたいに柔らかになりそうですね? くすくすくすくす……。」

「ナイフは0回で、手で千切れるとか、そういう答えじゃないんだろ?」

「んなわけねーぜ。ナイフ以外では切れないチーズってことで。」
「チーズを立体的に想像するんだよ。難しいなら、紙ナプキンの裏に絵を書いてみるのもいいかもね。」

「お、大きなチーズが1個あるんだろ…? それをナイフで8つに……。……ナイフは直線じゃなきゃ切っちゃ駄目?」
「えぇ、そうよ。ナイフは直線に切るだけ。……あぁ、でもヒントね。切り方は直線にじゃなきゃ駄目だけど、どこを切るかは自由なのよ。」

「どうやってナイフを入れればいいか、色々想像してみろ。」
「少々ひねくれたやり方を想像した方がいいだろうな。戦人くんのお手並みを拝見だ。」
 大きなチーズが1つある。

 それをナイフで何回カットすれば、8つに切り分けられるだろうか?
 4回で8個に分けられるのでは、当たり前。

 これよりも少ない回数のカットで、8つに切り分けられないだろうか?

 ヒントは、チーズだから許されるということ。

 これがバースデーケーキだったら、ちょっと許されない。
「………チーズ。…チーズ。……チーズだから出来る技? ……あー、…あーあーあーあーあー!! わかったわかった!! すっかり騙されたぜッ、頭が固ぇと駄目だなぁ…!」
「ようやく閃いたようですね。それが正解だといいのですが。」

「チーズはナイフ以外では切れないんだよな? ナイフは直線だけで切るんだよな? それ以外に何も条件はないよな? な?!」

「うー。特にない。」

「よっしゃ、間違いない! かーーッ、ひでぇ問題だぜ、こりゃまるでなぞなぞだ!」
「はっははは、上から切るばかりが能じゃないってことだぜ。上から2回切って、4分割。その状態で側面から切れば、上段と下段にわかれて、4分割が倍の8分割!」

「立体で考えないと出せない答えだね。つまり、正解は3回さ。」
「……え? そうなのか? 俺、……1回だと思ってたけど。」

「わっはっはっはっは! そらどんな魔法や! いくらなんでも1回は無理や。」
「くすくす。これはなぞなぞじゃなくて、普通に算数的な問題よ。」

「………え、あぁ、……そうなのか…? んんんんん、3回ってのはすぐに思いついたんだが、……それじゃ簡単すぎて問題にならないと思って、捻り過ぎたか……。」

「……戦人の答えの方が、ご本の答えより少ない。戦人が正解?」
「えぇ、そうです。………戦人さんが正解です。正解は、1回です。」

 戦人は、自分の答えを認めてくれる人間がいたので喜ぶ。……だが、ヱリカの表情からは、いつの間にか上機嫌なものが消えていた。

「………私以外に、1回と答えられるニンゲンがいて、それがよりにもよって、あなたとは。」
「ヱリカも答えは1回なのかよ。……どうやらお前も、相当捻くれてるみたいだな。」

「一個のチーズと聞いて、その形状を決め付けるのは、実に愚かしいことですので。」

「出来るわけないわ。お兄ちゃんの勘違いでしょ。3回未満でどうやって8等分するのよ。」
「愚かしや、人の子よ。くすくすくすくす……。8つに分けろとは言っているが、等分にしろとは問うていない…。」

「それにしたって不可能でしょ。ナイフ以外の方法で切るの?」
「ナイフ以外では切れない、ナイフは直線に切らねばならない、と条件がある。しかし、逆を返せば、それ以外に条件はない……。いや、そもそも、チーズの形さえも示されてはいない。」

「そうか…。みんなは大きなチーズが1個って聞いて、カマンベールみたいな、平べったい円筒状のものを想像してたのか。……俺は、朝食のトーストの上に載せるスライスチーズを想像していたぜ。……ナイフで切り分けるような立派なチーズとは、普段、縁がねぇからよ。」

「……チーズの形状に条件は示されませんでした。出題者のミスです。恐らく、真里亞さんのその本には、いわゆる平べったい円筒状チーズの図面があるはずです。」

「うー。ある。ほら。」
 ヱリカの推測通り、真里亞の持つ本にはヱリカの主張したとおりのチーズのイラストがあった。

 ……確かに、この形状のチーズなら、3回で切るのが正解になる。
 上から十字に切り、4分割。
 側面から上下に切り分け、これで倍になり8分割。

 しかし、このイラストを示さなかった以上、チーズの解釈は回答者に委ねられている。

「……確かにそうね。出題の時点で、チーズの形状や、その柔らかさなどには触れられていなかったわ。」
「そういうことです。どうやら、チーズも頭も。柔らかかったのは戦人さんの方だったようです。」

「わ、……わけわかんねぇぜ。スライスチーズだったら、どうしてナイフ1回で8個に分けられるんだよ。」
「お手元のペーパーナプキンで試してみたらどうですか。これをスライスチーズだと思って。」

「……つまりよ。こうしてさ、蛇腹に折るわけさ。……何回折れば8個になるかな…。」
「6回です。」
 蛇腹折りとは、山折りと谷折りを繰り返す折り方だ。
 それを6回も繰り返すと、まるでアコーディオンカーテンのように見えてくる。
「普通のチーズなら、こんなに折ったらそこで千切れちまうところだが。……ナイフ以外じゃ千切れないことになってんだろ…?」
「えぇ、問題ありません。ナイフ以外では決して切れぬ魔法のチーズですから。」
「その畳んだのを、……真上からばさっと一刀両断にすりゃあ。」
「……た、……確かに。…8分割だ。」
「ちょ、ちょっと待てよ。これじゃ、等分にはなってないぜ…?!」
「……出題者は、8つに切り分けろとしか言ってません。等分は条件に含まれませんでした。……まぁ、折り方を工夫すれば等分も可能ですが、お頭の硬い皆さんには、説明が混乱するので省きます。うっふふふふふふふ……。」

「は、……はぁぁぁぁ…………。」

 しばらくの間、一同は呆然とする……。

 問題をなぞなぞ的に考え、3回という答えをはるかに超えた1回という答えに行き着いた戦人と。
 その双方の答えをすでに用意し、出題者の粗まで着目していたヱリカ。

 ……その二人に、驚愕の眼差しを向ける他なかった。

「す、……すごいわ。…頭が硬かったのは私たちなの…?」
「これは、……完敗ですな。」
「私たちは3次元で考えたけれど。……どうも戦人くんとヱリカちゃんは、次元がもう一つ上だったみたいね。」
「……だいぶ、魔女とのゲームで鍛えられたようじゃないですか。……条件なき問題、即ち赤き真実の外側は全て、観測者の自由自在。……魔女の密室の間隙を縫う基本中の基本。」

「何の話だ…? 小説か何かの引用か…?」

「……………………。まぁ、そういうことにしておきます。それにしても、どなたの脳みそも、カチンコチンの石ころチーズってわけですね。くすくすくすくすくすくすくす…!」

 ヱリカは遠慮する様子もなく、一同を見渡しながら、意地悪そうに笑う…。

 真里亞だけがその笑いの毒に気付かず、上機嫌に次のページを開くのだった。
「うー!! じゃあ次の問題ねー。3つのコップと6枚のコインがあります。3つのコップそれぞれに、コインが1枚、2枚、3枚になるように分けて下さい。うー!」
「おいおい、そんなの簡単じゃねぇかよ。最初のコップにコインを1枚、次のコップに2枚、最後のコップに3枚入れて出来上がりだぜ。」
「ではそれを、5枚のコインでも出来るでしょうかー! うー!!」
「また陳腐な問題が出てきましたね。まさか皆さん、この程度の問題にまた、瞬きをいくつも費やされるおつもりで……?」

 ヱリカはもはや、客人の分も弁えず、また自分の年齢も弁えず、いやらしい目でじろりと一同を見渡す…。
 嵐が過ぎ去るまでの客人は、今やむしろ逆。
 嵐が過ぎるまで立ち去らない、迷惑な客人に変わっていた…。

 皆、それを自覚はしているが、口には出せずにいる…。
「あ、……あー、コインの問題って言うと、ほら、お箸の使い方がうまいかどうかは、コインをお箸で摘めるかどうかでわかるそうだね…。」

「お箸ッ! えぇそうです、お箸です。お箸は世界でもっとも優雅な食器です。突き刺し、引き千切って口に運ぶナイフとフォークなんて野蛮の極み! お箸こそが最高です。私の箸使いこそが芸術ッ。」
 朱志香は、お箸なんてただの棒切れじゃないかよ…と言おうとしたが、喉元でそれを留めた。

 今は譲治に舵を委ねた方が賢明だと理解している…。

「小銭あるけど、ちょっと僕と競争してみない? 僕もお箸の持ち方には厳しいんだ。」
「そ、そやな…。譲治の箸は、ずいぶん厳しく教えたんや。」

「確かに。テーブルマナーは育ちが出てしまうものだ。ヱリカさんの持ち方も、なかなかに良い。」
「俺の小銭も貸してやるぜ。枚数が多い方が面白ぇだろ。」

「朱志香。よく見て覚えなさい。」
「う、うぜーぜ…!」

「よし、競争しよう。ここにある小銭を、どれだけ多く自分のお皿に移せるか。」
「望むところです!! お箸お箸ッ、ハアハア!!」
 ……今度は譲治も話題を間違えない。

 一同もわかっていて、お箸競争を煽って、話題の切り替えに協力した。
 ヱリカが知力自慢の人物であることは、もう充分わかっている。
 そしてどうやら、それで他人を見下す悪癖があるらしいことも。
 彼女は手品師のような指使いでお箸をくるくると弄びながら、目の前にエサを置かれてお預けをくらった犬みたいな感じで、テーブル上に散らした小銭を凝視するのだった……。
 ……薄気味悪かった風の音は、今や怪物の唸り声のような風雨の音に変わっている。

 それは悲しく泣き続けたかと思うと、突如吠え猛り窓ガラスをぎしぎし揺らして、不安と恐怖を掻き立てる…。
 わずかに開く扉の隙間から漏れる廊下の灯りには、……遠くからの温かい、楽しそうな笑い声さえ運んでくれる気がする…。

 きっと、食堂か何かにみんなで集まって、楽しくやっているに違いない…。
 早くそこへ行きたい…。

 ………きっと、家族もそこにいるんだ…。
 こんなところで独りぼっちは嫌だ……。
 ……トウサン……。………カアサン……。
 何度未練がましく扉を開こうとしても、無慈悲な鎖、……チェーンは決してそれ以上の隙間を許さない。
 むしろ、あとちょっとで外に出られそうな気がして、焦燥感を煽り立てるだけだった。

 ……背後の恐怖に、唾を飲み込んで耐え、……俺は静かに扉を閉める。
 隙間からの温かな光は、むしろ、……罠なのだ。

 決して開かぬ扉なのに、もう少しで出られるかのように錯覚させて、……永遠に自分をここに閉じ込めようとする、鉄の枷……。
 この薄気味悪い部屋を出よう…。
 ……一刻の猶予もない…。
 扉を閉めれば、部屋を満たすのは、いよいよに不気味な風雨の音だけ。

 時折、風が強くなり窓枠をがたがたと振るわせるのはまるで、檻の中の怪物が鉄格子を揺するかのようだった…

 ……その怪物が恐ろしくて、……つい窓から目を背けてしまう。
 探そう。扉から出られないなら、他に出られる場所を探さなくては……。
 扉のすぐ脇には、クローゼット。
 中は外套を吊るせるわずかなスペースがあるだけ。
 ……もちろん、外へ出られるわけもない。

 これが隠れん坊だったら、中に入って隠れるのも面白いかもしれない。
 しかし、この薄気味悪い部屋でのそれは、……棺桶に自ら入るのと何も変わらない…。
 ……この中に入れば、……今度はこのクローゼットからさえ、出られなくなるかもしれない。

 そんな、意味もわからない恐怖が猛烈な悪寒と共に背中を上り、急かされるようにクローゼットの扉を閉めた……。
 あとは、……もう一つ扉がある。
 開けるとそこは、お風呂とトイレだった。

 ……もちろん、出口はない。
 窓さえもない。
 蛇口を捻れば水が出て、……その水は排水溝に消えて、外へ出ていくだろうが、……自分がそこから出ていくことは出来ない。
 ……栓を抜いた浴槽の中で、この身を、肉も骨も粉々に砕かない限り…。

 それがこの部屋から出る唯一の方法のような気がして、浴槽の黒い栓が、とてもとても恐ろしく見えた…。
 思考と行動の両方で様々な試みをしたが、浴室から外へ出られる道理はまるでなかった……。
 あとは、………窓。

 窓の外は漆黒の闇。
 激しい風雨がガラスを叩いて濡らしている…。
 窓の外の暗闇は確かに不気味だったが、それでも、この部屋から抜け出せるなら、そんなことはどうでもよかった。
 だが窓には、……かすがいが打たれていた。

 無骨な鉄のかすがいは、がっちりと観音開きの窓の真ん中に、いくつもいくつも打ち込まれている。

 それはまるで、不気味な怪物の歪な手術跡みたいに見えて、扉のチェーン以上に不気味だった。
 風雨にガタつくように、叩いたり揺すったりすれば窓枠はぎしぎしと音を立てる。
 しかし、扉のように隙間さえ許してはくれなかった。
 ……もう、……うんざりだ。
 いい加減にしてくれ…、何なんだ、この部屋は……。

 こんな薄気味悪い部屋はもう嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…!
 外へ出るには、扉か窓しかありえない。

 そして頑丈な扉に比べたら、窓の方がまだ打ち破れそうだった。
 壊そう。

 ……椅子でも振り上げて叩き付ければ、ガラスは割れるだろう。
 木製の格子だって打ち破れるかもしれない。

 潜り抜けられる程度の隙間が作れればそれでいい。
 ……華奢そうなアンティークの椅子を引き摺り、窓辺へ戻る。
 ぅ、…………うおぉおおおおぉぉおお……!
 打ち付ける。何度も何度も。

 激しい音と共にガラスが砕け散り、窓枠がぎしぎしと泣く。
 打ち付ける打ち付ける。
 何度も何度も。

 この木製格子を打ち破れば……!
 ……くそ、……何だよ、これ…。

 ガラスはもう、破れ障子のようにみんな打ち破られてるのに、……そこから吹き込んでくる雨粒が冷たく苛むのに、……どうしても格子だけが壊れない…!
 鉄格子ってわけじゃない。
 見るからに華奢そうな、木製の格子なのに…。

 こんなぎしぎし言うくらいに華奢そうなのに、何で壊れないんだ…?!
 いや、あと少しで壊せるんじゃないか?
 正面から叩くんじゃなくて、力の加減かもしれない。

 破れた格子窓の隙間から左手を外に突き出し、右手は正面から窓枠を掴み、前と後からぎしぎしと揺すって、何とか壊せないか試みる。
 突き出した左手は、風雨でどんどん冷え切っていく…。

 ……揺する時に、破った窓枠から突き出すガラスの破片がチクチクと刺さって、すぐに手首は血まみれになった。
 でも、ここから出られるなら、この程度のこと、何ということはなかった。

 しかし、……出れない。出られない。開かない、壊れない……!
 乱暴にがしゃがしゃと窓枠を揺すれば揺するほど、左手首がガラスの破片に切りつけられて激しく痛む。……いや、これ、……え? 痛て、…痛てててててててッ?!
 いつの間にか、左手を通した格子のガラス破片が、鋭く伸びているのだ。
 それはまるで、醜悪な魔物のガラスの歯が、俺の手を食い千切ろうとしているかのようだった。
 伸びているような気、じゃない。
 今もまさに伸びていて、……うわ、わッ、俺の手を……食い千切る…!!

 手を乱暴に引き抜こうとするが、ちょうど手首のところでざっくりと食いつかれ、引き抜けなくなる。
 力を込めて引っ張るが、ものすごい痛みばかりで、食いついたガラスはびくともしない…!

 なん、だよッ、これ…!! ち、畜生、離せ、……離せ離せ…!!
 右手の拳骨でガラスを割ろうと何度も叩くが、ガラスの痛みを右拳にも味わわせるだけで、決して食らいついたそれを離そうとしない…。
 その時、…………ガラスに食いつかれて、外に突き出して雨曝しになったままの左手が、何かが、ぬめりと、触れた…。
 な、……何?!
 雨とか風で飛ばされた落ち葉とかそんなのじゃ絶対ない…!
 だって、……まるで雨に濡れた誰かの手に、触れられたみたいな手触りで……。
 ぎゅっと、……それは俺の左手を抱き締める。

 その五指の手触りに、……暗闇にいる何者かが、俺の左手に触れていることを知る。
 そこには、…………あぁ、…わかってる……。
 魔女だ…。六軒島の夜を支配する、恐ろしい魔女なんだ……。
 身動きの出来ない俺の左手を愛しげに、……冷たい雨に濡れた両手で、撫で回す。
 しかし、手触りでそれがわかっても、こちらからは闇の中には何も見えない……。
 すると、………俺の指をまさぐり、……薬指を、ぎりぎりと捻り上げる。
 い、……痛てててててて、お、……折れる……、ぐぐぎ…ッ!
 ……その時、俺は初めて、闇の中に何かを見る。

 それは、白かった。

 闇が、……にぃ、と笑って切れ込み、……白い歯を覗かせたからだ。
 そして、……折れそうなくらいに捻り上げた俺の指に、……その不気味なまでに白い歯の並んだ口を大きく開けて………。

 ひ、……ひィ……、………、…………。
 きっと、闇の中でそいつは笑っただろう。

 だって、その不気味な口が、一度大きく、ニヤリと歪んだから。
 俺の指に、何をしようとしているのか、最悪の想像が過ぎる。
 ぞおっとしたものが背中を込み上げた。

 ……力の限り抵抗するが、ガラスの牙は決して左手を解放しない。
 そして俺の指を、…………、甘く噛んでから。
 …………肉と骨を一度に噛み砕き、千切り取った……。

 グワばり、ボリバリバリぼりごきゅぺきぽき…、ぶち。
「……今、何か聞こえませんでしたか?」

「僕も。ガタンって音を聞いたような……。」
「風で窓でもガタついたんだろうぜ。へへっ、何しろオンボロ屋敷だからな。」

「そういうのって、何だか不気味だよな。本当に魔女が屋敷の中を歩き回ってるのかなって、6年前のガキの頃にはずいぶん怯えて夜を過ごしたもんさ。」

「うー、いるー! ベアトリーチェはいるぅー!」
「…………この廊下の向こうには何があるんですか?」

「あちらには客室がございますが、今は使っておりません。」
「うん。ゲストハウスが出来たからね。それまでは、客室に僕らは泊まってたんだよ。」

「あぁ、俺も覚えてるぜ。今日のゲストハウスが、あまりに綺麗なんで驚いちまった。」
「ま、新築だからなー。私も自分の部屋をそっちに移したいもんだぜ。紗音、ヱリカさんの部屋もゲストハウスでしょ?」

「はい。ゲストハウスにご用意させていただきました。」

「……で、ゲストハウスは屋敷から離れていると。……どんな事件が起こっても、互いには聞こえませんね。」

「やれやれ。まだ探偵モードなのかよ。いっひっひ、明日の朝、全員で揃っておはようって言っただけで、がっかりしちまいそうだぜ。」

「くす、確かに。さすがに明日の朝には、誰かが減ってないと困ります。ね?」

「そ、…それではゲストハウスへご案内します…。」
 大人たちは、子供に聞かれたくない話を始めるという。
 ……親族会議の本番というわけだ。
 子供たちとヱリカは、紗音に連れられゲストハウスへ向かおうと、玄関ホールへやってくる…。
「外は、今が一番の降りのようだね。」

「……客間でテレビでも見ながら、もう少し降りが弱くなるのを待ってもいいんじゃねぇの?」

「ゲストハウスに戻りなさいって、ママに言われた。ゲストハウスじゃないと怒られる。うー。」

「ゲストハウスの方が落ち着けるぜ…? 不機嫌な親の声もツラも、御免被るぜ。」
「………くすくすくす。ますますにお膳立てが整っているようで。」

 ヱリカは露骨に不謹慎そうな顔でくすくすと笑う。

「今、傘のご用意を致します。少々お待ち下さい。」

「あの、ちょっと。ずっと気になってました。……あの肖像画のご婦人はどなたですか?」

 まぁぶっちゃけ。ベアトの肖像画であることは知ってるわけですが。
 ……前回のゲームでは通り過ぎてしまっただけで面白くなかったので。

 ヱリカは独り言を呟くが、もちろんそれは誰の耳にも届かなかった。
「……こちらは、お館様の恩人、ベアトリーチェさまでございます。」
「お祖父さまに、莫大な黄金を授けてくれた、右代宮家復興の恩人だそうだよ。」
「………ただの、祖父さまの中の妄想の魔女だぜ。こいつの亡霊が、夜な夜な屋敷の中を歩き回ってるって話らしいぜ?」

「よせよ…。俺、小さい頃はその話、滅茶苦茶苦手で、この屋敷の夜は苦手だったんだ。」

「そんなこともあったね。6年経った今はどう?」
「すっかり忘れてたが、この肖像画をまじまじ見てる内に、また怖い気持ちが蘇ってきちまったぜ。」

「うー。ベアトリーチェは怖くないよ? 敬いを持っていればね? 持ってないと、………きひひひひひひひひひひひひひひひ! ね、紗音!」
「あ、……はい。……使用人たちの間でも、そう囁かれています。……夜回りの使用人たちの間でも時折、人影を見たとか、……黄金の蝶を見たとかいう、噂が…。」

「あーー、去年だか一昨年だかに使用人の人が、階段から転げ落ちて大怪我して辞めたじゃん? あれ、ベアトリーチェの呪いだなんて囁かれてなかったっけ? いっひっひひひ〜!」

 朱志香は、ヱリカを怖がらせようと怪談っぽく言うが、ヱリカはフフンと鼻で笑うだけだった。
「な、何だよ、薄気味悪ぃな…。ただの事故だろ? 偶然だろ?」

「……お祖父さまがここに肖像画を掲げてすぐのことだから、一昨年のことだと思うよ。……確か、まさにここの大階段から落ちて怪我をしたんだよね?」
「そうそう。この馬鹿でかい肖像画は何しろインパクトあったから。掲げられてすぐは、屋敷中で、あれは何だと話題になったもんだよ。……それでその後すぐにここで事故があったもんだから、ベアトリーチェの呪いだってことになってさ。」
「ベアトリーチェの怪談云々は、この肖像画の後から…?」

「……い、いいえ。その前からも、ベアトリーチェさまの霊が歩き回っている、というお噂はありました。でも、この肖像画が掲げられてからは、もっとそういう話が増えた気がします…。」

「………今までは、魔女ベアトリーチェと聞いても、具体的なイメージがわかなかったからだろうね。この肖像画によって具体的になり、より一層、以後の怪談に厚みが出たんだと思うな。」
「そもそも、……魔女ベアトリーチェなんて、誰が言い出したんです?」
「祖父さまだぜ。我が最愛の魔女ベアトリーチェ〜って、よく取り乱して叫んでたから。この肖像画が出てくるまでは、顔の想像も付かなかったけど。」
「こんな薄気味悪い肖像画がデーンと飾られたら、そりゃ怪談の一つや二つ、出来て当然だろうぜ。音楽室のベートーベンの肖像画も、学校創立者の銅像も、みぃんなちょうどいい怪談の温床じゃねぇか。」
「……確かに。こんなに古風な薄暗いお屋敷で、ずっとこんな風雨の音を聞いていたら、そういう怪談の一つや二つ、生まれてもおかしくはなさそうです。……まぁ、所詮は怪談、妄想、おとぎ話。取るにも足らない、寝惚けた虚け者の戯言以下ですが。」
 ヱリカは肖像画を見上げ、挑発的に笑う……。

 その笑いに、ベアトへの不敬を感じ取ったのか、真里亞がすぐに口を尖らせる。

「……うー。ベアトリーチェはいるー。そんなこと言ってると、きっとヱリカに魔女の呪いがあるよ。」
「おや、怖い怖い。魔女の呪い、大いに望むところですよ、ベアトリーチェ? ……くすくすくすくす。」

「いっひっひ。これでヱリカが明日の朝、変死してたら、魔女殺人事件の幕開けだな。……おいおい、お前、探偵なんだろ? 探偵がいきなり殺されるなんて斬新過ぎるぜー?」

「おや、それは困りますね。現場検証に差し支えます。……なるほど、ノックスにも、探偵を殺してはならないとは書いてありませんし。」

「真里亞、いいもの持ってる! ……ベアトリーチェの呪いを防げるお守り…!」
「お守り? そんなのあるのか。」
 真里亞は鞄をごそごそと漁ると、数珠のようなものに、サソリの絵の描かれたメダルのついた、……ゲームセンターの景品か何かのような、安っぽいブレスレットみたいなものを出す。
「何です、これ?」

「うー! 魔除けのお守りなの! 効果は弱いけれど、これを付けてれば、今夜一晩はきっと、ベアトリーチェの呪いを避けられるよ。」
「他にも、蜘蛛の巣が魔除けに効くとも聞きました。」

「うー。ベアトはきっと蝶の化身だから、蜘蛛も苦手なんだね。」

「あれ? それは悪食島の悪霊が苦手な方じゃなかったっけ? 熊沢さんが詳しいよな、そういうの。」
「……魔女に、…悪霊? うふふ、少し興味を持ちました。良かったらゲストハウスで、もう少し、話を聞かせてもらえませんか?」

「こちらが皆さんの傘です、お使い下さい。外はまだだいぶ雨が強いのでお気をつけ下さい。」

 紗音が持ってきた傘の束をみんなに配る。
 一行はぞろぞろと玄関へ向かうのだった……。
 その後の、誰もいなくなった肖像画の前に、……黄金の蝶がふわりと現れる。
 そして黄金の飛沫を散らしながら、人の姿になった。
 子供たちが出て行った後の、静寂のホールで、……ベアトはひとり静かに、自分の肖像画を見上げていた…。
「……………………………。」
 確かにそこに描かれているのは、鏡に映るのと同じ、自分の姿。
 しかし、ほんの少しだけ、目つきや表情が、……自分とは異なる気がした。

 彼女にとって、その肖像画の人物は、限りなく自分であると同時に、……確実に他人なのだ。
「…………あなたは、誰なんでしょう。……私に、どうかあなたという人を教えて下さい…。」
 ベアトはすでに、フェザリーヌの書庫で、これまでのゲームの物語のカケラを読み終えていた。

 しかし、そこに描かれていたベアトリーチェという魔女は、自分とはあまりに掛け離れたものだった。
 ……物語の終盤こそ、好敵手として戦人とわずかながら通じ合ったような感じもあったが。……基本的に、物語のほとんどにおいて、ベアトリーチェは戦人をただただ、苦しめるだけの存在だった。
 戦人のために生まれてきたはずの自分が、なぜそのようなことをして彼を苦しめているのか、……自分のことであるにもかかわらず、まったく理解できなかった。
 ……フェザリーヌの書庫で知ったことは、……かつてのベアトが到底理解の及ばない、完全な他人であったことだけだった…。
「……あなたに、何があったのですか? ………私はあなたの卵。そして雛。……あなたの翼は、お父様のためにあったはず。……それがいつ、片翼をもがれ、………あのように変わり果ててしまったのですか……?」
 今の戦人たちの話にも耳を傾けていた。

 サソリのお守りが苦手…?
 蜘蛛の巣が、苦手……?

 別にどちらも、好んで触れたいとは思わないが、触れたからどうというものではない。
 ……それらが平気ということは、…自分がベアトリーチェではないことの証拠、…ということだろうか…。
 自分のことのはずなのに、……まるでわからない。
 だから肖像画の自分の瞳を、……静かに見つめる。

 その瞳の向こうに、真実がありそうで……。
 ……ベアトはゆっくりと、……肖像画に近付く……。
 そして、……肖像画に、………そっと手を触れる……。
 すると、肖像画がやわらかく、波打ったような気がした。
 ……そう。これは、扉。

 彼女を黄金の魔女、ベアトリーチェの元へ導く長き道の扉……。
 ベアトは軽い眩暈を覚えた。

 ……平衡感覚が失われ、世界がぐにゃりと歪むのを感じる。

 そして、どっちが上か下かわからなくなり、……下に、飲み込まれた。
 とぷん、と。やわらかな水音を残して、……肖像画はベアトを飲み込む…。
 肖像画の中は、………真っ暗な世界だった。
 でも、不気味さはない。

 夜、布団に頭まですっぽり入った時のような、安心感のある闇だった。
 ベアトは、察する。
 ここは、自分の中の世界なのだ。

 ……だから、これほどの闇なのに、温かみある抱擁感を感じるのだ。

 彼女が何も求めない限り、……この世界は何も強いない。
 だから、求める。……自分はこの世界で、永遠に闇の中にいようとは思わないのだから。
 そう、卵から孵らなくては。

 この闇は、ベアトリーチェという黄金蝶の、殻の中なのだ。
「………私は生まれます。お父様のために。……戦人お父様のために生き、尽くすために生まれます。」
 生まれるための、目的と意思を、言葉として紡ぐ。
 その言葉に応じるように、殻の封印が溶けていく……。
 暗闇に亀裂が入り、……眩しい光が世界を覆った…。
 そして、………ベアトリーチェは、……生まれた。
「……………え…?」

「………………?」

 そこには自分と、………もう一人がいた。

 一瞬、目の前のその私は、私が近付きたいと願う、本当のベアトリーチェなんだと思った。

 しかし、相手も私と同じように、不思議そうな目で私を見たので、……何かが違うと気付く。

 ……そう。…卵から生まれたのは、私だけではなかったのだ。
 彼女もまた、生まれたのだ。

 ……双子?
 うぅん、ちょっと違う感じ。
 何て言えばいいんだろう。

 ……私も、彼女も、二人とも欠けていて、未熟。

 そう。私たちは雛なんだけれど、……つまり、本当のベアトリーチェの、カケラ。
 私と彼女の二人で、私たちは本当のベアトリーチェになれるという感じ。

 ……誰かに説明されたわけじゃない。
 でも、私たちはそれを、自然に理解した…。
 私は、このもう一人の自分に話し掛けてみることにする。
 彼女を知り、私たちは一人にならなければ、お父様の望んだベアトリーチェにはなれないのだ……。

 つまり、お父様が私に望み、そして持っていなくて失望したものを、きっと彼女は持っているのだ…。
「………こ、……こんにちは……?」

「…………………………。」

 髪を下ろしたベアトリーチェは、私を怪訝そうに何度も見つめてから、ようやく口を開いてくれた。

「………どうして、妾と同じ顔を……?」

 本当のベアトリーチェも自分のことを妾と呼んでいた。

 ……やはり彼女には、私の持たない大切な何かがあるのだ。

「さ、……さぁ。それは私にも、わかりません。」

「妾は黄金の魔女、ベアトリーチェ。そなたは?」

「わ、私も、ベアトリーチェです。右代宮戦人に仕えるために生まれてきました。」

「……妾は黄金の魔女にして、六軒島の夜の支配者。……右代宮戦人は知っているが、あのような小僧になぜに仕えねばならぬのか、理解に苦しむ。」

 やはり、先ほどの想像、……私たちは二人で本当のベアトリーチェになれるという想像は、正しいに違いないと悟る。

 ……目の前の彼女は、自分に欠けた魔女の部分を彼女は持つ代わりに、右代宮戦人のために生きるという使命を持っていないのだ。

 私にないものを彼女は持ち、……私が持つものをきっと、彼女は持たない。

「私たちは、きっと二人で一人の存在なんです。……双子みたいなものだと思います。」

「……いいや、違う。そなたは妾の妹だ。妾は、そなたが生まれるよりずっと前からここにいる。」

「え? そ、……そうだったんですか…。」
 自分の方が、遅生まれ。

 ……つまりそれは、右代宮戦人のために生きるという使命が、後から生まれたということだろうか…。
 しかし私は、使命などという希薄な存在ではないはず。

 ……こうして自分で考え、行動できるだけの人格がある。
 やはり、魔女のベアトと自分は、互いに欠け合う何かを持つ、他人同士なのだ。

 その意味では、……彼女が言うように、姉妹と今は呼び合った方が相応しいかもしれない。
「わ、……私は、あなたのことが知りたいんです。」

「妾も知りたい。そなたもまた“妾”であることは理解している。……そして、何故にそのような言葉遣いであり、戦人に使えねばならぬのか。そしてどうやら、それを理解せぬ限り、妾たちは互いに未熟らしい。」

「……私は、完全なベアトリーチェになりたいんです。」

「妾はそなたが生まれるまで、これで完全な存在だった。……しかし、こうしてそなたが現れた今。そなたを受け入れるのが、妾の定めであるように思う。……妾もまた、そなたのことを知りたい。」

 姉を自称するだけあり、魔女のベアトは少しだけ口調が横柄だった。
 でも、互いがそれぞれ自分であることを理解しているため、何の意地悪の必要もなかった。

 ……彼女もまた、私に出会って、本当の自分が今とは異なる存在であることを理解できたからに違いない。

「ここは、……どこですか? お屋敷の、ホール……? ……あ、」
 ベアトは、はっと息を呑む。
 そこには、自身の肖像画がなかったからだ。

 ……ということはここは、少なくとも2年以上は前の世界、ということだろうか…。
「そうとも、右代宮の屋敷のホールである。……夜は妾の時間。そして夜の屋敷は妾のものだ。金蔵の間抜けは、相変わらず妾を蘇らせようだの捕らえようだのと躍起になっている。皮肉な話よ。その妾は、こうして堂々と毎晩、屋敷を支配しているというのに。くっくっくっく!」

「あなたは、……ここで何を…?」

「……体を失い、あの憎々しい鎮守の社により魔力もない。しかし、わずかずつに日々、魔力は蘇りつつあるのだ。……最後には見事復活を遂げ、あの金蔵を嘲笑ってやりたいぞ。妾は見事、そなたの檻を抜け出したとな…! その笑いだけを楽しみに、夜な夜な徘徊して暇潰しをしている亡霊といったところよ。」

「ご、ご一緒してもいいですか……?」

「無論! 何しろ、そなたもまた妾の一部。右腕の同行を断る左腕がどこにいる? 断る道理もない。そなたを迎えようぞ、我が妹、新しきベアトリーチェよ。」

「あ、ありがとうございます、お、……お姉様。」

「こそばゆい呼び方だ。だが悪くない。さぁ、参ろうか。夜の屋敷を散歩しよう。くっくっく、妾の退屈な日常を紹介しようぞ。」
 二人のベアトリーチェは、二匹の黄金の蝶に姿を変え、真っ暗な屋敷の奥へと、音もなく飛んでいく……。
「……私はその、今でもそうなんですが、うっかり屋さんで…。よく、ものをどこに置いたか忘れたり、鍵を掛けたつもりが忘れちゃったりとかして、……迷惑を掛けてたんです。」

「ははは、昔はよく夏妃伯母さんに怒られてたねぇ。」

「でも紗音は途中から克服したんだぜ、その忘れっぽいの。」
「へぇ、克服って?」

「……うふふ。大したことじゃないですけど、……その、小まめにメモを残すようにしたんです。大切なものはどこに置いたのか、ちゃんとメモして。……日々繰り返すことは、メモにチェックリストを書いてちゃんと点検して……。」
「それで? あなたはベアトリーチェを見たんですか、見てないんですか。」

「あ、えっと、……直接、見たわけじゃないんですけど、……その、……やっぱりおかしいことがあって…。」
 それは、……ある夏の夜のお話。

 紗音が夜の見回りをしていた時のお話……。
 紗音にとっては、怪談。

 魔女にとっては、……夏の夜の、ちょっとした悪戯のお話…。
「我が妹よ。そなたはニンゲンの持つ反魔法の毒を理解しておるか?」

「い、いいえ。何ですか、お姉様。」

「うむ。魔女の時代はもはや遠い過去。……万物を支配したとのたまうニンゲンどもは、我らの存在を否定する、強い毒を持つに至ったのだ。」

「その毒は、私たちには有害なのですか…?」

「極めて危険だ。浴びればたちどころに我らの姿を蒸発させてしまうだろう。しかし、不幸中の幸いなことに、我らの存在は未だ極めて希薄だ。そのお陰で、毒の影響も甚大ではない。せいぜい、一時、姿を霞にされてしまうくらいだ。」

「しかし、好んで浴びたいものではない、ということですね。」

「その通り。さすがは妾。理解が早い。」

 姉は、一見すると横柄そうに見えるが、………自分の分身にして妹という存在が嬉しくて仕方ないのか、どんなことでも懇切丁寧に教えてくれた。
 まず、彼女が教えてくれたのは、自分たちは魔女であり、ニンゲンとは異なる存在であるということ。
 ベアトは、魔法が使えない自分は魔女でないと思ってきたが、どうも魔法が使えなくとも、自分は魔女という存在であるらしかった。
 そして、魔女である自分はニンゲンとは異なり、色々な制約があることを教えてもらった。

 その最たるものが、ニンゲンの持つ反魔法の毒。
「つまり、簡単に言えば、ニンゲンの視界に入ってはならない、ということですね…。」

「その通りだ。ニンゲンの目は毒を放つものと同じに考えよ。ヤツらに見られるということは、身を焼かれるのと同じことだ。それには劣るが、聞かれること、気取られることすらも、毒を含む。」

「……私たちは、ニンゲンに近付くだけでも大変なのですね…。」

 お父様は、ニンゲンじゃなかったっけ…。
 どうして私は、お父様の毒には焼かれないのだろう……。

「我らが魔力を蓄え、それをニンゲンも認めたなら、その毒は限りなく軽減される。即ち、我らの存在を認めさせることが、ニンゲンたちから毒を失わせ、再び彼らの前に降臨することも出来るというわけだ。」

「なるほど……。今の私たちは基本的に、ニンゲンたちの居ぬ間のみに、存在できるわけですね…。」

「魔力がまだまだ足りぬ妾たちは、人影に怯え物陰にコソコソと隠れる野良猫にも劣る存在というわけよ。」
 姉の一番の目的は、大きな魔力を得て、反魔法の毒に怯えなくてもいいほどの大魔女に復活すること。

 その為に彼女は、夜な夜な屋敷を徘徊しては、魔力を回復し、ニンゲンたちの反魔法力を軽減する努力を繰り返していた…。
 フェザリーヌの書庫で読んだ、過去の偉大なるベアトリーチェは、ニンゲンの前に堂々と姿を現し、自由自在に弄んでさえいた。

 ……その境地は、姉に言わせればかなりのものらしい。
「人前に堂々と姿を現し、魔法を自由自在とな! ……妾とて想像もつかぬ大魔女の境地よ。それが、妾たちの未来の姿だというのか。」
「はい。……お屋敷のニンゲンたちの前に堂々と姿を現し、魔法や眷属を次々に召喚できる、まるで絵本の中の魔女のようですらありました…。」

「ふむ、夢のある話だ。それが妾たちの未来ならば、努力に励む張り合いがあるというもの。」

「そうですね。……それでお姉様。そのための努力と、こうして窓の鍵を開けて回ることにどんな関係が…?」
 深夜。戸締りの確認をして回る使用人たちの後を付け、彼らがちゃんと施錠したはずの鍵を、開けて回っているのだ。

 ……これは魔女の仕業というより、……まるで子供のイタズラ…。
「ふっふっふ、これこそが大魔女へ至る道なのだ。千里の道も一歩から。その一歩は、解せぬ者の目には時にあまりにみすぼらしくも見えよう。しかし、これは偉大なる一歩なのだ…!」
 まるで、人類が初めて月面に記した第一歩であるかのように威張りながら、姉はパチンと、戸締りのされた窓の鍵を開け放った。
「わからぬか、我が妹よ。これしきのことが、なぜに偉大か。」

「…………? いいえ、お姉様。……よくわかりません。」

 姉は薄く目を閉じて微笑みながら、鍵を開けた窓を、少し開く。
 涼しい外気が入り、カーテンがふわりと揺れた。
「あえてニンゲンの毒に満ちた言い方をしよう。……本来、この島に我らはいない。さらに言おう。“今、この廊下には、誰もいないのだ”。なのに、こうして鍵が開き、……窓が、開く。……それが、どれほどの奇跡であり、魔法であり、……そして我らが存在する証であるか、……わかるか? そなたにも、この風の涼しさが、わかるはず…。」
「……わかります。涼しいです…。」
「風の涼しさ、柔らかさ。……そして、それになびくカーテンが髪をくすぐる感触。…その全てが、我らが確かにここに存在することを教えてくれるのだ。」
「そして、……私たちが確かに存在した証を、こうして鍵を開けることで、示して残せる。」
「……だから、鍵を妾は開けるのだ。」
 もちろん、窓の鍵を開けるなどという小さなイタズラでなく。
 ……窓や花瓶を割ることも、不気味な炎や、奇怪な落書きを残すことも出来る。
 実際、厨房にイタズラして、料理道具を不気味に積み上げ、奇怪な落書きを残すという大掛かりなイタズラをして、使用人たちを大いに怯えさせたこともある。
 大成功だった。

 ものすごく怯えさせられたし、使用人たちに魔法の存在を認めさせ、反魔法の毒を薄れさせることにも成功した…。
 しかし彼女は、鍵を開けるという行為で、自分の存在を示すことにした。

 鍵を開ける、……その行為に、自らをニンゲンの毒の制約から解き放つという意味を込めていたのだ。
「いつかは。妾は、うぅん、妾とそなたは一つの魔女となり、六軒島の全てを支配するだろう。……その時こそ、我らは全ての自由を得て、自在に羽を伸ばすことが出来るのだ。」
 もう、誰の目に怯えることもない。

 好きに飛んで、好きに消えて。
 好きに笑い、好きにイタズラして、好きに誰かとおしゃべりする。
 時にはニンゲンに物を頼まれるかもしれない。
 時にはケンカをすることも、あるいは一緒に遊ぶこともあるかもしれない。

 それら全てが、誰の前にも現れることの出来ない、脆い身である今の自分たちには、眩いくらいに楽しみなこと……。
「……今は、イタズラ程度に過ぎん。しかし、これの積み重ねによって、我らは存在する証を少しずつ得ていく。すでに使用人たちは、妾の存在を、夜の支配者、魔女ベアトリーチェと呼び、その存在をわずかずつだが信じ始めている。」

「信じれば信じるほど、そのニンゲンの反魔法の毒は失われていく…。」

 ……そうか…。つまりお父様には、反魔法の毒がないのだ。
 それは、………私という魔女の存在を、確実に信じて、疑っていないから。

 冷たいと思っていたお父様の、目に見えぬ優しさを、ようやく私は知る……。

「早く大魔女になって、みんなの前に現れたいですね。」
「うむ。やがては、誰の前にも堂々と姿を現すことが出来るだろう。それを重ね、さらに存在を信じさせ、やがては魔法さえ披露し、……我らは、そなたが話してくれた大魔女として、六軒島に君臨するのだっ。うっははははは!」
「……魔女側の理屈はなかなかに面白い。退屈せぬ。」
「信憑性って、あるわよね。ここは幽霊が出る有名な心霊スポット、って脅されたら、木の葉が一枚落ちたって、ニンゲンは幽霊が出た出たと騒ぐわ。」

「そうだ。全ての現象は本来、中立、中性、無味無色だ。……それを、望む受け取り方をさせるには、その環境作りが必要となる…。」

「カリスマのある人物が、たとえ何かを失敗しても、好意的に解釈されるのと一緒よね。……なるほど。その意味においては、ベアトたちのささやかな努力は、間違ったことではないわね。」

「屋敷の鍵が開いていただけなら、戸締りを忘れたか、はたまた誰かの悪戯かで済む問題。……それが、夜な夜な屋敷を魔女が徘徊しているという噂が、魔女の存在を少しずつ形作っていく。」

「夜の屋敷でおかしなことが起これば、それは全て魔女の仕業と見なされる環境の成立。……なるほど、そういう論法がまかり通るまでに至ったなら、それはもはや、夜の屋敷には魔女が居るのと同然を意味するわ。」

 ベアトたちは、鍵を開け、窓を開け放つ悪戯を済ませ、風の涼しさと月の明るさを楽しむと、黄金の蝶となって闇に消える。
 ……彼女らが開け放った窓が、彼女らの開けたものなのかは、わからない。
 使用人が戸締りを忘れたのかもしれないし、戸締り後に家人が窓を開け、閉めるのを忘れたのかもしれない。あるいは、誰かがイタズラをしたのかも。

 その何れの可能性も否定できないように、……本当に魔女が窓を開けて、夕涼みを楽しんだ可能性だって、……否定はできないのだ……。
「………観測者なき結果は、無限の過程を持ち得る。…それを、たった一つの可能性でしか捉えられないニンゲンには、何も想像することが出来ない。」

「しかし、魔女の可能性を信じられる者には、魔女のイタズラを想像することが出来る。……その時、今、我らが見たベアトリーチェたちの悪戯の光景は、事実としてカケラに刻まれる…。」

「……魔法の原点の一つだわ。過程の、虚飾。」

 量販品のぬいぐるみだって、……小さな魔法で、世界にたった一つの、母の愛に満ちた素敵なぬいぐるみに生まれ変われるのだ。

 それを疑えば、……半魔法の毒で、焼ける。
 信じれば、魔法は、真実になる。

「…………………………。……魔法の全てが、悪いわけじゃない。……真里亞お姉ちゃんの言うとおりなのよ。……良い魔法だって、ある。」

「邪悪なる魔法を退ける力も、人の子には必要だろう。……しかし、愛ある魔法を、焼いて穢さぬこともまた、人の世の愛なのだ。」

「…………………。……ま、許せるのは良い魔法だけよ。……それ以外は全て、否定して焼き尽くすに限るわ。」
「ふっふふふふふ…。人の子らしい答えだ。」

「話を戻すわ。……ここまででわかることは、やはり、六軒島の夜の支配者と呼ばれた、亡霊ベアトリーチェは、存在しないということだわ。夜の屋敷で起こる不可解な現象の、総称に過ぎない。即ち、ベアトリーチェとは人物名ではなく、現象名に過ぎないのよ。」

 奇怪な何かが起これば、それは全て、黄金の魔女の仕業…。

 そういう“魔女の居得る環境”こそが、ベアトリーチェ自身。

「……それが累積して、1986年に至る。……これこそが、真犯人が被っているヴェールなのよ。そしてそれを被っているのは紛れもなく、ニンゲンの誰かだわ。」

「この、魔女たちの過去物語の時点ではそうも断言できよう。……しかし、その論法だけで、1986年も戦い抜けるとは思えぬぞ……?」

「…………………………。」
「ふっふふふふふふふ……。」

「馬鹿馬鹿しい。そんなの、誰かが戸締りを忘れたに決まってるじゃないですか。」

「そ、……それを言われると……その…。で、でも、一度や二度のことじゃなかったんです…。」

「それはつまり、あなたが一度や二度どころじゃないくらいに、何度も戸締りの確認を忘れる、ドジでマヌケでアンポンタンな使用人ってことじゃないんですか?」

「……紗音だけじゃないよ。他の使用人の時にも、いつも同じ窓が開いていたんだよ。」
「私も母さんに、夜に廊下の窓を開けっ放しにしたことはないかって聞かれて、そんなのやってないのに、何だか怒られたぜ。ちぇ。」

「ベアトリーチェもきっと、お月見がしたかったんだね。うー。」
「何度も同じ窓でそういうことがあると薄気味悪いよな。……それに、厨房の料理道具が積みあがってて、不気味な魔法陣だかの落書きがあったってのは、もっとヤバいだろ。」

「……え、えぇ。血みたいなもので、不気味な魔法陣が描かれていたって話で……。それ以来、厨房の見回りも怖がられていて…。」

「その、厨房の不気味な魔法陣事件。目撃者は誰ですか?」

「え、……と、……私じゃないです…。私はその、……多分、辞めちゃった使用人の子に教えてもらったはずです。その日は私の勤務日じゃなかったし…。」

「つまりはそういうことです。心霊スポットに尾ひれが付くように、あなたたち使用人も、夜の屋敷の怪談を、少し面白がったりはしていませんでしたか? あなたがそうして、魔女が存在するかのように語り、それを伝染させているように。」

「……つまり、ベアトリーチェの仕業ということになってる不気味な出来事は全て、何かの偶然か事故、あるいは、面白がって誰かが捏造した根も葉もない噂話。…と、そう言いたいわけか。」

「そういうことです。ベアトリーチェなんて、存在するわけがないじゃないですか。」
「うー……。ベアトリーチェはいるー。」

「戦人さんはよくご理解されているようですね。……そういう名の人間、あるいはそう自称して何かを行なった特定、または不特定多数の人間は存在するでしょうね。しかし、私たちが期待して妄想するような、黄金の魔女ベアトリーチェなんていう存在は、まったくにもってありえません。」

「うー!! うーうーうー!! ベアトリーチェはいるー! 会ったことあるー!!」

「へー、その話を詳しく教えてはもらえませんか? あなたはベアトリーチェに会った? そして魔法を見せてもらったとでも言うんですか?」

「うー! いつも会ってる! 六軒島に来る度に会ってるもん! そしていつも、楽しい魔法を見せてくるの!!」

 魔女の存在を否定すれば、それは直ちに真里亞の逆鱗に触れることになる。
 しかし、そのいなし方を知らないヱリカは、それを真正面から受け止めてしまう。

 だが、真里亞がどうベアトリーチェの存在を言い繕おうと、冷酷なまでに理知的なヱリカを論破できる道理はない…。

 譲治と朱志香が慌てて真里亞をなだめようとするが、真里亞の怒りはもう収まりがつかなかった。

「グッド! 魔法を使って見せたんですね? それがどんな魔法か、具体的に教えていただけますか?」

「いつも魔法でお菓子をプレゼントしてくれる!! ベアトは魔法でお菓子を生み出すことが出来る!!」

「ポケットから出しただけじゃないんですかー?」

「違うもん!! 魔法だもん! すごいんだよ!! 空っぽのカップの中から、いっぱいのキャンディーが湧き出したんだもん!」

「へ、へぇ、そりゃスゲエ魔法だな…。」
「そうだね、確かにそれは魔法だ…!」

「そうだよ、魔法だよッ!! 本当に空っぽだったもん!! ちゃんと中を確認したもん!!」
「はぁ? 中を確認したもんって、何の話です?」

「ヱ、ヱリカさんもよせって…。子供の話じゃねぇかよ…。」

「それよりヱリカさま…、紅茶のお代わりでもいかがで、……きゃッ、」
「ノーサンキューです。今、大変、知的な話をしています。外野は黙っているようにッ。もっと具体的に教えて下さい、真里亞さん。カップの中をちゃんと確認したとはどういう意味ですか? 幸い、ここに今、引っ繰り返って、中身が空っぽになったばっかりの紅茶のカップがありますし! どうぞこれで、その時の状況を再現して下さいませんか?! さぁッ、お願いします、さぁ!!」
 ヱリカは、今、引っ繰り返して、まだ雫が滴っている紅茶のカップを逆さにすると、激しくテーブルの上に打ち付けて、真里亞の前にズイっと突き出す。
 ヱリカの目は、おぞましくも爛々と光り、カエルを睨みつけて射抜くかのような、蛇の目そのものだった。

 その目は凍てつくほどの冷酷さと、目を背けたくなるほどの狂気を併せ持っている。
 一方の真里亞は、白目をむくほどに激高し、全身をぶるぶると痙攣するほどに震わせて、人として表現出来る限りの全ての怒りを剥き出しにしていた。

 それは、9歳の子が浮かべる表情とは到底思えない、恐ろしいものだった。

「お、お二人ともお止め下さい…!」

「うーッッッ!!! ベアトリーチェはね!! こうやってッ!! 空っぽのカップをね!! テーブルの上に逆さに伏せて置いたのッ!!」

「ハイ、それでッ?! そのまま開いたら飴玉が溢れ出して来たわけですか?! それはすごい、それなら魔法ですよね?、それならばッ!!!」

 戦人たちが間に入って二人をなだめようとするが、焼け石に水。……高温の鉄板には、垂らした水さえも弾け散る。

 二人は乱暴に、間に割って入ろうとする戦人たちを振り払い、額をぶつけ合ってにらみ合いながら、テーブル上の逆さのカップを激しく何度も打ちつける。

 互いの額と、カップをテーブルにぶつけ合う音が、現実と幻想の境の殻を粉微塵に打ち砕く…ッ!!
「魔法だよ魔法なんだよッ!!ベアトは魔法でキャンディを生み出したんだよッ!!」
「なら再構築してもらいましょうかッ!! マリアージュ・ソルシエール創立者にして、原初の魔女のマリアぁあああああああああぁああぁッ!!」

「ヱリカ卿、取るに足らぬ相手デス。戦うまでもありマセン…。」

「お黙りなさい殺人球体関節人形ッ!! さぁッ!! この伏せたカップの中がどう飴玉で満たされたって言うんです?!」
「カップを引っ繰り返したって、キャンディーは出てこないよ!! だって、魔法を使わなきゃ出てこないもん!! ベアトは魔女なんだもん魔法を使うんだもんッ!!」
「はいはい、魔法ですね魔法を使ったんですね!! どうやって魔法を?! 魔法のステッキを振るってカップを叩いたら飴玉が溢れ出した?! くすくす違いますよね違いますよねッ?!」
「ベアトは魔女だから魔法を使うのッ!! 魔法は呪文を唱えて奇跡を起こすの!! キャンディーを生み出す魔法も呪文を唱えなきゃ使えないッ!!」
「ハイハイ了解、グッドですグッドグッド!! 呪文をどうぞ魔法をどうぞ、さぁさぁどんな呪文を魔女は? どんな風にッ?!?!」
「さぁさ、思い浮かべて御覧なさいッ!! カップの中にキャンディがいっぱいッ!! そんな素敵なところを思い浮かべて御覧なさいぃいいッ!!」
「へぇえええぇえ、それでぇええぇえぇッ?」
「ほらッ、カップの中には、……キャンディーがいっぱいッ!!!」
 真里亞は伏せられたカップを、割れんばかりの力で握り締めながら、……ゆっくりと、………持ち上げる…。
 すると、……中から、みっしりと、……可愛らしいキャンディーがいくつも溢れ出す…!

 真里亞は、してやったりと、満面の笑みでヱリカを見返すッ。
「グッド!! これがベアトリーチェの魔法だと言うんですね?! ドラノーぉおおおルッ!! 

ブ チ 殺 れ ッ!!!」

「……………………。……御意。」
「ベアトの魔法は誰にも否定させないッ!! だって魔法は魔法だもん!!」
「魔法なんてあり得ません。あなたが、ありもしないウソ話をしている可能性があります!!
「復唱を要求デス。これに応じぬ場合、ノックス第7条に違反デス。」
「あっははは応じるよ、これは真実だよッ!! これは本当の話!!
テーブルやカップに細工があって、実は手品だったなんて、そんなオチはありませんものねぇ? それは違反ですもんねぇ?!?!」
「秘密の仕掛けと細工はノックス第3条に違反デス。ただし、その伏線が示された時のみ、ノックス第8条により許されマス。」

 ノックス第3条により、手掛かりの存在しない秘密の扉、そして仕掛けは許されない。

 しかし、その存在が想定できる伏線、手掛かりを提示することによって、その使用はノックス第8条によって許可される。
そんな細工は何もない!! ただのテーブルとカップだよ!! だから手品じゃないッ魔法だよッ!!」
「……了解デス。……ノックス第9条により、マリア卿の魔法目撃は認められマス。」

「あっははははははははッ!! そうですよねぇ、第9条ならね!! 観測者はいつ如何なる時でも、私見を語ることが許される! でなかったら、女装した犯人の目撃を“女を見た”と表記したミステリーは全て失格ってことになりますからアッ!! いいんですよぅ、あなたが魔法を見たと主張してもッ!!」

「全ての真実は主張に過ぎない! だから私はあなたとは異なる真実を主張し、それを看破します!! それがッ、探偵のッ、役目ッ、醍醐味ですからぁああああ!!」
「看破なんて出来ないよッだってこれは魔法だもん!!!」
「その魔法は、魔法ですから魔女にしか使えないわけですよね?」
「そうだよ、魔女にしか使えないもんッ!!」
「…では、ニンゲンの私にも使えてしまったら。魔法ではないということになりますね?」
「お前なんかに使えないよ!!! ベアトにしか魔法は使えないもんッ!!」
「グッド!! なら私がやって見せようじゃありませんかッ!! このッ、空のカップの中にッ、飴玉を生み出してお見せします!!」
「やれるならやってみてよッ!! 無理無理無駄無駄、ニンゲンに出来るわけがないッ!!」
「なら、期待ご期待乞うご期待!! さぁ、ここに空っぽのカップがありますよ。よろしいですか、よろしいですね? それをこうしてテーブルに伏せますッ!!」

「……無用の戦いと、思はるる也…。」
「…………………。」
「さぁ、飴玉を生み出す呪文を唱えますよ? 何なら一緒に唱えますか? さぁさ思い浮かべて御覧なさいッ!!」
「カップの中にキャンディがいっぱいッ!! そんな素敵なところを思い浮かべて御覧なさいッ!!」
「ストぉップ!! 真里亞さん。どうしてあなたは、呪文を唱える時に目を閉じるのですか? 魔法の奇跡を、どうして目撃しないんです?」
「ニンゲンは反魔法の毒塗れだからだよッ!! 卑しいニンゲンが見てたら魔法の奇跡が掻き消されちゃう!! だから卑しいニンゲンが魔法を使う時には、目を閉じなきゃいけない決まりなのッ!!」

「なるほどなるほど、ニンゲンの魔法に対するお作法、了解しました!! つまりあなたは、魔法の瞬間を目撃したことは、一度たりともないッ! そういうことですね?! さぁ出来上がりです! どうぞ、カップを開けてみて下さい…? 私がキャンディを生み出す魔法を使いましたから。」

「魔女を馬鹿にするお前なんかに、キャンディの魔法が使えるわけない…!」

「では、もしもうまくいってましたら、お慰み。」
 真里亞はヱリカを悪意の限り、睨みつけてから、……ゆっくりと、伏せられたカップに手を伸ばす…。

 ……魔女をこんなにも馬鹿にするヱリカに、魔法が使えるわけがない。
 キャンディがあるわけがない…。
「…………………………カップの中は、どうです?」
「…………………。……………あ、」
 ……そこには、………一粒の、……可愛らしい包み紙に包まれた、…キャンディが……。
「………ね?」
「………………。」
「……これが、魔法ね。」

 ヱリカは柔らかに微笑む……。
 真里亞は、信じられないという呆然とした眼差しを浮かべ、……それから、ベアトと同じ魔法を彼女も使えたことに、羨望の眼差しを浮かべた…。
「ヱリカも、………魔法が…使えるの…?」
「ね? 魔法でしょう? これが。」

「う、……………うん!!」
「ってことはつまり、」

 ヱリカがにっこりと微笑む。……真里亞と心が通じ合った…。
「ワケねェえぇええええぇええだらァあああぁアぁああああぁ!!! あんたが目ェ瞑ってる間にカップ開けて、飴玉放り込んだだけじゃないですかァあああぁあ!! これが魔法? こんなの三流手品でしょうがぁあああヒャッハぁああああぁあッ!!! これがまず、探偵としての青き真実ですッ。そして重ねて、真実の魔女としてくれてやりますッ、赤き真実ゥぅああああぁあぁあああぁああぁあああ!!!」
 あんたの言う、飴玉の魔法はただの手品ッ!!
 ベアトリーチェとかいう、エセ魔女が魔法と称して見せた、単なる手品!!
 つーかあんた、この程度の手品で騙されるわけで? あんたの主観が語る魔法なんてね、まったく信用出来やしないッ!!!
あんたが魔法だと思い込んでるものは全てッ、あなたがタネに気付かないだけの手品に過ぎません!! 魔法なんてあるわけないッ、存在するわけなぁあああぁあぁぉおおおい!!
「……あぁんッ?!」

こ、このカップにキャンディを入れたのはヱリカの手品かもしれないけど、だからといって、ベアトの魔法も手品だったことの証明にはならないよっ。うりゅーー!!!」

ならば同時に、魔法以外では不可能だったことの証明にもなりませんね!! この腐れぬいぐるみがぁああああ!!

「……謹啓、謹んで申し上げ奉る。」
「無用の勝負、これまでと知り給え。」
「この紙切れどもが!! いいところで邪魔をッ…!!」

「これで充分デス。カップの中にキャンディを現す魔法については、マリア卿に、手品であっても魔法だと誤解する可能性があることが示されマシタ。よって、魔法であるとの主張は却下されマス。」

でも、真里亞の時は、本当に魔法だったかもしれないよ…! 手品が存在することが、魔法を否定することにはならないッ。

「……ヱリカ卿、お見事デス。見事、マリア卿の魔女幻想を打ち破りマシタ。」
 魔法以外では不可能だと主張することにより、魔法の存在を認めさせようとするのが、魔女幻想。魔女の攻撃。

 それを、魔法以外でも可能だと反論できれば、魔女幻想は打ち破られ、魔女は退けられる。
 真里亞が見たと主張する魔法は、手品だった可能性があり、魔法だと認めるに足らない。

 それが今の戦いの結果であって、真里亞の信じる、ベアトリーチェの存在や、魔女や魔法の存在を否定するところまで戦いを及ばせるには、まだ、早い……。

 されど、戦いは相手を屈服させることで直ちに決着もする。

 ヱリカは、一気に畳み掛けて、真里亞の信じる魔女と魔法を穢すことで、情けのカケラもなく、ぶっ潰すつもりでいた…。

「……………………。……チッ! あと一歩で、波が引いた後のまっさらな砂浜みたいな、無垢なハートをズタズタに引き裂いてやれたのに。………残念です。興が醒めました。……………これで満足?! 痛てッ、…てててて……。」

 ヱリカは不機嫌そうに、制止するドラノールの腕を叩く。しかし、大理石で出来たような冷たく硬い腕は、むしろ叩いたヱリカの手の方を痛くさせる。
「………が、外交官特権…! この勝負はもうおしまい…!」

「謹啓。外交官特権、了承するもの也。」
「……いと大人げない戦いと知り給うもの也。」
「何か言いましたァ?!」

「何モ。……引き上げまショウ。マリア卿など、所詮はヱリカ卿の敵ではありマセン。この程度の雑魚、見逃したとて問題はありますマイ。」

「…………ふん。……そうですね。子供の夢を引き裂くなんて、私もずいぶんと大人げないことしちゃったものです。本当にごめんなさい? 私にしては、エレガントじゃなかったことをお詫びします。くすくすくす。行きましょう。」
 ヱリカたちは、ぐったりとしてしゃがみ込んだままの真里亞に背を向ける。
 だが、……有名ミステリーの探偵たちがいつもそうしてきたように、ヱリカもまた、手をポンと打って、立ち止まり、振り返る。
「そうそう。……如何です…?」

「…………………?」

「ただカップが伏せてあるだけで。古戸ヱリカはこの程度の推理が可能です。………如何です、皆様方?」
「……………ッッッ。」

 ヱリカの冷酷な言葉がもう一度、真里亞の心をえぐっていく……。
 くっくくくくくくくくくくくくくく、あっはははははははっはっはっはっはっはァ!!!
 ヱリカは最悪の笑い声を残しながら、退場していく。

 ドラノールも、真里亞とさくたろうに一礼してから退場した。
 ……ガートルードとコーネリアもそれに倣って続く…。
 後には真里亞たちが、静寂の黄金郷に残されているだけだった……。
「…………うりゅー……。」

「……ベアトは、……魔女だもん……。」
「うりゅ…。ベアトは、魔女だよ…。」

「魔法だもん……。……えっく…、……魔法だもん……っ…。」「魔法だよ…、ベアトは魔法で、真里亞にキャンディーをくれたんだよ…。疑わなくていいんだよ…。……うりゅー…! ベアトを信じてあげて…。魔法は、信じなくちゃ実らないって、真里亞は知ってるよ…。」
「ぅうぅ……、…ううぅうううわぅううううぅうううぅ……。」
 いつの間にか降り出した、凍えるような冷たい小雨の中で、……真里亞はさめざめと泣く…。

 せめて雨粒から庇おうと、さくたろうはその大きな袖で真里亞の頭を庇い、……いつまでも一緒にいるのだった……。
「さ、行こう、真里亞…! 上の部屋で、一緒にトランプでもしよう…。」

「……ヱリカさん。僕は今のやり取りは、あまり大人として尊敬できないね。」
「どうもすみません。私もまだ子供なもので。」
「……ひっく、………ひっく……。」

 ヱリカに、素敵なキャンディの魔法を散々に貶され、……真里亞はずっとずっと泣いていた…。

「はぁ…。……食後のクイズ大会の時から感じてたが。お前、性格悪すぎだぜ。……楽しいか?! 小さい子の夢、ズッタズタに引き裂いて楽しいかよッ?」

「ば、戦人さまもお止め下さい…! どうか私に免じて、この場はこれ以上はお控え下さい…! お願い致しますッ…!」

 おろおろしていた紗音が、深々と頭を下げて懇願する。
 紗音を追い詰めたくない譲治も、それに同調した。
「行こう。また今年も僕たちはいとこ部屋で過ごそうよ。テレビを見たり、トランプをしたりして遊ぼう。」

「……ヱリカさんの部屋、用意があるそうだから。紗音、案内してあげて。」
「まだ結構です。私はもう少しここでのんびりすることにします。余韻を楽しみたいので。」

「……何の余韻だよ。……へっ。」

 戦人たちは、もはや隠すことなく悪態をつく。

 招かれざる客人を、これ以上、持て成す義理はないのだ。
 ヱリカもまた、探偵が歓迎されることなどないことを充分に理解している。

 ここを立ち去りたい戦人たちと、ここに残りたいヱリカ。
 両者の思惑は、何ら互いを縛らない。
 まだ泣き続けている真里亞を、朱志香は、さぁ行こうと促す…。

 すると真里亞は足を止め、ぐるりと振り返った。

「………何か?」

「きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!! たまにいるんだよ、魔法を信じない毒素の塊みたいなニンゲンが! 私のクラスにもお前みたいな男子がいくらでもいるよ!」

「魔女も魔法も、奇跡も幸せも何も信じない! そんな程度のヤツらの毒素に焼かれて灰になっちゃうようじゃ、魔女になんかはなれないねッ! 真里亞はこう見えても、ベアトリーチェの弟子! 原初の魔女見習いなんだからッ! きっひひひいひひひひひひひひひひひ!!!」

 直前まで、さめざめと泣いていた真里亞が、まるで別人に豹変したかのように。……薄気味悪く、いや、けらけらと笑う。

 戦人たちは突然のことに面食らうが、ヱリカはその様子を平然と見ていた。

 そして、微笑みながら小さく頷いて応える。

「グッド。……根性は悪くないです。おやすみなさい、ミス・マリア。次はもっと手応えのあるゲームで戦いましょう。」

「そうだね、そうしようね、約束しよう。……きひひひひひひひひひひひ。」

「ま、真里亞もよせって…! 行こう行こうっ。」

「紗音ちゃんもどう? よかったら一緒に。トランプ。」
「ほんの一戦でもいいから付き合ってくれよ。厄払いになるぜ。」

「え、……あ、……じゃ、じゃあ、ちょっとだけ……。」

 もうこれ以上、窒息しそうなラウンジに紗音も留まれない。
 逃げるように申し訳ないように、戦人たちの後についていく…。
 あとのラウンジには、ヱリカだけが残されるのだった…。

 ヱリカは薄笑いを浮かべたまま、飲み物のグラスを指で弾く。
 チンと軽い音がする。
 ……案外つまらない音だった。

 それでもヱリカは、さも小気味良いかのように、薄ら笑いを浮かべるのだった…。
「ほっほっほ、お待たせしました。お風呂に入っておりまして…。……おや、皆様方は?」

「……入れ替わりですね。ついさっき2階へ上がりました。あなたを呼んだのは私です。……何でも、悪食島の話や、森の魔女の話などにも詳しいとか。」

「えぇ、まぁ。ほっほっほ。他愛もない話ですが……。」

「他愛なくて大いに結構です。湯上りに一杯いかがで? ……私もたまには、サービスくらいしますので。」

 ヱリカは立ち上がると、カウンター裏の冷蔵庫を開け、アイスペールに氷を詰めるのだった……。
「……ヱリカちゃん、か。ずいぶん変わった子だね。…最近の若い子とは、どうも相性が良くないよ。」

「くす。譲治さんだってお若いですよ。」

「ははは…。いとこで最年長ということもあって、ついつい…。いつも自分がもう若くないって気持ちになっちゃって。」
 譲治と紗音の姿は、雨の薔薇庭園にあった。
 雨はまだ本降りだが風はほとんどない。

 こうして東屋で雨宿りが出来るなら、二人の逢瀬には充分だった。
 ヱリカと喧嘩別れした彼らは、気分転換にトランプで遊んだ。

 その後、紗音は使用人室に戻り、……そして遅れて譲治も部屋を出て、約束の時間にここで落ち合ったのだ。
「ヱリカさんくらいのお歳の方が、一番、自分自身との付き合い方が難しいと思います。」

「……そうだね。子供という殻を打ち破りたくて、辺り構わず嘴を打ちつけるお年頃だね。それを打ち破れて、ようやく大きく羽ばたくことが出来る。……僕もそうだったよ。かつて、まだ殻の中にいた時の自分は、情けなくひ弱な、まるで尊敬できない男だった。」

「そ、そんなことはありません…。」

「いや、いいんだ。自分でもわかってる。かつての僕は、いとこの中で最年長ではあっても、いつもぼんやりしているうだつの上がらない男だったよ。……それは何もいとこの中だけの話じゃない。家でも学校でも、全てでそうだったさ。」
 ……そんな自分が、嫌いだった。

 その殻を打ち破り、父さんや母さんのような立派な大人になりたかった。
「でも、……譲治さまはそれを打ち破られました。……この数年の譲治さまは、毎年出会う度に見違えるようでした。」

「ありがとう。」
「……何か、きっかけがあったんですか?」
「殻を破る?」

「はい。……あれほどの、まるでサナギを経て蝶になるかのように、目まぐるしく成長された譲治さまが、ただ漫然と日々を過ごしていてそれを迎えられたとは思いません。……それだけの大きな決意される、何かきっかけがあったに違いないと思いまして。」

「……君に惚れて、愛の力で成長した、…と僕は今まで言ってきたんだけど。はは、……本当は、もっとネガティブな感情からだったんだ。」

「そんな……。いつも明るく、朗らかでおられる譲治さんにネガティブな感情なんて、ちょっと信じられないです。」
「僕はね。……両親に、女性は大切にしろと教えられてきたんだ。そしてそれを実践してきたつもりだったよ。」
「はい。とても紳士的で、素晴らしいと思います…。」
「本当は違う。」
「………?」
「異性とどう接していけばいいかわからなくて。過度に神格化して畏れて、……紳士的なレディファーストを装いながら、僕は女の子との交流に、多分、恐怖さえ覚えていた。」
 もちろん、譲治に、異性と交流したい気持ちは、健全な男子として当然に存在した。

 しかし、どう接すればいいかわからなくて。紳士的に振舞いたくて、嫌われたくなくて、そして大事にしたくて。
 その気持ちが、女性を大切にするという言葉だけが先行する、自覚なき女性恐怖へと膨らんでいった…。
「そんな男を、紳士的な、奥手な男と呼ぶんだろうね。………とんでもない。ただの臆病者さ。そのくせ、自分はこんなにも紳士的なのに、どうして彼女が出来ないのかと一方的に思い込み、最後には、世間の女性は全て、男を見る目がないなんて勝手に決めつけ、勝手に蔑み始める。………これが本当の、情けない男ってもんさ。」
 僕がそれに気付いたのが、……何年前だったろう。中学生くらいの頃だったろうか。

 当時の僕は、いとこの中でもっとも紳士的で、女性にモテて当然だろうと思い込んでいた。
 しかし、現実はまるで違う。

 学校での僕は、まるでうだつが上がらない。

 ……リーダーシップどころか、周りに流されるだけのイジラレキャラ。

 当時の僕はそれを、空気が読めて周りに合わせられる、順応性を持つデキる男、なんて思ってたよ。……馬鹿馬鹿しい。
 確かに僕は女子から一定の信用を得ていたかもしれない。

 ……でも、僕とガールフレンドになってくれる女子はおろか、友人と呼べる女子さえもいなかったよ。
「そりゃそうさ。……レディファーストと称して、いつも後ろへ下がる男だよ。そんな後ろ向きな、牽引力のない男の背中についていこうなんて、誰が思うものか。…滑稽だね。それに気付かず、自分はさぞや魅力的な男子に違いないなんて思ってる。」

「………その気持ち、ちょっぴりわかります。…自分が、異性に魅力的に見てもらいたくて努力した振る舞いが、必ず思ったとおりの結果を導くとは、限りませんから。」

「へぇ。……紗音にもそういう経験が?」

「もちろんです。……私だって、男の子の気を引きたくて、出来もしないお化粧をして恥をかいたり、……うふふ、恥ずかしい失敗の思い出がたくさんあります。」

「そんな、自惚れた僕の目を覚ましてくれたのが、……紗音。……いや、君たちだった。」

「………どんなきっかけが、譲治さんに訪れたんですか。」
「はは、……嫉妬かな。」「意外です。……でも、何に?」

「君と、戦人くんが、とても楽しそうに話しているのを見て。……僕は嫉妬した。」

「…………私が、…戦人さまと?」

 紗音は、譲治を嫉妬させるようなどんなやり取りがあったろうと、あたふたと記憶を辿る。

「はは、君たちにとっては、他愛ない会話だったに違いないよ。でも、僕はそれに嫉妬を感じてしまった。……ここからの話は、戦人くんには絶対に内緒にしてほしい。約束できる?」

「も、もちろんです…。」
「…………………。……みすぼらしい、僕の懺悔さ。…でも、聞いてほしい。今夜は、僕の悪い部分も知ってくれた上で、君に返事をもらいたいことがあるから。」

「…………はい。……聞かせて下さい。」

 紗音は微笑みの中にも真面目な眼差しを浮かべ、頷いた。

 今夜。……彼が何を問おうとしているか、知っている。

 その神聖な問いの前に、譲治には懺悔する資格と、紗音にはそれを聞く義務がある。
 それを理解しているから、……紗音は静かに耳を傾けた。

「観劇の魔女って、ずいぶん趣味の悪い魔女なのね。」

「……恋を語る話は、時を超えて尊い。いくら聞いても飽きぬでな。……もっとも、私には縁寿の、生娘らしい嫌悪の表情の方が愉快であるが…。」

 フェザリーヌは静かに笑う。

 縁寿はぷいっとよそを向くが、それすらもフェザリーヌを喜ばせているとすぐに気付き、努めて平静を装う…。

「戦人くんも朱志香ちゃんも、昔から快活だね。……いや、そんな言い方は取り繕ってる。……だから、こう言うよ。」
 譲治は雨雲のはるか上に、きっと浮かんでいるはずの月を見上げて、言う。

 それは、素直な譲治の胸中を、正直な言葉で語るものだった…。

「……僕は昔から。戦人くんも朱志香ちゃんも。礼儀に欠けた子だと思ってたよ。……いや、もっとダイレクトに言おう。……言葉遣いの下品な子たちだなとさえ、思っていたよ。………本当さ。軽蔑してくれていい。」

「しません。……人は何を胸中に思おうと許されます。むしろ、態度に出さなかった譲治さんは立派です。」

「ありがとう。………僕はそんな彼らを内心、見下していたよ。それに比べて僕はなんと立派で紳士的魅力に溢れているかと、本気で自惚れていたさ。」
 彼女がいるいないが、まるで男として一人前であるか否かの条件であるように錯覚してしまうお年頃だった。

 こんなにも女性を大切にする紳士に憧れない女の子はいないと、僕は本気で信じてたさ。

 だから、縁ある女の子たちはみんな、僕に好意を持ってるに違いないと本気で思っていた。
「それに比べたら、いつまでもはしゃいだりふざけたり、下品で低俗な言葉遣いばかりしている戦人くんや朱志香ちゃんなんか、絶対に彼女や彼氏が出来たりするもんかと思っていたよ。……それが、いつまで経っても彼女が出来ない自分への、精神安定剤だったのかもしれない。……とんでもない。彼らは僕に劣ってなんかいない。むしろ、異性を勝手に神格化して、レディファーストと称して畏れて避ける僕の方がよっぽど、劣っていた。」
「戦人も朱志香も、昔からあぁいう性分だった。確かに粗野で、紳士的淑女的とは到底言えなかっただろう。……しかし、男女を分け隔てなく交流できる力があった。…いや、魅力と言っていいかもしれない。」

「………ちょっとわかるわ。お兄ちゃんや朱志香お姉ちゃんみたいなタイプの人って、男女問わず誰とでも仲良くなれるタイプよね。……譲治お兄ちゃんには悪いけど、あまり紳士を振りかざし過ぎる人って、…ちょっと気持ち悪いわ。……童貞臭いって言うか、何というか…。」

「人は、無縁であるなら、相手が無害で退屈な人間であることを尊ぶ。しかしそれは、邪魔にならないという意味で好まれているだけだ。……退屈な人間を、身近にしたいと願う人間など、いるわけもない。」

「……当然よ。動かず、物も言わぬ電信柱と友達になろうという馬鹿はいないわ。……でも、動かず物を言わないのは、電信柱としては優秀だわ。」

「そういうことだ。譲治はつまり、いくら自分が優秀であっても、魅力ある人間として認められていない、ただの電信柱扱いであることに、ようやく気付いたというわけだ…。」
「僕は当時、自惚れの真っ盛りだった。……だから、親族会議でみんなで集まっている時。一番魅力的なのは僕で、それに混じって遊んでくれた使用人の女の子はみんな、僕に惚れていると信じていたよ。………それがあの日、僕はそこでようやく、自分がどれほどみすぼらしかったかを思い知ったのさ。」
「………私が、…当時、何か心無いことを言ってしまったのでしょうか……?」

「いいや、逆さ。………君は何も言わなかった。君の瞳に映っているのは常に僕だという自惚れが、打ち砕かれたのさ。」

 いつからだったんだろうね。
 ……いや、多分、ずっと前からさ。

 僕が自惚れで目を曇らせているから、気付かなかっただけなんだ。

「……ある日、唐突に気付いたんだ。……君たちが、戦人くんや朱志香ちゃんと、僕なんかよりはるかによく馴染んで、……楽しそうに遊んでいることに。」
 ……そうさ。僕があれだけ見下してた彼らは、僕なんかよりはるかに魅力を放っていたんだ。
 あの日の君は本当に楽しそうだったよ。

 僕に見せてくれるどんな表情よりも、それは明るかった。
「ははは、気色悪い話さ。……僕は君を勝手に、僕に好意を持ってると決めつけ、ひょっとしたら異性の付き合いになってもいいかななんて、青臭い白昼夢を許したことさえあるんだ。それを、勝手に恋人を奪われた気持ちになって、勝手に傷付いてる。………どこまでも僕は、駄目な男だったんだ。……その時、ようやく僕は、自分の愚かさに気付けたんだ。」
「………譲治さま……。」
「その後、戦人くんは色々あって親族会議に来なくなったけど、留弗夫叔父さんから彼の近況は聞いていたよ。……叔父さんもかわいい人だね。戦人くんとあんなにいつもケンカをしているのに、…戦人くんの近況を常に気に掛けていた。」

「……そうですね。私も聞かせてもらったことがあります。……明日夢さまも呆れておられましたっけ。……学校では大層、女性に人気で、トラブルが絶えないのはきっと留弗夫さまの血のせいに違いないと。」

「そして朱志香ちゃんも。男女の友達を大勢作って、いつもその中心で活躍していると聞いていたし。……実際、朱志香ちゃんと話しても、それは何の誇張でもないと理解できたよ。」
 それは、……見下していたはずの二人の方が、……はるかに魅力ある人間だったことを示していた…。
「最初はね、戦人くんたちを真似ようと思ったんだ。……滑稽な話さ。ふざけたりはしゃいだり、下品な会話を好めば、彼らのような魅力が得られると思い込んだ。」
「くす。……譲治さまがですか? ちょっと想像できません。」
「痛々しかったよ…。僕もあの頃のことは生涯思い出したくない。そして、そんなことを真似ても、真の魅力は宿らないとすぐに気付いたよ。」
 僕に魅力がないのは、人を大事にすると称したり、場の雰囲気に合わせて振舞えると称したりして、………いつも一歩逃げている自分の、臆病さにあったんだ。
 僕は、それを克服するために、生まれ変わる決意をしたよ。
 ……初めて自分の殻というものを理解し、それを打ち破ろうと誓ったんだ。
 その意思が挫けそうになる度に、……あの日のことを思い出してバネにした。……君たちが僕を忘れて楽しそうに遊んでいた、あの日。そして、僕に好意があると決め付けている君の瞳に、僕が映っていなかったことをね。
 ………誓ったんだよ。今度こそ、本当に君を振り向かせて、その瞳に僕を映してやりたいとね。……それが、実は君に恋をした、一番最初の感情。
「……………複雑、…だったんですね。」

「あの日、僕を無視して遊んでいた君たち、……いや、君への復讐が。いつの間にか、本当の恋心に変わっていったんだ。……しかし、神に誓うよ。それが君のことを真剣に考え出したきっかけだとしても。……僕が今、君に持つ気持ちには、何の偽りもない。……僕は君を生涯愛することを誓う。それは誰にも、何にも偽らない。そして、君を妻として迎えるために、僕には世界を敵に回すことだって厭わない覚悟がある。」

「……譲治…さん……。」

「以上が、君に先にしておきたい懺悔さ。……僕は今日まで君のことを、初恋で一目惚れだったと言ってきた。……それは嘘なんだ。…自惚れた僕の、歪んだ、」

「関係ないです、そんなの。」

 紗音はにっこりと笑いながら、……だけれども、譲治の言葉を断ち切るだけの強さをもって、言った。
「初恋じゃなかったら、結ばれちゃいけないんですか…? 初恋の人を忘れたら、それは裏切りなんですか…? 恋って、……そんな単純じゃない。いえ、……単純かもしれない。……だって、恋なんて簡単。……常に、今の。……今の自分の正直な気持ちだけが、正解なのだから。だから昔の話も馴れ初めも、何も関係ないんです。」
「……懺悔、…し損だったかな…?」

「くすくす、いいえ。……何事も完璧な譲治さんにも、人間臭い一面があることがわかって、ちょっと嬉しかったです。……そして、それを私だけに打ち明けてくれることに、…嬉しくなりました。」

「…………ありがとう。…僕は、君がいたから、僕になれた。」

「私も。譲治さんがいるから、私でいるのです。……だから、包み隠さず教えて下さい。……私たちは、どんな夫婦になって。……どんな未来を築くのですか。」

「僕は、君という妻を得て。父さんを超える実業家になる。……そして様々な挑戦や冒険を経て、自分の可能性の限界を確かめたい。その到達点の頂に、君と一緒に至りたいんだ。……そこからの眺めは、僕以外の誰にも見せられないものになる。」

「楽しそうです。……どこまでも、お供します。」

「もちろん実業家としての冒険だけじゃない。…夫婦でしか築けないものも、たくさん積み上げていきたい。」

「くす。……それは、どんなものですか。」
「子供を作ろう。」
「くす。………はい、旦那様。」
「最低、3人は作りたい。男の子も女の子も両方欲しい。」
「もし、3人とも男の子だったら…?」
「次こそ女の子かもね。4人目を作ろう。……何人居てもいい。子育てという冒険も、二人で楽しもう。そしてやがては巣立った子供たちが、孫を連れて帰ってくる。気付けば、僕たちは大勢の子供と孫に囲まれた、賑やかな老後を迎えてるだろうね。」
「楽しそうです。譲治さん、……どんなおじいちゃんになってるんでしょうね。」

「君こそ、どんなおばあちゃんになってるんだろうね。でも、僕は君を変わらず愛し続けるよ。……そして、大勢の家族に見守られながら往生できたら、僕たちの人生は、誰にも負けないものとして描き切られる。」


 譲治は、今だけの愛を語らない。
 棺の蓋を閉じる最後の瞬間まで。……その魂を愛し抜くことを誓う。
 そして譲治は懐から、小さな箱を取り出す。
 ……開かずとも、それに何が入っているかわかる。

 その取り出す仕草は、彼が空港のトイレなどで緊張しながら練習したどの仕草よりも自然で、そして男性的魅力の溢れたものだった。
「紗代。」
「はい。」

「結婚しよう。」
「はい。」

「この指輪を、どうかその指に通して欲しい。」
「………はい、譲治さん。」
 東屋の薄明かりの下であっても、神々しく輝くその指輪が、……譲治の手から、紗音の指へ委ねられる。

 もちろん、紗音はどの指にそれを通すべきか、それをすでに決めていた。
「僕と君の未来を阻もうとする全ての運命に、僕は毅然と立ち向かうことを誓う。」

 譲治は、婚約したことを明日にも親族全員に打ち明けると宣言する。
「僕たちの結婚に、両親はとやかく言うかもしれない。……でも、僕はそれを許さない。僕が親にするのは婚約の報告であって、認めてもらいたいわけじゃない。もし母さんが、君との結婚を許さないと言い出すなら。僕は自ら勘当を申し出て、君と家を出るつもりだよ。」
「僕にはその覚悟がとっくにあるんだ。……僕たちの未来を阻む全ての運命に、僕は毅然と立ち向かうことを、もう一度誓うよ。」
 ……譲治がそれを宣言するから。

 だから紗音も、同じ宣言をする。

「私も。……私と譲治さんの未来を阻もうとする運命に、毅然と立ち向かうことを誓います。」
「くすくすくす。……戦人さーん、いつ事件が始まるんですー? もう恋愛ごっこ、お腹いっぱいなんですけどー。」

「…………………。……黙って、見ていろ。」

「……はいはい。私が欠伸でもした隙に、何かとんでもない伏線を通過されたらたまりませんから。」

「…………お前には、愛はないのか。」

「愛が証拠として受理されるミステリーってあるんですか? ありませんから。」

 ヱリカは冷酷に笑い、ゲーム盤の二人を見下す。

 そんなヱリカを、戦人は静かに見ている。

 ……その目に、わずかの憐れみが浮かんでいる気がして、ヱリカは不愉快そうに目を背けた。

「……………………。……一応、理解はしてますとも。愛が、殺人の動機程度にはなりうることくらい。……一応、この東屋での出来事は、二人の婚約に障害が生じた場合、犯行の動機となりうる程度には、解釈しとこうと思います。」

「………ま、赤くない言葉でいくら愛を囁こうとも、全ては幻ですが。くっくくくくくく!」

「………可哀想にな。……お前は魔女に証拠が与えられなかったら、人も愛せないんだな。」

「下らない恋愛トークは止めて下さい。私はあんたの敵であって、恋の話に付き合う酔狂な友人ではありませんから。」

「………………………。」
「私には、今のあんたがさっぱりわかりません。……一体、あんたは何を悟ったってんです? あんたとベアトは罵り合い殺し合う関係だったはず。……そのあんたが、何の真相に至って、ベアトに対する感情を変えたんですか。……まさか、殺し合うライバル関係から、恋愛感情が芽生えたとか、バカなこと言い出さないですよねぇ?」

「……ヱリカ卿。ゲームの進行を続けさせまショウ。退屈な恋愛シーンなど、とっとと終わらせるに限りマス。」
「ホントそうですね。口を挟んで失礼。ささ、どうぞ続きを。」
「…………………………。」
「……紗音です。戻りました。」

「うむ。……今日の日誌はまだだな。」

「はい。すぐに提出します。……嘉音くん、留守番をありがとう。」
「……………………。……長い休み時間だったね。」
 嘉音はもう気付いている。……紗音の左手の薬指の白銀の輝きを。

「では、私は先に休む。……何かあったら構わず起こすように。」

「「お休みなさいませ、源次さま。」」

 源次は控え室へ去っていく。

 ……後には、紗音と嘉音の二人だけが残された。

「……時間をくれてありがとう。あとは私が控えてるから、嘉音くんももう休んでもいいよ。」
「…………………………。……今度は、僕の手番ってことだね。」

「………うん。……悪いけど、……私たちは、負けないよ。」
「僕だって、……負けるものか……。」

「今日まで臆病で、お嬢様にリードしてもらわなければ何も出来なかった君が…?」

「…………姉さんが教えてくれたはずだよ。」

「何を教えたかな…。」

「恋に、昔も過去も関係ない。今だけが、重要なんだって。もしそれが本当なら、僕の今は、姉さんの今に、何も負けてるなんて思わない。」

 紗音と嘉音は、……互いに真剣な目で、睨み合う。
 その緊張の時間は、紗音が、ふわっと笑って終わった。

「……うん、それでいいよ。……君と、お嬢様もがんばって。……もしも結ばれるなら。……私たちが心の底から祝福できるくらいに、素敵な関係になって。」

「姉さんに、かなりのリードを許してるけどね。」
「……仕方ないよ。それが、君のこれまでの臆病の対価なんだから。」

「わかってる。……それが僕の、罪だから。」
 紗音と嘉音は、それぞれのポケットをまさぐると、……金色に輝く小さなものを取り出す。

 それは、……黄金の蝶の、左右それぞれの羽に見えた。
「私たちは家具。……ニンゲンになって、愛を育む奇跡を得るには、……もう一度、魔法の奇跡を頼らなくてはならない。」

「……あいつのブローチが、役に立つなんて。」
「私たちの手元にある、唯一の魔法。」
 それは、……かつて、譲治との恋を望み、それを叶えるためにベアトリーチェが授けてくれた、……黄金蝶のブローチだった。

 紗音が嘉音に譲ったが、嘉音が感情に任せて踏みつけ、壊してしまったものの破片だ。

 だから二人が持つ左右の羽を近付ければ、……立派な蝶の姿を取り戻せる。

「……じゃ、行って来る。……僕もトランプに、一応呼ばれてたからね。」
「うん。がんばってね。……お嬢様、きっと喜ぶと思う。」

「………少し照れるな。」

「楽しんで。その感情を。」
 嘉音は使用人室を出る。……朱志香に会い、自分の決意を伝えるために。

 紗音はそれを静かに見送る。

 彼女の持つ、ブローチの破片と婚約指輪が、それぞれ、金と銀の煌きを浮かべていた……。

「懐かしいぞ。あれは確かに、妾が紗音に与えたもの。……嘉音が踏み潰して以来、どこへ紛失したかと思っていたら、まだ持っていたのか。」

「……黄金蝶のブローチ、ですね。……恋愛を助ける魔法のブローチと、フェザリーヌさんの本で読みました。」


 そしてそれが、……森の魔女ベアトリーチェが、初めて人と交流し、その力を授けた瞬間だった。

 少しずつ、亡霊風情から屋敷の夜の支配者へと格を高め、……使用人たちに、自分の存在を信じさせることにより、その反魔法力を削り取ってきた。

 そして、……その中でも、特に反魔法力を失い、ベアトリーチェの存在を信じ始めていた紗音の前に、とうとう姿を現すことが出来るようになったのだ…。

 長いこと、誰とも交流できなかったベアトにとって、紗音との久しぶりの会話は、とても楽しいものだった…。

「だから気前良く、黄金蝶のブローチを与えてやったのだ。……くっくくく、妾は相当、上機嫌であったのだな。…妾の如き冷酷な魔女が、そこまでサービスをするとは。」

「でも素敵です。あなたは未来の恋人たちの仲を取り持たれたのですから。」

「もちろん、甘やかしたつもりはないぞ。……妾の魔力を抑え付けてきた、あの憎々しい霊鏡を割ることと引き換えだ。そのお陰で、妾は一気に力を取り戻すことが出来たのだから。」
「しかし、ある夜、紫の雷が鎮守の社を打ち砕いたのです。島々の者たちは、凶兆だと囁き合いました。おぉ、今思えば、あれこそがベアトリーチェさま復活の徴だったに違いありません。」
 熊沢はもうオフの時間だ。

 だからヱリカに勧められるままに、アルコールを飲み、ほろ酔い気分の上機嫌で、悪食島伝説やベアトリーチェの話を語り続けていた。
 ヱリカは、時に相槌を打ちながらも、じっと耳を傾けていた。

 特にメモは取っていないが、彼女の頭の中のホワイトボードで情報をまとめている。

 ……そして、違和感を覚えたような表情で眉間にしわを寄せてから、挙手した。

「ちょっとストップを。」
「はい。」

「……その鎮守の社は、悪食島の悪霊を封じるために、旅の修験者が建立した。そうでしたね?」

「えぇ、そうでございます。強い神通力をお持ちだったということで、その力を鏡に込め、」

「霊鏡として社に奉納し、悪霊を封印した。……少し違和感を覚えます。……悪食島の悪霊を封印する社が、どうしてベアトリーチェも封印するんです?」

「は、……はぁ…。それはその、霊鏡の神通力が…。」

「……なるほど。東洋の悪霊も西洋の魔女もOKの、便利な霊鏡だったから、というわけですか。……わかりました。すっきりはしませんが、そこは折れることにしましょう。しかし、どうしてベアトリーチェが蜘蛛の巣も嫌うのかわかりません。」
 伝説では、悪食島の悪霊は蜘蛛の巣を嫌ったため、魔除けとして近隣の島々でも尊ばれたらしい。
 実際、蜘蛛は益虫。
 島の農民が大切にしたとしても何も不思議はない。

 それを悪霊の話と連結させて、魔除けと呼び、子々孫々に益虫を大事にするように言い伝えたと考えるのは、不思議なことではない…。
「しかしそれ、悪食島伝説の話です。そもそもベアトリーチェの魔女伝説の発祥は、この島に引っ越してきた右代宮金蔵が、ミステリアスな黄金伝説と、それを授けた魔女という名の愛人を吹聴してから始まったものです。」
「つまり、悪食島の悪霊と、黄金の魔女ベアトリーチェは本来、まったく異なる存在のはずなんです。なのに、設定が同じになっています。」

「さ、……さてはて、……。」

 悪食島の悪霊は蜘蛛の巣が苦手。ベアトリーチェも苦手。
 そういう論法でずっとまかり通ってきた。

 ……それがおかしいと指摘され、熊沢は何と答えればいいか困惑してしまう…。

「金蔵さんの書斎のドアノブは、サソリの魔法陣が描かれていて、それは西洋魔術では魔除けを意味する。だから西洋魔女のベアトリーチェは、ドアノブに触れられない。……これは理解できるんです。」

「でも、蜘蛛の巣に限っては、ベアトリーチェが嫌う理由がありません。私の知る限りでも、西洋魔女の苦手なものに、蜘蛛の巣があったという記憶はありません。むしろ蜘蛛は、魔女の仲間や眷属では?」

「は、……はぁ……。」

「思うに。……悪食島伝説の悪霊と、魔女伝説のベアトリーチェ。この2つの異なる伝説が、少し混交しているように思います。いえ、混交どころか融合かもしれません。」
「……悪食島伝説は、六軒島周辺の暗礁を恐れた漁民たちが生み出したおとぎ話。しかし、悪食島に住まう悪霊なるものには、具体的なビジュアルイメージが伴っていませんでした。人なのか、怪物なのか、はたまた足のない幽霊なのか。さっぱりイメージがありません。人は、ビジュアルを伴わない空想を苦手とします。……そこに、ベアトリーチェという魔女の伝説が登場した。」
「悪霊よりは、魔女の方が想像しやすい存在です。しかもその上、金蔵さんはベアトリーチェの肖像画を描かせ掲示しました。つまり、悪食島伝説の一番の弱点、祟る悪霊のビジュアルイメージが初めて補完されたわけです。そこからいつの間にか、2つの伝説が混じり合っていってしまったのではないでしょうか。」
「ど、どうでございましょうねぇ……。…ほ、……ほほほ…。この老いぼれには、少し難しい話にございます…。」
 熊沢は脂汗を浮かべながら、取り繕うように笑う…。

 彼女は一見、混乱している風を装っているが、実際にはヱリカの話が理解できていた。
 ……実際、彼女は、右代宮金蔵が六軒島に居を移す前からあった悪食島伝説と、金蔵の出所不明の莫大な金塊と、それを授けた黄金の魔女の伝説が、……どのように変遷していったか、おぼろげながら、理解しているのだ。
 認めたくないが、……わかっている。

 ベアトリーチェが、霊鏡を嫌い、蜘蛛の巣を嫌う、“設定”。

 これは、六軒島古来の、悪食島伝説をベースに引き継がれたものだ。
 悪食島の悪霊伝説の、悪霊という部分が、肖像画の魔女に差し替えられただけなのだ……。

「……もし。黄金の魔女ベアトリーチェを自称する人物がいたとして。彼女が本当に蜘蛛の巣を嫌うのかどうか。ぜひ聞いてみたいものです。……触れると、どうなるんでしたっけ?」

「ま、魔女の眷属は蜘蛛の巣に触れると、………火傷を負うそうですから、……多分、そうなるんじゃないかと…。」

「ふっ、いいじゃないですか、それ。見事な魔女裁判です。……蜘蛛の巣に触れて、火傷するならば。それは悪霊の方であって、魔女ではない。……そして触れても何も起こらないのであれば、ただのニンゲンであることの証。」

「つまり、………火傷しようが、しなかろうが。黄金の魔女など存在しないという証になります。……魔女伝説なんて所詮、悪食島伝説が装いを変えただけの、焼き直しに過ぎないのです。」

「………は、………はぁ………。」

「ただ伝説がそこにあるだけで、古戸ヱリカはこの程度の推理が可能です。如何です? 皆様方……?」
 ヱリカは、二人きりしかいないはずのラウンジなのに、透明な観劇者がもしも存在していたなら、そこで見ているに違いないだろうという方を向き、肩を竦めるような仕草をして見せた…。
 そして、ヱリカのその想像を裏切らず、………そこには当の本人たちがいて、今の話を聞いていた…。
「………蜘蛛の巣、ですか…? 触れると、火傷を……?」

「………………………。」

 姉のベアトが指を鳴らすと、……天井からすぅっと、銀色の気品溢れる蜘蛛が一匹、透き通る糸を垂らしながら下りてくる。

 後には、銀の糸が一本、残された。

「………………えっと、………。」

 ベアトは、恐る恐る、……蜘蛛の糸に指を伸ばす…。
 そして、…………触れる……。

「…………………。……平気です。」

「………平気なのか。」
「え……?」

 姉のベアトは、白く透き通った指を立てて妹によく見せた後、……すっと、銀の糸をなぞった。

 シュウ、っと、……髪が一本燃えるような異臭が立ち込める。

 呆然としているベアトの前に、その指が再び示された。
 そこにはまるで、剃刀で一筋の傷を付けたかのような、……鋭利な火傷の痕が残っていた……。

「これは、……どういうことですか…。」
「妾が聞きたい。どうしてそなたは、平気なのか。」

「わ、わかりません。……むしろ逆に、どうしてお姉様が蜘蛛の巣に触れると火傷をするのか、わかりません…。」
「……わからぬ。妾が自らの存在を意識した時から、そういうことになっていた。」

「では、………お姉様は………、」

 ベアトはそこで言い淀む。

 ……しかし、何を言おうとしているかは伝わっていた。

「違う。妾は悪食島の悪霊などではない。妾は六軒島の夜を支配する魔女、ベアトリーチェである。……どうして、この島の太古の悪霊と同じ弱点を持つのかは、妾にもわからぬ…。」

「苦手なのは、蜘蛛の巣だけですか…?」

「ヱリカとやらが言うように、金蔵の書斎のドアノブも駄目だ。あのサソリの魔法陣は妾を焼く。……妾にとって、金蔵の書斎の扉を開けようとするのは、真っ赤に焼けた蹄鉄を火中に拾うも同じこと。………そなたはどうか?」

「え? サソリの魔法陣、ですか……?」

 姉は再び指を鳴らす。

 すると、周りの景色がぐにゃりと歪み、いつの間にか金蔵の書斎の前に移っていた。

 そこには、……サソリの魔法陣が刻まれた、ドアノブが。

「魔術を研究する者ならば、人的にも霊的にも隔絶された隠れ家が必須となる。……金蔵が自らの書斎を閉ざし、このような魔除けを施したとしても不思議はない。……そしてそれは困ったことに、妾にもこうして効果がある。」

 おもむろにドアノブを握り締める。

 すると、蜘蛛の巣の時とは比べ物にならない、痛烈な焼け爛れる音が響き渡った。
「お、お姉様、大丈夫ですか…?! 手は、……ああぁあぁッ…!!」

 その手は、……無残にも焼け爛れ、目を背けずにはいられなかった…。

「安心せよ。これしき、すぐ治る。」

 しばらく放っておけば勝手に治るらしい。
 ……姉には、人間離れした治癒力もあるようだった。

「だが、そなたは。……どうやら平気らしいな。」

「………………ぇ、……ぇぃ。」
 恐る恐る、ドアノブを突っつく。……まったく平気。

 ゆっくりと、……手の平全体で触れるが、ひんやりした感触が伝わるだけだった。

「……不思議だ。……そなたは妾の分身であるにもかかわらず、妾とは様々なものが異なっている。」

「逆に、……ドアノブに触れても平気ですが、お姉様のような火傷を負ったら、私は簡単には治らないと思います…。」

「………まるで、普通のニンゲンのようであるな。」

「は、はい。……私自身、自分が魔女だとは、…ちょっと信じ切れていません。……私には、お姉様のように魔法を使うことも出来ないし、不思議な火傷も、そしてすぐに傷を治すことも出来ません…。………お父様は私を、……偉大なる魔女の生まれ変わりだと信じてくださいましたが、……私には、……それが信じられなくて……。」

「……そなたは何者なのか。」

「わ、私はベアトリーチェ。……お父様のために生まれてきました。……お姉様は?」

「妾もまた、ベアトリーチェ。金蔵に魔法にて黄金を授け、その後も魂となって島に縛り付けられている、体を失った魔女である。」
「………………私たちは、……一体、何者なんでしょう……。」

「……妾と違い、そなたは体を持つ存在のように見える。」
「え? そうなんですか……?」

「うむ。……あのヱリカとやらの話を聞いて、妾はふと思った。……魔女であり、魔法が使えるが、体を持たぬ妾と。……そして魔女であるが、魔法は使えず、肉の体を持つそなた。………妾たちはやがて一つになり、欠け合った部分を埋め合って、本当のベアトリーチェとして完成されるのではないだろうか。」

「……………………………。」
 確かに、一理あった。

 二人のベアトリーチェは、互いに欠け合っている。

 この二人が一つになれば、それは戦人が望んだベアトリーチェに、かなり近い存在に違いない…。

「……試して、…みるか?」
「…………え…?」

「手を出せ。」

 姉は、ゆっくりと手の平を掲げ、ベアトに差し出す。

 さっき大火傷をしたはずのその手は、確かにもう、治りかけていた…。

「妾たちは、……一つになれるかも知れぬ。妾も知りたい。そなたと一つになることで、……未来の妾を知りたい。」

「…………………………。」
 ベアトも、ゆっくりと手を掲げ、………二人は、手を、……触れ合う……。
 …………………………。
 ……しかし、何も起こらなかった。

 やがては一つになるべき運命を持った二人も、今はまだその時ではないということなのか……。
「……妾にとって、蜘蛛の巣が苦手なのは当たり前なこと。しかしそなたは、それを知りもしなかった。……同様に、そなたは自分が生まれてきた理由を、お父様のためだと言う。……そのお父様というのは、どうやら右代宮戦人のことらしい。」
「妾も、年に数度しか訪れぬ稀な客人である彼のことは知っているが、その稀な客人の彼と、そなたという妾に、どのような接点があるのか、理解できぬ。……妾たちは、互いをもっと知るべきに違いない。」

「そ、そうですね…。……私たちは互いを知り合うことで、……本当に大切なことに至れる気がします。」
「その向こうにいるのが、一なる未来のベアトリーチェ。……いや、それこそが、妾たちのあるべき正しい姿に違いない。」
 二人のベアトリーチェは手を合わせたまま、欠け合った互いを補い合い、必ず一なる存在に戻ろうと誓い合う。

……ベアトは少しずつ、………かつてのベアトリーチェへ至る道を、歩んでいる…。
 ………不気味な雨と、風の音。

 俺はぼんやりと再び、ベッドの上で意識を取り戻す…。
 魔女に食い千切られた指は、……くっ付いてる。
 あれは幻だった、ではなく、……くっ付いてると、表現する。
 …なぜなら、魔女に噛まれたかのような歯型と痛みが、……残っていたから。
 なのに叩き割ったはずの窓ガラスは、最初からそうだったかのように平然と直っている…。
 ………俺は、どうすればこの気味の悪い部屋から逃げられるんだ。
 どうして俺だけが、……こんな不気味な部屋に閉じ込められているんだ…。

 出たい。……出なくちゃ。……ここから出して………。
 ……扉は厳重な鎖によって封じられている。

 わずかの隙間は許されるが、せいぜい廊下を覗き見られる程度。
 ……握り拳ひとつさえ、通すのは難しいだろう。
 窓も、びくともしない。

 鉄格子の入った、監獄の窓も同然だった…。
 風呂場は、その窓さえない。

 ……そこから出られるのは、蛇口を捻って溢れ出す流水だけだ。
 ……どうやっても、……ここを出られる方法が思いつかない。
 ここに閉じ込められている自分は、まさに虜。

 誰かが外から助けてくれない限り、……ここを永遠に出られはしないのだ。

 ………なら、助けを呼べばいいのでは。
 そう、あの扉に出来るわずかの隙間はやはり、助けを呼ぶためのものなのだ。

 でも、……口から言葉は、出せるだろうか…?

 前にも、ここから助けを求めようとしたが、なぜか俺の口から言葉を出すことは出来なかった。
 ……何かの、間違いかもしれない。

 焦って混乱していたので、声がかすれてしまっただけかもしれない。
 もう一度、扉を開けて隙間を作る。
 温かな廊下の明かりが漏れ、一層、部屋の闇を引き立たせる…。
 声は聞こえずとも、やはり和やかな気配が感じられる。

 ……廊下の向こうの部屋にきっとみんながいて、楽しそうに談笑してるに違いないのだ。
 声さえ出せれば、きっと誰かが助けに来てくれる……。
「………はぁ、………はぁ、…………んっ、…」

 形容し難い、何かの恐怖感に耐えつつ、再び大きな声を出そうと試みる…。
「………………ッッッ!! ……………!!! …………………ッッッ!!!」
 だが、結果は同じ。

 まるで水の中で叫ぼうとしているが如く、……息苦しくなるだけで、何も声を出すことが出来ない。
「………ッはあ!! はぁ、……はあ、…………はぁ…………。」
 室内で独り言を愚痴るだけなら、いくらでも喋れるのに、……外に声を伝えようとすると、何も喋ることが出来ず、窒息する。
 理解する。

 ……この不気味な密室に閉じ込められているのは、俺の体だけじゃない。

 ……声もなんだ……。
 声が駄目なら、音で呼べないかと思い、扉を激しく開け閉めして鎖を鳴らしてみた。

 確かにそれはガシャガシャと賑やかな音を立てているように聞こえたが、……きっと無駄なのだ。
 この音もまた、……この密室に閉じ込められているのだ。

 どんなに激しい音を立てても、……きっと廊下の向こうには、木の葉が落ちる音程度にも、聞こえていまい……。
 この扉を閉ざす憎々しい鎖に音を立てさせて、それによって誰かを呼ぶ試みもまた、一層の絶望を掻き立てるだけだった…。
「………………? ……この、……鎖……?」
 そんな馬鹿な…。
 ついさっきまで、まるで化け物を封印するかのような厳しい鎖だったはずなのに……。

 それはいつの間にか、………普通のチェーンロックに、変わっていた。
 これなら、話はまるで違う。
 内側から、普通に開けることが出来る…!

 チェーンを開けようとするが、隙間を開けたままの状態ではチェーンの長さが足りず、外すことは出来ない。当たり前だ。
「……お、落ち着け……。…………………ごくり…。」
 唾を飲み込んでから、……冷静に扉を閉める。

 そして、……充分にチェーンが弛んだのを見届け、…実際に指で触れてそれを確認する。
 ……小さい頃は、チェーンが上手に外せなくて、……大嫌いだった。

 でもそれは、……大昔の話なんだ。
 今はこんなの、普通に開けられる。……誰だって、簡単に…。
 カチャリ……。

 この部屋に俺を閉じ込めた悪魔が、もうすぐ出られると思わせて絶望させようと企む罠かもしれないという妄想は、……今、払われた。
 チェーンロックは外れ、……ぶらぶらと今、俺の目の前にぶら下がっている。
 ……もう、この扉を封じる鍵は、……存在しない。
 頼む、……もう、何の意地悪もなく、……普通に、………開いてくれ……!
 ……ゆっくり、……扉を開く。

 チェーンを外すために一度扉を閉めたから。……廊下の温かな明かりは断絶されている。
 もし、……再び開けたら、今度は廊下からその温かさが失われていないだろうか。……そんなことにさえ怯えた。
 しかし、それは…………、……思い過ごし。
 ゆっくり、……みるみる、…いや、これは扉なら当たり前……。

 耳障りな軋みで鳴きながら、………この呪われた密室は、ようやくその出口を開く……。
「……………!! ………………ッ!!」

 は、ははは、やった、……やった……!

 その喜びの声さえ、窒息させられてしまう。
 ……でももう、そんなことはどうでもいい。
 ここから出られさえすれば!
 そっと首を出し、廊下の左右を伺う。

 温かな廊下。向こうの方から、楽しそうな気配を感じる。……みんな、向こうにいるんだ。行こう、早く。
「…………ぐえ、…ッ、………?!?!」
 その時、冷たく無慈悲な何かが、俺の喉を潰した。

 まるで、鉄の輪が首に括りつけられていて、それを思い切り後ろから引っ張られたかのようだった。
 ようだった、じゃない。

 ……本当に、……いつの間にか俺の首に、……無骨な鉄の首輪が括りつけられているのだ。
 こんなの、いつの間にッ?! そして、振り返ってさらに絶望する。
 今、開いたばかりの扉の内側から、……太い鎖が伸びていて、……俺のこの首輪に、繋がっているのだ。
 その鎖を引っ張るが、びくともしない。
 揺すると、扉ごとぎしぎしと鳴く。
 ……何だよ、……こ、………これ………。
 俺の首輪に繋がる鎖は、………扉の内側に、繋がっている。

 そう。さっきまで扉を封じていたあの、無常な鎖が、いつの間にか俺を縛る鎖と変わっていたのだ…。
 そんな馬鹿な、そんな馬鹿な…!!
 畜生、こんなことって、こんなことってッ!!

 扉ごと引き千切ろうと力任せに引っ張るが、そんなことではビクともしないのは、すでにさんざん試して知っている。
 ……きっとこの鎖は、俺が再び部屋に戻れば消えるのだ。
 しかし、部屋から出ることだけは、決して許さない。
 一見、普通のチェーンロックに戻ったかのように見えていたが、……何も変わっていなかった。

 “チェーンロック”が、俺をあの部屋に縛り付けているという事実は、何も変わらなかったのだ…。
「……う、……く、……ぅぐぉぉおおおぉぉ……!!!」
 涙をぼろぼろと零しながら、渾身の力で引っ張る。
 ……無駄なことだ。どうやったって、千切れるわけがない。
 そして助けを呼ぶ声さえ許されない。

 ……ならば、部屋から出られたと一瞬だけ思わせる悪魔の無慈悲に、錯乱するような怒りを覚える。

 しかし叫べども叫べども、それは声にはならず、廊下の向こうの誰の耳にも、届きはしない…。
 その時、………廊下の壁に、……違和感のある汚れを見つけた。
 汚れじゃない。……それは、赤い塗料を塗った指でなぞったような、……文字だった。
「………?! …………ッ?!?!」

 その、……血で書かれたような文字は、今の俺がもっとも知りたいことに答えてくれていた…。



 チェーンロックは閉じていなければならない。

 開けても良いが、必ず閉じなければならない。

 閉じなければお前の出口もまた、閉ざされる。
 俺はその不気味なメッセージの意味をすぐに理解する。
 そして実際に試し、完全に理解した。
 部屋に戻り、チェーンロックを戻すと、……首輪の拘束は消えるのだ。

 チェーンロックを再び開けると、……再び首に、重みある感触が蘇る。
 つまり、チェーンロックを開けたままでは、俺は部屋から出られないのだ。

 じゃあつまり、この部屋の外からチェーンを掛ければいいってことじゃないか…!
 もう一度チェーンを開ける。

 ずしりと、首に首輪と鎖が現れる。
 そして廊下に出てすぐ扉を閉め、最小限の隙間を作る。

 そこから手を入れ、ぶらさがるチェーンを摘み、……何とか元通りに掛け直そうとする。
 ……く、……くそ……。
 ……内側からなら簡単に出来るのに、……何で、……外側からだとこうもうまく行かないんだよ…。
 うまく作業をするには隙間が広いほうがいい。
 しかし隙間が広いとチェーンが短く、届かない。

 チェーンが少しでも届くようにするには、扉を少しでも閉めなければならない。
 しかしそうすると手を入れる隙間さえ失われる。
 ……当然だ。

 チェーンロックは内鍵。
 外から開け閉めが出来るようでは、その意味がまったくない。

 だからチェーンの長さが絶妙に調整されていて、決して外からは開けることも閉めることも出来ないようになっているのだ。
 じゃあ、細くて頑丈な何かの道具で、うまくできないだろうか。
 指一本分の隙間があれば、チェーンの長さは充分。

 ……例えば、針金ハンガーを潰したものを隙間から通し、うまくチェーンを引っ掛けることが出来れば……。
 そうだ、扉のすぐ脇にクローゼットが。ハンガーが掛かってないだろうか?
「………あった…!! お、……おぉ、神よ…!!」
 クリーニング屋でもらえるような安っぽい針金ハンガーが一つ、ぽつんと掛かっていた。
 ……そうだったっけ。
 ここをさっき確かめた時には、……こんなものはなかったはず…。
 何でも構わない…! 早く、……早く……!!
 針金ハンガーを捻って絞り、先端を少し曲げて加工する。
 うまく引っ掛けられるよう、輪の部分を作り、……泥棒の小道具のようなものを作り上げる。
 そして廊下に再び飛び出し、ぎりぎりまで扉を閉める。

 手首は到底通せない。
 しかしこれだけ閉めれば、チェーンの長さは充分余るはず…!

 そしてこの隙間なら、針金ハンガーは通せる…!
 あとは要領とコツの問題なんだ…!
 何度も試せばきっと出来る、絶対出来る!!
「………は、……はぁッ、…………はぁ、………はぁ…!」
 一筋縄では行かない…。
 ……しかし、チェーンの長さは充分。……不可能じゃないんだ…!
 ようやく手に入れた唯一の脱出方法。
 ……難しくはあっても、理論上は可能。

 可能なら、出られる。
 俺はここから逃げ出すことが出来るんだ…!!
「……ひ、……ひっひひひひひひひひひひひひひ……。」
「……ッッッ、…?!?!」

 その時、扉の向こう側からずしりと、……何かの重みを感じた。
 まるで、部屋の内側から誰かが、扉に額を押し付けて寄り掛かって来ているような、……そんな感じがした。

 そしてそいつが、……魔女が、……笑ったのだ。
 その瞬間、針金ハンガーに強い力の違和感。

 ……向こう側から、こいつを奪い取ろうとしている?!
 ふざけるな、手放すもんか!!
 俺の戒めを解く、唯一の鍵を絶対に手放すもんかッ!!

 手が疲れても落としてしまうことがないよう、手首に通すような形にしていたのが幸いだった。

 俺の手からこいつを奪い取ろうとしても、出来るものか…!
「ひひひ、ひっひっひっひっひっひっひ……。」

 そんな俺を、再び扉の向こうの魔女は、嘲笑う……。
 その時、……俺は妙なものに気付く。

 力比べをするために扉に添えていた左手。……その左手の指の間から、……何か赤いものが見えるのだ。
 ………それは、……赤い、文字。
 すぐに気付く。

 いつの間にか、扉にまた別の血文字が書かれていて、自分の左手がそれを覆って隠してしまっているのだ。
 扉の向こうの、万力のような力の魔女と戦いながら、……俺は左手をどける。

 するとそこにはやはり、……血文字が書かれていた。
 そしてそれは、………俺のこの足掻きを初めから予見していたかのような、……いや、まさに魔女から俺への、メッセージそのものなのだ。
 チェーンロックは、如何なる方法によっても、外側から開けることも閉めることも出来ない。
 廊下側からの、どんな小細工も、……赤き文字によって、禁じられている。

「そ、………そんな……………。」
「ひひひひひひひ。……ひっひっひっひっひっひっひっひ…!!」
 その時、バリボリっと凄まじい音がして、ふいに針金ハンガーを引っ張る力が解放された。

 そして、……引き抜いたそれを見て、絶望する。
 針金ハンガーの先端が、………室内の闇という硫酸で溶かされたかのように、……焼け爛れて、…溶けて失われていたのだ。
 これでは、もう長さがまるでない。道具にならない…!

 別の代用品を見つけても無駄なことだ。
 ……外からチェーンを閉めようとする全ての目論見は、封じられている…!
 畜生、……畜生、畜生、畜生…!!
 針金ハンガーの残骸を床に叩き付け、……温かな明かりで満ちた廊下で、……俺は助けを叫ぶ。
 しかし、声を出すことは許されず、ただ窒息するだけだ。
 廊下の向こうに、みんながいる。
 そして和やかにしている!

 声は聞こえないけどわかるんだ!
 きっとみんなで、トランプでもして遊んでいるんだ!
 頼む、誰か気付いてくれ!! 誰かッ、助けて!!!
 ひ、ひひひひひひひ、……ひっひっひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!
 ぅおぉおおおおおおおああああぁああああああぁあぁあぁぁ…ッ!!!
「「「……あはははは、はっはっはっはははははははは。」」」

 これは魔女の声ではない。……廊下の彼方から聞こえてくる、みんなの楽しそうな声…。

 誰か来て、……助けてくれぇえぇぇぇぇぇぇ……。
「悪いね、これでアガリだ!」

 譲治が最後のカードを叩き付けると、再び譲治の勝利で決着した。
 みんなが一斉にどよめく。
 いとこ部屋は、楽しくトランプを遊ぶ笑い声に満ちていた…。

「うぉおおおおぉ、やっぱり譲治の兄貴が持ってたかぁ! 憎い、スペードの6が憎いぃいぃ!」
「戦人のダイヤの8もエグかったぜ。あーもー、悔しいッ、あっははははは!」

「うーうーうー!! 譲治お兄ちゃんすごい、また勝ったー!!」
「そうだよ、また僕たちの勝ちだね。あはははははは。」

 本気勝負になったら真里亞は歯が立たない。
 だから譲治と組んでいることになっていたので、譲治の勝利に大喜びする。
「………く、…………………。……完敗です。」

 嘉音は苦々しく、手持ちのカードをバラりとテーブルに零す。
 いとこたちと嘉音の5人での七並べは、熱戦だった。

 普段なら、真里亞もいるわけだから、のんびりとしたゲームになるのに、今日は珍しい。
 負けず嫌いの嘉音が大真面目に勝負を挑んできたため、譲治も戦人もそれを受けて立ち、徹底的に堰き止めあう苛烈なバトルに展開したためだ。
 勝ちも負けも、あっけらかんと楽しむ戦人に比べると、嘉音は勝敗に激しく一喜一憂しているようだった。

 ……負けず嫌いというよりは、遊び慣れていないのだ。
 勝ったり負けたりというやり取りに慣れていないから、遊びの負けにも大真面目になってしまう。

 そんな彼が勝ちに固執して戦って、ベテランの譲治や戦人を挑発してしまったら、結果は火を見るより明らかなのだ。

 がっくりと肩を落とす嘉音の肩を、朱志香が叩く。

「惜しかった惜しかった…! あははっ、でも、楽しいぜ。本気で戦うのはね!」

「……本気だろうとそうでなかろうと、結果が負けでは何の意味も…。」

「とんでもない。本気で戦った結果の負けなら清々しいもんだぜ。いい加減に戦っての負けじゃ、本気出してたら勝ってた云々で未練タラタラでしょ?」

「そうだな。全力を尽くしたヤツは言い訳しない。そして、結果にかかわらず爽やかなもんさ。」
「そうだね。そしてそういう人間が一番怖いのさ。そこから必ず何かを学び、成長するからね。」

「……確かに。…僕は臆病だから、何も学ばなかった。…だから、未だに未熟なんだ。」
 家具だから、何を夢見ても無駄。
 そう決め付け、全てから自分を遠ざけ閉じ篭っていた。

 しかしその間に紗音は、いくつもの人生の冒険を繰り広げた。
 そして今、家具からニンゲンへと続く扉に、手を掛けている……。
 これまでの嘉音だったら、このトランプは、ただの付き合いに過ぎない。

 しかし、……今の嘉音は、そこからも、何かを得ることが出来るようになっていた。
 それを多分、成長と呼ぶ。
 家具は、時を経ても朽ちていくだけだ。

 成長できるのは、……ニンゲンだけの特権なのだ。
「一緒に遊んでくれてありがとう。日誌とか書いたり、忙しかったんだろ…? 付き合ってくれて、本当にサンキューだぜ。」

「……いいえ。僕も楽しかったです。……いえ、……これが楽しいことなんだって、理解できました。僕を無理に誘ってくれて、ありがとうございます。」

「私たちはさ、もっともっと色々なことに挑戦していこう。そして、君が知らなかったものを探しに行こう。……あ、あー、それでー、さっきの話だけどさ。ギ、ギターとか興味ない? い、いやぁ、別に無理にとは言わないけどその、」

「………きっと、難しいでしょうね。」

「ま、まぁね。でもさ、そこは丁寧に教えるし、練習は私も付き合うからっ。まぁ、言うほど私もうまくないんだけどね、ははは…。」

 嘉音は最初、ギターという初めての楽器に触れれば、無様な醜態を晒すに違いないと恐れていた。
 ……その醜態が、自分を不愉快にさせることをわかっていたからだ。

 ……しかし、嘉音は少しずつ学び始めている。

「初めてで下手なのは、当たり前です。……それから逃げてたら、永遠に何も、学べない。何にも、至れない。」

「そうさ。だからこそ人は、上達を実感して面白くなるんじゃねぇかよ。私だって最初はさ、右手と左手が別々に動くってだけでもう全然駄目だったぜ…! でも少しずつコツがわかってくるとさ、だんだん当たり前になってきて…!」

「……………………。……僕も、その境地に至りたいです。その為の道の一つにお嬢様との音楽活動があるなら、……ぜひご一緒させて下さい。」

「ほ、本当に…?!」

「はい。……きっと最初は不出来で、お嬢様を失望させてしまうこともあるでしょう。……でも、本気でやっての失敗だったら、それは清々しいものに違いないと。……さっきお嬢様たちに教わりましたから。」

「……はははははは。照れるぜ…。」

「お嬢様のことを、………もっと好きになりました。あなたは、太陽のような人なのに、僕が目を背けていたから、こんなにもずっと近くにいたのに、それに気付けなかった…。」

「えへへへへ。じゃあもっと好きになってもらえるように頑張っちゃうぜ…。いやあは、てひゃひゃひゃ…。」
 勝負同様、全て大真面目な嘉音の言葉は、朱志香を照れさせるには充分だった。

 しかし不意に、嘉音の表情が曇る……。
「………僕がお嬢様を好きになれる理由は、こんなにもはっきりしています。……だから、わからなくて辛いです。」
「な、何が……?」
「……お嬢様が、僕を好きになる理由です。………お嬢様と違い、僕は何も照らしてない。……今だって、お嬢様に照らされながら、その背中に付いて行ってるだけです。……そんなみすぼらしい僕を、お嬢様が好きになる理由が、……何一つ、思い付かないんです。」
「そ、……そんなことはないぜ?! 嘉音くんにだって、いいところはいっぱいある…。」

「……恥を忍んでお聞きします。……お嬢様は、…僕の何が気に入られたのですか。」;<嘉音

 嘉音は俯く。

 ……何も学んでこなかった自分に、彼女をリードできるようなことなんて、何一つない。

 なのに、一方的に好意を受け、……自分に出来ることが、それに応えるだけだなんて、……悲しくて、……そして自分が悔しかった。

 朱志香は、掛ける言葉を失う。

 ……嘉音が朱志香を好きになった理由に比べたら、………朱志香が嘉音を好きになった理由は、……漠然としたものだったからだ。
 紗音から譲治との恋の話を聞かされ、……そして学校でも、男女の交際について友人たちと話に華を咲かせていた。

 そんな、恋愛に憧れる年頃の彼女のすぐ近くにいる異性に関心が芽生えたとしても、それは何も不思議なことではない。
 ……しかし、それを正直に口にすれば、身近にいる男だったら誰もよかったのかと誤解されてしまう……。
 でも、……今この瞬間の、自分の気持ちだけは、胸を張れる。
 嘉音のことが本当に好きで、……本気で恋愛をしたいと思っている。

 その結果、結ばれるかもしれないし、結ばれないかもしれない。
 でも、本気での結果なら、そのどちらであっても、受け入れられる。
 だから彼女は、今の自分の感情に素直に、そして本気になれるのだ。

 でも、それを嘉音にどう伝えればいいか、……うまい言葉が見つけられなかった。
 そのもどかしさに下唇を噛む朱志香を見て、…………嘉音はようやく悟る…。

「……馬鹿だな、僕は。」
「え?」

「僕のどこが気に入ったんですかなんて質問。……本当に馬鹿らしいと思ったんです。自分に本気じゃないから、自分のことさえ、理解できてない証拠なんだ。……そんなことをお嬢様に言わせようとするなんて、僕は最低だ。」

「そ、そんなことないよ…! お、女の子だって男子に告白されたら、最初に聞いてみたい質問だもん…! じ、自分のどこを気に入ってくれたの、って…。」

「それを相手に尋ねる時点で、僕は未熟なんです。そんな未熟者に、……気に入ってもらえるようなものが、あるわけがない。」

「い、いやそうじゃなくてその、」

 朱志香は焦りながら、何とか自分の気持ちを伝えようとあたふたする。

 しかし、嘉音は落ち着いていた。そして、言った。

「だから。………僕がお嬢様を好きになるように、……お嬢様にも僕を好きになってほしい。……その為に、僕は自分を変えていくことにします。今はまだこんな自分を、お嬢様に好きになってもらえるとは、到底思えません。……でもいつか、…………必ず。」

「……あぁ。絶対、素敵な嘉音くんになれるよ。私がベタベタに惚れちゃうくらいの、素敵な男の子になれる。私はそれまで、ずっと一緒にいるから。……時間なんて、いくらでもある…!」
「…………………………。……ただ時間が、そうないのが、悔やまれます。」
「……時間て?」
「家具の話をすると、……お嬢様が悲しまれます。……でも、話さなければなりません。そしてそれは、僕が本気で戦わなければならないことでも、あるのです。」
「何の話……? 家具だから恋ができないとか、そういう話ならもう、聞きたくないよ。嘉音くんは家具なんかじゃない、ニンゲンだよ…!」

「はい。だから、ニンゲンになろうと思います。ですが、まだ家具なんです。」

「なら、なろうよ、ニンゲンに…!」

「かつて魔女は、教えてくれました。……この世の一なる元素。それは愛だと。……それは、この世に住まうニンゲンは、当たり前のように享受できるものです。……しかし、家具として生み出された、この世ならざる身には、当たり前ではないのです。………その当たり前でないものを得るには、魔法か、奇跡が必要なんです。」


 ……姉さんと譲治さまとて、……あの黄金蝶のブローチの魔法を借りなければ、今日を迎えられなかったように。

「さっきから、これがわからないの。」

「……何がわからぬというか。……聞かせよ。」

「今回のゲームが始まり、……短くない時間が、紗音や嘉音の恋への決意に割かれてきたわ。……それ自体は、自らを家具と蔑んできた少年少女の、青春の決意と成長の物語と、好意的に見てもいい。でも、二人のある前提に、さっきから強い違和感を覚えるの。」

「……………なぜ、魔法が必要なのか。……であるか…?」

「紗音も嘉音も、……いえ、あえて“家具”と呼ぶわ。……家具たちは最初から一貫して、ニンゲンとは恋愛が出来ないと主張してきた。そこに、黄金蝶のブローチという魔法が介在し、その魔法という奇跡の結果、譲治お兄ちゃんとの恋愛が成立した。そう主張してるわ。」

「身分の違いによる、許されぬ恋が実るには、……魔法の奇跡でもないことには有り得ぬと、そう考えたとしても無理はあるまい……?」

「そうね。だから、使用人の身分である紗音と嘉音が、ともに右代宮家の人間に恋をし、許されざる恋に苦悩して、自らを家具と卑下したとしても、それは納得できるの。」

「……では、そなたの納得できない点とは…?」

「“再び魔法の力がなければ、結婚は出来ない”。……それが紗音と嘉音の、二人の共通認識になってる。……これがどうしても、よく理解できないの。」

 譲治と紗音は、短くない逢瀬を重ね、とうとう婚約にまで至った。

 二人には充分な心の準備があり、親族的な意味で多少の波乱はありつつも、もう二人の結婚を阻むことは誰にも出来ないだろう。

「………結ばれようとする二人の間に立つなぞ、飛ぶ矢の前に立ちて、それを掴もうとするにも等しい愚行よ。」

「そういうこと。伴侶を生涯、守りきると誓った譲治お兄ちゃんにとって、両親の反対や勘当さえ、恐れるものではない。……むしろ、それらさえも、彼女への愛を示すちょうどいい試練だとさえ思っているわ。………つまり、二人は必ず結婚する。誰も拒めない。そして二人は婚約を快諾した。」

「誰にも拒めない、阻めない。馬に蹴られて何とやらであるな…。」
「そう。だから不思議なの。魔法なんて、必要ない。」
 もしも。……譲治と紗音に、自分たちの婚約を絵羽に認めてもらいたいという気持ちがあったなら。
 ………確かに魔法が必要だろう。

 絵羽は、紗音との交際を否定しているのだから。
 譲治がいくら、紗音のことを語ろうとも、絵羽を説得できる確率はゼロに等しい。

 それならば再び、魔法の奇跡で、絵羽にも婚約を認めて欲しいという気持ちが生まれても、理解は出来る。

「しかし、譲治お兄ちゃんはきっぱりと誓ってるわ。両親に婚約を認められなくても構わないと。……そう。二人の婚約を阻む理由は、何も存在しないの。そしてそれは紗音だってよく知ってるはず。なのになぜ、彼女はこの順風満帆の婚約を受けたこの夜に、なおも魔法の奇跡を祈るの?」

「……魔法の奇跡を得なければ、結ばれる資格もないというのが、家具たちの主張であるな…。」

「つまりこういうこと。紗音は譲治の婚約を受けているけど。……魔法の奇跡がなければ成就されない障害が残っていると知っていることになる。そしてその障害は、二人の努力では取り除けないとも。だから、魔法という奇跡が必要。」

「どうして魔法がいるの? 愛し合う二人に、結ばれるための他にどんな奇跡が必要だっていうの?!」

「…………ふむ、なるほど…。」

 フェザリーヌは縁寿の解釈を聞きながら、満足げに微笑む。

 ……すでに彼女も同じ思考に至っており、ようやく縁寿がそれに至ったことを、面白がっているように見えた。
「そしてその疑問は、嘉音にも向けられるわ。……朱志香お姉ちゃんとの恋路は始まったばかりだけど、二人の気持ちはまっすぐ。何の障害もないわ。黄金蝶のブローチの力なんか関係なく、もう恋仲になれてる。……何年もの交際を経て、やがては結婚に行き着いても、何もおかしくない。こっちも障害は何も存在しないのよ。」
「……蔵臼と夏妃に結婚を認めさせようと思わない限り、こちらもまた、魔法の奇跡は必要なさそうであるな…。」

「そういうこと。……紗音の生き方を見て、嘉音もまた生き方を変えた。そして素直な気持ちを伝え、朱志香お姉ちゃんと二人で恋路を歩み始めた。……必要ないのよ、もはや魔法は。」

「……片思いの相手になら、恋のおまじないも必要かもしれない。でも、もはや両者は相思相愛。意思も疎通できてる。………なのにどうしてその上、魔法の奇跡が必要なの?」
 家具たちはどちらも、相思相愛。
 もはや、何の奇跡も必要ないはず。

 なのにどうして二人は、……この上なおも、魔法の奇跡を欲する?
 しかも、どうやら、一個のブローチは、一度の奇跡しか与えないかのような描写が見て取れる。

 だから紗音は、そのたった一つの奇跡を自分が消費してしまうことで、嘉音の恋路が自動的に永遠に閉ざされてしまうことに、躊躇していたかのように思えるのだ…。
「つまりこういうことよ。“どうして家具は、恋をしてはいけないの?”」

「……魔法という奇跡なくしては、なぜ恋が許されぬことになっているのか、か。」

「そして。……頑なに恋が出来ないと嘆いていた家具たちに、それを許すことの出来る、黄金蝶のブローチって。一体、何だって言うの?」
「もちろん、魔法の結晶であるぞ。ただし、多くの魔法と同様に、反魔法の毒素で焼かれもする。」

「……つまり、魔女や魔法を信じる者にしか、効果がないということなんですね。」

「その通りだ。よって、妾と交流することが出来た紗音には、その効果を発揮した。しかしもし、紗音がそのブローチを砂浜に落とし、何も知らぬ者が拾ったとしたら。」

「……その者が反魔法の毒を纏っていたら、ブローチの魔法は力を発揮できない…。」

「そういうことだ。魔女のアイテムは、直接の手渡しでなければ力を失うことが多いということだ。しかし、魔女の存在を大勢のニンゲンが認めることで反魔法の毒素がなくなり、顕現することが出来るのと同じに、大勢のニンゲンが、そのアイテムの魔力を信じれば、逆に魔力を維持することもある。」

「皮肉な話ですね。……私たち魔女がどんな魔法を授けても、それを受け取れるかどうかは全て、ニンゲン次第なんですね。」

「薬もそうだと聞いているぞ。同じ薬を飲んでも、その効果を知らされているニンゲンには、より大きい効果が出るという。」

「……あ、ちょっとわかります。風邪薬とか飲んだ時、薬効の解説書とか読んでると、薬の効きがいいような気がしますよね。」
 ベアトはその話を聞きながら、魔法ってちょっぴり、おまじないに似てるなと思っていた。

 ニンゲンが考える魔法というのは、大勢のニンゲンの前で、まるで手品のように、すごい奇跡をポンポンと見せてくれるものだ。

 しかし、姉が語る本当の魔法とは、信じようとしない者には何の効果もない、まるでおまじないのようなものだった。
 ……年々、見違えるように成長していく譲治に、紗音は心を奪われ始めていた。
 しかし、身分の違う自分とは恋仲になれるわけがないと、諦めていた。

 そんな彼女に、黄金蝶のブローチを与え、励ました。
 諦めるということは、確率ゼロということ。

 しかし、魔法の力で、ひょっとしたら叶うかもしれないと思えば、確率は、少なくともゼロよりは高くなる。
 ゼロは永遠にゼロだが、ほんのわずかでも確率が存在するなら、……ゼロの時と比べれば、あり得ない奇跡が起こったと言っても過言ではないだろう。
 ニンゲンが、自ら確率をゼロに閉ざす“諦め”を、魔法によってそこだけを取り除く。

 諦めないニンゲンには、どんなにわずかであっても、達する可能性がある。
 そしてそれは、確信すればするほど、高くなる。

 紗音が黄金蝶のブローチに強く願い、その効果を確信し、……譲治に気に入られるために、小さな努力を積み重ねただろうことは、想像に難くない。
「信じる力が、魔法になる……。」

「そして、それを信じさせる者が、魔女だ。」

 信じさせる者が、……魔女。
 ……面白い言い方だった。
 考えてみると、確かにそうだ。
 ある魔女が、スポットライトを浴びながら、大勢の観衆の前でステッキを振るい、ポンとウサギを現したとする。

 それを見た大勢の人は、それを手品だと思うに違いない。
 どうやったのだろうと不思議がりながらも、魔法のわけがないと確信し、そう思わせるかのような見事なトリックに、喝采を送るのだ。
 しかしもし。

 荘厳な太古の神殿で、大勢の信者たちの前で神聖な儀式を執り行い、その末にまったく同じことをして見せたなら。

 ……それを手品だと思う人間はいないのではないだろうか。
 そもそも、手品というエンターテイメントが存在せず、神霊が神聖な存在だと崇められていた太古においては、それは紛れもない魔法の奇跡だったはず…。
「な、なら。……これは魔法に、……なるでしょうか?」

「ほう。魔法の使えぬ魔女のそなたが、初めて振るう魔法とはどんなものか。」

「こ、……ここに、空の紅茶のカップがあります。中身は空です。」

「うむ、空っぽであるぞ。くすくす、それから?」

「これを、……こうして、……テーブルの上に伏せておきます。」

「ふっふふふふふ。それからそれから?」

「えっと、……い、一緒に目を閉じて、魔法の呪文を唱えます。」
 それは、………かつて真里亞にキャンディーを与えたのと、同じ魔法。

 姉のベアトは、にやりと笑いながら目を閉じる。
 それを見届けてから、……ベアトはゆっくりと呪文を唱える。
「さ、さぁさ思い出して御覧なさい。……カップの中に、何が入っていたのか。」
「うむ。さぁさ、思い出して御覧なさい。カップの中に、何が入っていたのか。」
 ベアトは呪文を唱えながら、ゆっくりと目を開き、姉がしっかり目を閉じて復唱してくれているのを見届ける。
 すると、どこからともなく、黄金の蝶が1匹、ふわりと現れて、……伏せたカップの上にふわりと舞い降り、黄金の飛沫となって散って消えた。

「もう良いか、目を開けても?」

「………は、はい。目を開けて、カップの中身を検めて下さい。」

「さてさて。……そなたが初めて使う魔法は、如何程のものか。」

 もったいぶるように焦らしながら、姉はゆっくりと、……カップを持ち上げる。

「………おや。」

「い、如何でしょうか……。」

 カップを持ち上げると。………そこには、……黄金のバラの花びらが1枚、置かれていた。

「こ、…これは、魔法になるでしょうか……?」

「くっくくくくく……。うむっ、なるとも。そなたが魔法にて、伏せたカップの中に黄金の花びらを生み出した。見事な魔法であったぞ。

「“愛がなければ視えない”。それは理解できてるの。」

「これを手品だと断じるも良し。魔法だと信じるも良し。……その者の毒素次第であろうな…。」

「でもこれは、……かつての魔法の一部を説明は出来るけど、全てを説明することは出来ないわ。」

「話を戻すけれど、この程度の、魔法やおまじないを信じるという程度の話では、“頑なに恋が出来ないと嘆いていた家具たちに、それを許すことの出来る、黄金蝶のブローチとは一体何か?”という問いに、答えられない。」

「……そこにいる2人のベアトの話を鵜呑みにするなら、……魔法には、彼らの“諦め”を取り除く力があると考えるのが妥当であろう?」

「“どうして家具は恋をしてはいけないの?”。“どうして魔法のブローチの力が必要なの?”。……確かに、あんたやベアトたちの話は一見、それにおぼろげとはいえ、答えを与えてるような気がする。でも、朗読者だから言わせて。……それでは納得が行かないの。」

「納得とは…。」

「……家具たちは、もっともっと悲壮な宿命に抗おうとしているわ。恋愛成就のお守りを託されたくらいで、自己改革が出来る程度のものだったとは思えないの。」

「現に紗音はかつて、譲治お兄ちゃんとの出会いのきっかけを作ったのはブローチのお陰だけど、それ以降は魔法の力を借りずに関係を深めたいと言って、ベアトにブローチを返そうとさえしたわ。彼女はその時点で、一度は魔法の奇跡と決別したはず。……なのになぜ再び、その力を必要としているの?」

「さぁて。……恋と結婚は別物としか、言い様がないであろうな。」

 フェザリーヌは薄く笑う。

 ……多分、彼女なりの仮説はすでに立ててあって、まだそれに至らぬ縁寿を嘲笑っているのだろう。

「聞かせてよ。あんたの見解。」

「もう少し寝かせたい。……それに、疑問を持ち、思考を巡らすそなたを見ることもまた、朗読の楽しみだ。私の見解を話せば、そなたはそれに納得し、思考を止める。それでは朗読が面白くない。」

「………すでに答えを知ってる推理小説を読ませて、右往左往するところを見て楽しんでるってわけね。」

「それが観劇の魔女というものだ。……悪趣味と笑いたくば笑うが良い、我が巫女よ。」
「“わっはっはっは”。」

「ぷっ、……くすくすくす、はっははははははははは…。」
 魔法の一部が、信じる心で生み出されてることはわかっているの。
 そしてその魔法は多分、私たちニンゲンの世界にも深く浸透しているわ。

 でも、そんな浸透し切った魔法に宿る力は、小さい。
 大事な受験の前に、合格祈願のお参りに行くのは、誰だってやる願掛け。

 でも、だからと言って、そのお陰で合格できたとまで言う者はいないはず。

 願掛けなど本来は、気休めか、せいぜいそれ以上程度の力しか宿らないのだ。
 ほんの小さな勇気やきっかけが、大きな変化をもたらすこともある恋愛になら、その力が激変を見せることもあるかもしれない…。

 しかし、………家具たちが自称する悲壮な運命は、その程度のことで変わる程度のものなのだろうか……?
 かつて、紗音と譲治を結びつけたブローチの魔力は多分、おまじない程度だったと思う。
 しかし今。家具たちが、それぞれの恋愛の成就を願ってブローチに求めている魔力は。

 ……おまじないのような、曖昧なものではなく。

 もっともっと強力な、

そして、別の解釈の魔法・・・・・・・のように思えるのだ。
 手品も信じれば魔法になる。

 ……しかしそんなのは子供騙しだ。
 そしてそれは、魔法の一部を説明するに過ぎない。
 彼らは、望んでいる。

 もっともっと大きな力を持った、……手品などではない、本当の魔法を。

「……家具たちは、黄金蝶のブローチに、………どんな魔法を期待しているというの……。」

「………黄金蝶の、ブローチ…?」

「黄金の魔女ベアトリーチェが。………霊鏡を割るのと引き換えに、紗音に与えた、恋を成就させる、魔法のお守り。……これが、それです。」

 嘉音はポケットから、……黄金の蝶の片羽を取り出す。

 たとえ片羽であっても、その特徴的な形から、蝶をモチーフにしたものだとすぐに理解できた。

「このブローチの魔法は、紗音に譲治さまと恋仲になる機会を与えました。……しかし、それを最後まで成就する前に、僕に譲りました。……だから僕はこのブローチの力で、………お嬢様の好意を得ました。」

「そんなわけないよ…。私が嘉音くんを好きになったのは、自分の素直な気持ちだぜ…。」

「……ありがとうございます。…お嬢様はニンゲンだから、魔女も魔法も信じない。無理もないことです。……しかし、魔法で生み出された家具の、僕がここに存在すること自体が、……魔法の奇跡の存在する証拠なのです。」

「ご、ごめん。何の話…?」

 朱志香は、何とか嘉音が言おうとしている意味を汲み取ろうとする。
 しかし、それが理解できず、苦笑いしながら聞き直さざるを得ない…。
「………………………。……僕も紗音も。……恋を成就させるには、魔法が必要なのです。そのための鍵が、この、ブローチ。……僕が踏んで割ったので、僕たちは1つずつ持ち合っています。」
 2つに分かれたブローチは、その魔力を失っている。
 しかし、再び一組の姿に戻せば、……魔力が蘇る。

 家具とニンゲンが結ばれる奇跡の力を、再び蘇らせる…。
「しかし、1つのブローチは1人の願いしか叶えない。……家具の僕たちは、この1つのブローチによって、どちらかしか、結ばれ得ないのです。」
 これが、在りし日の、甲高く笑うベアトリーチェが蒔いて残した、恋の火種の、最後の一粒。

 かつてのベアトリーチェは、恋の火種に悶え苦しむ人間模様を、熟れた果実と呼んで悪趣味に楽しんだ。
 しかし、その種に込められている魔法は、…本物。
 黄金の魔女ベアトリーチェが、この世に与えて残した、唯一の魔法の結晶……。

 その輝きが、……増す。
「え、……な、……何…?!」

「大丈夫です。……でも、直接は見ないで。目をやられます。」

「う、………ぅうう………!」

 輝きはなおも一層強さを増し、まるで太陽のように眩く。
 嘉音に言われずとも、朱志香は自分の目を両手で覆わざるを得なかった……。
 光が強くなるに連れて、……風か潮のような唸るような音も強くなる。
 もう、外の風雨の音さえ飲み込まれてしまって…。

 朱志香は立っていることさえ出来なくなり、しゃがみ込んでしまう……。

 光と音の洪水…。それが引くまで、朱志香は呻くことしか出来なかった……。
「さささ、今は大丈夫ですよ、急ぎましょう。」

「お、お父様が甘い物をお好きだといいのですが……。」

「えぇ、お好きですもの。甘い物に限らず、何でもよくお召し上がりになりますよ。ほっほっほっほ。」
 書斎の主の不在の隙をついて、ベアトと熊沢が書斎に入る。

 そして、書斎机の上の書物を簡単に片付け、そこに持ってきたバスケットを置き、その中身を広げた。
 それは、……可愛らしい蝶の型に抜かれたクッキーだった。
 可愛らしいお皿を置き、そこに飾るように丁寧に盛り付けた。

 食べる側からしたら、気にも留めないようなささやかな気配り。そういうものに満ち溢れていた。

「愛しのお父様とやらのために、精が出るな。」
「今の私に許されていることは、……こんなことくらいですので。」

「妾が、戦人にクッキーをか…。なぜに、夜の支配者である妾が、稀な客人である戦人にそこまで尽くすのか、わからぬ。」
 その時、書斎の扉が激しく開いた。


 それは、源次を伴った、戦人だった…。

 戦人はベアトがいることに、一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに淡白な表情に戻った。

「……ここで何をしている。」

「お父様、……失礼しました。決して、大切なゲームの邪魔に来たわけでは……。」
「どうしてここに入れた…? ここには鍵が掛かっていたはず。」
「……申し訳ございません。お館様に内密で差し入れをお届けしたいとのことで、私が鍵をお貸ししました。」

「ほら、見て上げて下さいませ…! お館様に喜んでもらおうと、ベアトリーチェさまが一生懸命、クッキーを焼いたんですよ。」

「熊沢さんと源次さんに習いました…。源次さんがクッキーを焼くのがお上手だったなんて、とても驚きました。」

「ほっほっほ。最近は全然ですけど、昔の源次さんは、それはもう、色々なお料理を作ってくれたんですよ。特にお菓子作りはお上手で…!」
「クッキー…?」

「は、はい。お父様への差し入れです。大切なゲームの必勝を、心よりお祈りいたしております…。」

 戦人は、書斎机の上に置かれた、美しい盛り付けのクッキーの皿と、応援のメッセージカードを見て、………悲しみとも、嫌悪ともつかない、複雑な表情に眉間を歪める…。
「…………お館様…。」

 源次のその促しは、ベアトに対し、何らかの労いの言葉を掛けてはどうか…、というものだ。
 戦人もそれはわかっている。
 ……このような好意を受けて、悪い気がするわけもない。

 それが理屈でわかっていても、………彼は口から、小さく溜め息を漏らすことしか出来なかった。
「……ありがとう、感謝する。……だが甘い物は苦手だ。下げてくれ。」

「お、……お館様っ…。」

「…………………。」
「同じことをもう一度言わせるな。……片付けて下がってくれ。」

「お、お館様…、せめて一口、お口に運ばれるわけには参りませんか…? ベアトリーチェさまが、お館様のためを思い、こしらえたものでございます…。」

「……気持ちはありがたく受け取っておく。……今は大切なゲームの最中だ。俺にとっても、…ベアトにとっても大切な、………最後のゲームなんだ。だから頼む。俺の心を掻き乱すような真似は、慎んでくれ。」

「それはあまりにも酷ぅございます…! 気持ちは感謝する、大いに結構でございます。しかしそれをせめてッ、一口、お召しになる形ではお示しできませんか…!」
「…………………お父様…。」
 ベアトは悲しげに戦人を見る。

 ……その眼差しを避けるように、戦人は俯く。
 その表情は、彼が彼女に見せたことのあるものの中で、もっとも苦々しかった…。

「………………。……熊沢、それを片付け、下がるように。」

「お館様…!!」
「………………………。」

 すがるような熊沢に、戦人は背中を向ける…。
「……失礼…、しました…。……片付けましょう、熊沢さん…。」

「そういうわけには参りませんっ。大切なゲームに、少しでも力添えしたいベアトリーチェさまが、せめてこのような形でもお力になりたいと、頑張られた差し入れでございますッ。それを、一口さえせずに下げろとは、女を馬鹿にするにも程がございますッ!!」
「………熊沢。」

「お館様も男ならば! 女の手作りの差し入れにせめてどうか一口で結構でございますので、お手をつけて下さいまし!! 女の気持ちを踏み躙ろうというおつもりでしたら、この熊沢、殺されたってここは退きませんよ、えぇ退きません!!」

「く、……熊沢さん、……もう、結構ですから……。」

「そういうわけには参りません!! お館様ッ、これに毒でも入っているとお思いですかッ?!」
「………………………。」

 ……あぁ。
 ベアトがクッキーなんて差し入れて来たら……。

 ……そりゃ、おかしな、笑える毒が混じってて当然だって、思うだろうが……。
 毒でも入ってると思うか、だって……?
 そんな、……丁寧で可愛らしく盛り付けられたクッキーに、……おかしなものが入ってるなんて、誰が思うかよ…。

 そして、………ベアトが、………そんなものを作るなんて、………誰が思うかよ、ってんだ………。
 だからこそ、……おかしな毒を混ぜてやろうなどという邪気のない、無垢なベアトの仕草が、まっすぐに見ることが出来ないのだ……。
 ベアトは、黙って片付けを始める。……時折、鼻を啜りながら。

 熊沢は戦人をじっと睨み続けていたが、小さく溜め息を吐いてから、ベアトの片付けを手伝った。

 しかし、その表情から厳しさがなくなることはなかった。

「………失礼しました、お父様。…それでは失礼いたします。」

「呼ぶな……。」
「………………。」

「俺を、お父様と呼ぶな。……ベアトは、俺をそんな呼び方をしたことは、一度もない。」

「は、……はい…。……失礼いたしました…。」

 ベアトは、顎が胸に付くくらいにうな垂れながら、そそくさと書斎を後にする。
 一瞥をくれてから、熊沢もそれを追った。

 熊沢が、やや乱暴に扉を閉めると、二人の足音は急速に遠退いていった…。
「…………………。……実の妹が言うのも何だけど、複雑な気持ちだわ。」

「相手がベアトでさえなければ、素直に女の敵と言えるのに、か…?」

「……私は、お兄ちゃんとベアトが、どうして馴れ合ってるのか、さっぱりわからない。今をもって、ベアトは倒すべき私たちの最大の敵だと思ってる。……でも、だからといって。あのお兄ちゃんの対応は、……女として愉快じゃないわ。」

「戦人の気持ちも、少しはわかるがな。……悲しいことだ。」
 どういう確執、あるいは縁があったかは、未だによくわからない。

 しかし、お兄ちゃんにとってのベアトは多分、……好敵手か、それ以上の関係があったのだ。
 お兄ちゃんにとってベアトを倒すというのは、敵として憎しみと共に討ち破るのではなく、……彼女の問いに対し、誠実な答えを示すような、……そんな気持ちさえ感じられる。
 そう。お兄ちゃんたちの戦いは、憎しみではなく、それを超えた感情に基づいていることを、私は否定できない。
「………さらに言えば。……あそこまで冷たくされて、それでもなお、お兄ちゃんに尽くそうとするベアトも、……大したもんだわ。もう一人の、姉のベアトと私も同意見よ。……どうしてお兄ちゃんにあそこまで尽くすのか、理解できないわ。」

「そしてその理解できぬ要素は、千年を経て変化を遂げるとはいえ、……紛れもなく、我々の知る黄金の魔女、ベアトリーチェに受け継がれるものである…。」

「……えぇ。理解しているわ。……このベアトを知ることもまた、やがてのベアトを知ることに繋がる。……そしてそれは、この狂ったゲームで最大の大駒と、あるいはこのゲーム盤そのものを説明するかもしれない…。」

「謎多き魔女であるな……。」

 フェザリーヌは、そうは言いながらも余裕の表情で微笑む。
 すでに答えを知っているとでも言うような、嫌味ある余裕は相変わらずだ。

「………ベアトリーチェ。話を聞きたいわ。」
「は、……はい、何でしょうか、縁寿さん…。」

 縁寿が問い掛けると、書庫の物陰で、書物のカケラを読んでいたベアトが、びくっとして反応する。

「……あなたは、何で右代宮戦人を、お父様と呼ぶの?」

「わ、私という駒を、生み出して下さったからです…。」

「……では、どうして右代宮戦人にそこまで尽くすの? 駒は、生み出した造物主に絶対服従しなくてはならないルールでもあるの?」
「そんなルールはない。……駒は道具、…あるいはナイフだ。……ゲームマスターが上手に扱えば便利な道具になる。しかし、扱いを間違えれば自らを傷つけもする。……道具になろうと凶器になろうと、そこに道具の意志はない。ただ結果があるだけだ。」

「じゃあ、どうしてあんたはお兄ちゃんにああも尽くすの? まるでそれは、……あなたという駒の目的かのようだわ。」

「は、………はい。…それが、私が生み出された目的だからです。」

「あんたを生み出したお兄ちゃん自身が、その目的を与えたの?」
「それは違う。……戦人はゲームマスターとして、“そういう役目を持った駒”を、盤上に置いたに過ぎない。……そして、彼女という駒を生み出したのは、このゲームを生み出した最初のゲームマスターである、ベアトリーチェ自身だ…。」

「……あぁ、ややこしい話だわ。……つまり、あんたはお兄ちゃんのことを、お父様お父様呼んでるけど、別に父親ってわけじゃないのね。……あんたは、お兄ちゃんに尽くさなければならないという目的のために、親しみを込めて、お父様と呼んでるだけだわ。」
「は、……はい。……そうだと思います。私という駒を盤上に置いて下さったのがお父様です。お父様が盤上に置かなければ、私という駒の出番はありません。ですから、私がここにこうして存在し、そして私の目的のために尽くせるのは、全てお父様のお陰なのです。」
「……なるほど。そしてそれは、お父様と呼ぶのに相応しいってわけね。……じゃあ誰があんたに、お兄ちゃんに尽くすように命じたの? ……あぁ、それは初代ゲームマスターのベアト自身よね。……あぁぁ、ややこしいっ。」

「なぜにそなたは、右代宮戦人に尽くさねばならぬのか、……と尋ねたいのであろう? しかし、それを彼女に答えることは出来ぬ。彼女に与えられたのは目的だけだ。……その目的を与えた動機は、与えた本人にしかわからぬのだから。」

「……なるほど。それも考えて見るがいい、人の子よ、ってわけね。……んで、ついでに、あんたにはもう、その察しがついていて、にやにやしながら私が悩んでいるのを見ているってわけだわ。」

「くっくっくっく。そなたは我が巫女としてつくづく優秀だ…。」
「………私は、……お父様に尽くします。…私の存在が、お父様の幸福のお役に立てる。……それが、私の一番の喜びです。……そして、…………。」
 そこでベアトが言い澱む。
「何? そして、何よ。」

「は、はい…。……そして、………それをいつかお父様にお認め頂ければ、……それが私の一番の幸せなのです…。」

「ふっ………。」
「………何よ、それ。……尽くしたいってだけなら、まさに魔女の家具ねと言いたいところだけど。……それを認めてもらいたい? それじゃ家具ってより、」

 そこで縁寿は言葉を切る。

 ……それじゃ家具ってより、……お兄ちゃんが大好きなだけの、………ただの女の子じゃない。
 ………………意味が、わからない。

 このベアトの行動原理は、お兄ちゃんを慕う女の子そのもの。
 でも、ならば彼女は何?
 お兄ちゃんが好きなら、慕うのも尽くすのも、自分自身でするべきだわ。

 それをどうして、……“彼女という駒”を生み出し、自分以外の存在にやらせるの……?
 それじゃ、……もしもお兄ちゃんが振り向いてくれたとしても、それは駒の彼女に対してであって、……彼女と言う駒を生み出した、創造主に対してではなくなってしまうじゃない。
 私だって、誰かを好きになったら、きっと尽くしたくなると思う。
 でも、それは当然、私自身がやりたいこと。

 だって、“私”に振り向いてほしいんだから。
 尽くせども、決して報われぬ、……まるで無償の恋。

 しかも、それを自らの意思で行なっている…。
 ベアトの様子は、恋する少女の、平均的なそれにしか見えない。
 自分の好意を、いつか認めてもらいたいと夢見て、献身的に尽くしている。

 ……どうしてこんな駒を、ベアトは生み出したの…?
 恋愛の話じゃわかりにくい?

 じゃあ、食事で例えるわ。
 例えるなら、“自分の変わりに食事をしてくれる駒”くらい、無意味な存在。

 駒にいくら食事を代わってもらったって、あなた自身はお腹が空いたままでしょう?
 食べたいのは、あなた。
 駒に代わらせる理由など存在しない。

 世の中の多くの仕事は、人に代わることが出来る。
 でも、恋と食事だけは、他人に代わらせる意味など、絶対にない。
 そう。……このベアトは、“駒”としてありえない理由で、生み出されている……。

 ……一見、普通の女の子にしか見えない彼女は、………知れば知るほど理解できない、……まるで虚数のような存在なのだ……。
「……お父様は、そう呼ばれるのを嫌われていました。……そしてお父様の望まれる私も、そうは呼んでいませんでした。」

「そうね。かつてのあんたは、誰が相手でも呼び捨てにしてたわ。」

「………………。だからと言って、……お父様を呼び捨てには出来ません。……せめて、戦人さん、……と呼ぶように、努力はしたいと思います。」

「あんなに冷たくされて、よくめげないものね。」

「……お父、……いえ、……戦人さんは、今、大切なゲームに臨まれています。相手は、大ベルンカステル卿の駒、強敵、ヱリカ卿です。……いよいよゲームが佳境に差し掛かろうというデリケートなところに、私がしゃしゃり出て、……戦人さんが望まない、お父様という言葉を掛けてしまったのですから、……機嫌を崩されても、無理ないことです…。」

「…………………。」

 あのような冷たい仕打ちをされてもなお、ベアトは戦人に尽くしたいという気持ちを持ち続けているようだった。

 傍目には冷遇されているようにしか見えないのに、……本人は意にも介さない。

 まさに恋する乙女の盲目さ……。

「……それとも、私に愛がないから視えない?」
「愛があれば、見えぬものが視えることもあろうな。」
 ベアトは、かつての彼女を記したカケラの本に、再び没頭している。

 ……戦人の望む自分の、何かを見つけるために。
 私には理解できないわと、肩を竦める縁寿。
 そしてそれを見て、生娘にはわからぬと笑うフェザリーヌ。
 不機嫌に言い返す縁寿。

 彼女らのそのやり取りは、書庫の陰のベアトには、まったく届かないようだった……。
 全員を追い出し、……書斎には戦人だけが残っていた。
 薄暗い書斎には、彩りなど何もない。

 しかし、……さっき、ここにクッキーの皿が置かれていた時だけは、わずかであっても、室内が華やいで見えたのだ…。
 すでに何も置かれていない机の上を、……戦人はぼんやりと見る。

 するとそこには、先ほどのあのクッキーの皿が蘇った。
 しかし、……それは幻だ。
 見ることは出来ても、食べることはおろか、触れることも出来ない…。

 戦人が望むなら、“触れること”も“食べる”ことも、出来はするが、……虚しいだけだ。
 それは戦人の望む手触りと味しか与えない。

 ……本当はどんなクッキーだったのか、……もはや彼には、知ることも出来ないのだから。
「………………………。」

 戦人の向かいの、応接ソファーに、……ゆっくりと黄金の蝶の群が集い、…在りし日のベアトの姿を形作る。
「“ほォら、食べろよ〜☆ 妾が珍しく手作りしたのだぞ…! 安心せよ、自信作であるぞ”。」

「“ぷっくっくっく! お嬢様の場合、むしろ自信作の方が不安になろうと言うものですな”。」
「……まったくだぜ。……お前が作るクッキーなんて、どうせおかしな毒が入ってるに決まってらぁ。」

「“それは心外な。仮に入っていたとしても、そなたのあれがそうなって、こーなっちゃうかもしれない程度のモンではないかァ。うっひっひゃっひゃ!”。」

「“そういうことばかり普段からしているから、戦人くんに食べてもらえないのですっ”。」
「“えー、手料理に何か入れるなんて基本でしょう? 爪に髪の毛、魔法のおまじないに愛のカケラ…、うっふふふふふ! あんたたちだったら何を入れるの?”」

「“ハーイ!! 何も入れませーん、おいしく自分でいただいちゃいまーす!”」

「“だと思ったわ、あんたは出オチなのよ、まったく!!”」
「“でもォ、女は3つの袋を掴めって言うしィ☆ 胃袋は最初の第一歩よね? 次がお財布の袋でェ、3つ目は何かしらァ、きゃっきゃ☆”」

「“男を振り向かせるなら、身も心も魂さえも、全てを私のために捧げさせたい! だからこそ、私は手料理に全ての力と愛情を注ぎ込めるの”。」

「“ふふ、いずれにせよ、手料理を食べさせるのは、古今不変の正攻法と言えるだろうな”。」
「“馬鹿馬鹿しい。そんな小細工をしないと男心一つ掴めないなんて、情けないったらありゃしないわ”。」

「“へ〜? お姉様が男心をどの程度お掴みになった経験がおありか、聞いてみたいものですけどぉ?”」

「“戦人ァ、何にもおかしなモンは入ってないから食ってくれよォ〜。妾がそなたのためにクッキーを手作りするなんて、二度とねぇからさァ☆”」


 ………二度と、ないだろうな。

 ゆっくりと、手を伸ばし、……クッキーの皿の幻に、……触れる。
 触れる直前で、それは黄金の蝶に変わり、……書斎の闇にふわりと消えた。

 ロノウェの幻も、ワルギリアの幻も消えている。
 …しかし、ベアトの幻だけは、まだソファーに残っていた。
「……何が不満か?」
「…………それを、俺に言わせるつもりか。」

「くっくくくくく。……新しき妾が、そなたの望んだ姿とあまりに違えば違うほど、……妾が二度と蘇らぬ存在であることを思い知らされるから、……であろう?」

「………………………。」

「くっくっく! いい女は逃がしたら二度と捕まらぬわ。今頃になって、妾がいい女だったと気付いたであろうが〜。」

「……うるせぇ。お前なんか二度と現れなくて、……せいせいすらぁ。」
「ふっ……………。」

 ベアトはソファーに寝そべるような仕草をしながら、天井を見上げた。

 戦人も背中を向けて窓辺に立ち、……しばらくの間、沈黙の時間が過ぎた。
「わかっていると思うが……。」
「……わかってらぁ。」

「そなたの期待する妾は、すでに消えた。」
「……わかってる。……あのベアトは、紛れもないお前自身ではあっても、……かつてのお前とは異なる存在で…。……お前はもう、……絶対に蘇らない…。」

「妾の魂と、この女らしさ、性格の良さ、気風の良さは、魔女としての千年によって培われたものだ。それはまったく同じ千年を経ぬ限り、妾と同じにはなり得ぬ。即ち、……そなたが妾を生み出そうと目論む時点で、すでに生い立ちが異なるのだ。」

「あぁ。…………お前が絶対に蘇らないなんて、……あの性悪ベルンカステルに、ばっちり保証されてるぜ…。」

「だが、期待しているのであろう?」

「…………………………。」

「新しき妾が、ある日、豆腐の角にでもコツンと頭をぶつけ、過去の記憶を取り戻して見事復活! ……みたいなのを期待しているのであろう? ふっひゃっひゃっひゃ! そんな妄想プロット、今時、ラノベだって通用せぬわ!」

「……うるせぇ。……お前だってかつて。……俺が思い出して、……気付くのをずっとずっと、待ってやがったじゃねぇかよ。」

「………………………。」

「……………………。」

 じゃあ、……何だよ。

 俺とお前の関係は、……かつてと、綺麗に逆になったって、…ことなのかよ……。
「………ふ…。……妾も、……そなたがいつかはきっと気付く、思い出す、奇跡が起こる。……そう信じてゲームを繰り返したこともあったがな。」
「………………どういう気持ちだったんだよ。……お前が、俺とゲームをしている時は。」
「くっくくくくくく…。自分の胸に聞けとはよく言ったものよ…。」
「………………………。」
 ……辛いな。

 むしろお前に瓜二つでさえなければ、……もう少し心の整理もついたんだ。
「まぁ、好きにせよ。かつて妾は、そなたを苛み、弄んだ。………今度はそなたがそれを、妾に復讐する番だ。……新しき妾は、何もわからず、おろおろとするのみ。煮るも焼くもそなた次第よ。積年の恨みも晴れるであろうが。」
「…………お前自身が相手ならな。さぞや気分も爽快だろうぜ。……だが、………あのベアトは、……お前じゃない。」

「妾でないというなら、誰なのか。」

「……お前によく似た、………別人だ。」

「だが、紛れもなく、妾でもあるぞ。」

「………そうだな。お前自身であり、……そして同時に、……別人なんだ。」

「ならば、新しき妾も災難なものよ。妾の身代わりに、慰み者とされておるわ。……くっくくくくく、何と気の毒なことか。」

「………………………………。」
 それが、……俺の矛盾かもしれない。

 新しいベアトが、別人だと思えるからこそ、受け入れられない。
 別人だとわかっているのに、……ベアトの面影を引き摺ってしまう。
「ならばいっそ。……あれは妾の娘とでも思え。」

「………娘、………?」

「妾の血を引きし、瓜二つの娘と解釈せよ。何しろ妾の分身であり、しかし千年の経験を経ぬのだから、そう呼んでもおかしくはあるまい。」

「……確かに…。」

「妾は死して、娘を残し、……そなたに託したと、そう思うのだ。さすればそなたも、あやつをどう受け止めればいいか、少しは考えやすいのではないか。」

「らしくもなく、……うまい例えをしやがって。」

「茶化すでない。あやつは、我が娘だ。妾が死んで残し、そなたに託した忘れ形見だ。………妾の面影を押し付けるも自由。恨みつらみを妾の代わりにぶつけて慰み者としても良い。……妾の罪を背負わせ、好きに苛めばそなたの鬱憤も晴れようぞ。それが趣味でないというなら、妾のように人の道を踏み外さぬよう、正しく導くのもまた一興だ。」

「……あやつは、そなたに尽くすように、生まれながら出来ておる。そなたが望めば、どのような姿にだって、変えられる。………千年の奇跡を経たならば、妾そのものにさえ、なれるかもしれない。」

「……かつてお前にされたように、裸にひん剥いて、鎖で引っ張り回すことさえ自由だな。」

「くっくっくっく。そうだな、今ならばそれ以上の鬼畜なる所業さえ可能であろうぞ…。」

「…………………お前の分身であり、そして、……娘、……か…。」
 彼女が、ベアトリーチェというルールによって再び生み出された、まったく同じ駒、同じ本人であることは間違いない。

 しかし、それでは受け入れられない時、………彼女がベアトの娘であると解釈することは、……俺の心のわだかまりと、どう彼女に接すればいいのかを考える、明確な道標になり得た。
 …………俺は、……やっと。

 …さっき、彼女に酷いことをしたのだと、………理解できる………。
 床に涙を零し、……それを目で追った時。

 床に、白い名刺大のカードが落ちているのに気付く。
 それは、……あのクッキーと一緒に飾られていた、…メッセージカードだった。

 早く片付けて出て行けと急かしたので、これを床に落としたことに気付かなかったのだろう。
 それを拾い上げ、………添えられたメッセージを読む。
 ………それは、あまりに無垢で、…純真な、……短い一言が記されていた。
 こんなにも目に沁みるのだから、……自分には確かにそれが読めているはず。

 ……なのに、………涙で滲んで、…何も、………見えない………。
 ……光と音の洪水は、ゆっくりと収まっていく。

 訪れた静寂には、さっきまで聞こえていたはずの、外の風雨の音さえない。

 朱志香も、……譲治も、……恐る恐る目を開く…。

 ……ここは、……一体……?
 そこは、見たこともない不思議な部屋だった。
 洋風の喫茶室のように見えた。

 ……調度品のセンスもよく、とても上品。
 気品ある人物の部屋に感じられた。
 テーブルの上には、紅茶の道具の準備と、……ゲームの途中のような、チェス盤が置かれていた。
 しかし、不思議な違和感。

 それは、盤上が白黒のチェッカー模様だからチェスのように感じられたが、……よく似た全然別の、誰も知らないゲームのようだった。
 一見、チェスのように見えて、チェスでないように。

 その部屋の調度品も、いや、部屋全体も、……洋式の喫茶室のように一見、見えて、……でも、まったく違う別のものであるかのような違和感を感じさせた…。
「………こ、……ここは……、一体……?」

「……朱志香ちゃんに嘉音くんも…。……………紗音? 紗音はどこに…?!」

「譲治さま、私はここにおります。」
「僕もここにいます。……お嬢様、譲治さま。このような場所にお連れしたことをお詫びいたします。」
「……一体、何がどうなってるんだい。……紗音が取りだした、蝶の羽のようなものが眩しく光り出したと思ったら…。」

「わ、私もだぜ…! 嘉音くんが黄金蝶のブローチとかいうのを取り出したら、それが輝き出して…。」

「お嬢様、譲治さん、まずはご無礼をお許し下さい。そしてどうか、落ち付いて下さい。……これから、不思議なことが起こります。その不思議な存在は、私たちを試すでしょう。」

「試す……? …それがひょっとして。…さっき君が言っていた、……僕たちが結ばれるために、乗り越えなくてはならない試練、……というやつなのかい。」

「し、……試練?」
「………お嬢様にはまだ説明していませんでした。お詫びします。………しかしどうか。…先ほどのお嬢様の言葉が本当なら、……どうか力を貸して下さい。僕も、……精一杯がんばりますから、どうか……。」

「……わ、…私にはさっきから、何一つわかりゃしねぇぜ…。譲治兄さんは、何か知ってるの?」
「一応はね。………今の状況を、君同様に驚いてはいる。しかし、これが避けられぬ試練で、僕たちに不可欠だと言うならば、僕は何が訪れようとも受けて立つつもりだよ。」

「……………試練……?」

「嘉音くん。ブローチを。」
「うん……。」

 二人は、2つに割れた黄金蝶のブローチを、互いに近付け合う。
 近付くに連れ、山吹色の眩しい輝きが強さを増した。

「……朱志香ちゃんもどうか、心の準備をしてほしい。僕には、すでにその準備がある。」

「ど、どういうことだよ…! 私にはさっぱりだぜ! 一体、何が起こってるんだ…?!」

「試練だよ。愛し合う二人のための、試練。」
「え、……えぇ…?!」

 歯が浮くような台詞を、譲治はさらりと言ってのける。

 朱志香はその台詞のあまりの恥ずかしさに、思わず赤面してしまうが、……譲治の表情に浮かぶ、険しさにさえ似た真剣さに、自身も表情を引き締めざるを得ない…。

 そしてそれは、紗音と嘉音もそうだった。

 ……二人はまるで、神聖な決闘に臨むかのような眼差しで、互いの黄金蝶の羽を近付けあっているのだ。

 そして、二人の持つ羽が、……1つのブローチとなって、その魔力を取り戻す。

 さらに激しい光が部屋を満たし、……それを見た全員の網膜に、ブローチが砕け散り、中から何か光る2つのものが飛び出すところを焼き付かせた…。
「人は、愛のために生きるのです! そう、愛こそは世界なり!」
「あぁ、愛の力の何と偉大なことか…! 愛こそは全てなり!!」
 突然、聞いたこともない二人の声が響き渡った。

 何事? 一体誰…?

 譲治と朱志香は恐る恐る目を開ける……。

 するとそこには、まるで、先ほどまで2つに割れていたブローチが、そのままに顕現したかのように、……2人の悪魔が姿を現していた…。
「おやっ、おかしいぞフルフル…!! どうして我らはこのようなところに?!」

「本当に不思議ですわ、ゼパル…!! ニンゲンと家具しかいない! 魔女はどこ? 私たちを呼び出すに相応しい、魔女の姿はどこに?!」

「あぁ、僕たちは契約の魔女の名前をよく覚えているはずさ。呼んでみようじゃないか、フルフル!」

「えぇ、そうねゼパル!! 私たちは契約の魔女、黄金の魔女の名前を知っている!」

「じゃあ呼んでみようッ!」

 「「ベアトリーチェぇえええぇえええええええええ!!」」

 まるで舞台演劇のように大仰で、少し滑稽な語り方をするこの二人が、絶大な力を持つ悪魔であると理解するのは、今はまだ難しいだろう。

 二人の悪魔がベアトリーチェの名を呼ぶと、部屋に黄金の蝶の群の旋風が湧き起こる。
 そしてそれは、二人の黄金の魔女の姿を形作った…。

「あれぇ、ベアトリーチェが2人だわ…!」
「僕たちだって2人だもの。ベアトリーチェがたまには2人だって、おかしくはないさ。」

「こやつは、妾の分身にして妹だ。2人は同じにして1人と同じ。」
「は、……初めまして。」

「お久しぶりです、ベアトリーチェさま…。」
「………………………。」

「わ、……私は夢を見ているの……?」

「……同感だね。しかし、茫然自失するには、まだ早いよ。」

 朱志香と違い、譲治はこの異常な状況にも冷静を保っている。
 ……彼はすでに紗音から、これから何が起こるかを聞かされているからだ。
「契約の悪魔たちよ、久しぶりであるな…! ゼパル。それにフルフル。」

「あぁ、お久しぶり! 君は相変わらず元気そうだねっ!」

「それにしても可愛らしい妹君! 潤んだその瑞々しい瞳は、水蜜桃の味がするんじゃないかしら…!」

「え、……あ、…ど、どうでしょうか…。」

 ゼパルとフルフルが、怪しげに笑いながら左右からベアトに絡み付く。

 その仕草の一つ一つが、いちいち大仰で、なのに洗練されていて。二人の仕草はまるで演劇のようだった。

「それくらいにしておけ、契約の悪魔たちよ。その悪ふざけも、今宵限りで見納めとはな。寂しいものだ。」
「見納めとは……?」

「僕たちの依り代のブローチは、もう壊されてしまったからね!」
「うふふふふ、つまりこれでもう、お役御免というわけ! あぁ、今まで本当に楽しかったわ、ベアトリーチェ!」

「でも、契約時の取り決めでね。最後の別れに、もう一度だけ力を貸さねばならないと決まっていたのさ。」

「だから、これが正真正銘、最後の奇跡!」

「愛の奇跡は一度で充分! だって永久の愛に二度目は不要なのだから!」
「……そういうわけだ。愛し合う男女たちよ! ここに集いしは、奇跡なくして恋を成就できぬ呪われし者たち。その奇跡を与える、黄金蝶のブローチの力は、泣こうが喚こうが今宵限り、最後のチャンス! それは1組の番いにしか与えられぬ!」

「………………………。」
「……僕は、負けないよ。」

「うん。……お互い、がんばろうね。」

 紗音と嘉音は、真剣な眼差しを交し合う。

 ……二人はすでに、自分の恋を成就するため、戦う覚悟を終えている。
「よ、よくわからねぇけどよ…! おかしな悪魔の力なんて、世話になる気はねぇぜ…!」
 朱志香にもそろそろ、場の雰囲気がわかり始めていた。

 おそらくこの悪魔たちは、……自分と嘉音たち、譲治と紗音たちの双方を競わせようとしているのだ。
「はっきり言わせてもらうが、余計なお世話だぜ! 私と嘉音くんの仲は、私と嘉音くんでどうにかする。怪しげな悪魔の世話になんか、なる義理はさらさらねぇぜ!」

「…………お嬢様、聞いて下さい。…この試練を乗り越えなければ、……僕たちは結ばれないのです…。」
「朱志香。受け入れよ。それが、家具の身でニンゲンと結ばれようと願う身の程知らずに課せられる、唯一の試練なのである。」

「家具とかニンゲンとか! 勝手に言ってろってんだッ、私たちには何の関係もねぇぜ!!」

「お嬢様には、まだ話していないの…?」
「……どう説明すればいいか、…わからなくて。」

「嘉音くんも紗音も、譲治兄さんも! どうしてこんな胡散臭い話に耳を貸してんだ?! 人の恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死ねッて決まってんだぜ? 何で悪魔たちに認められなきゃならねぇんだよ! 余計なお世話だぜ!!」
「さては困った分からず屋がいたものよ。………このままゲームを始めてもよいが、それではフェアとは言えぬな。」

「せ、……説明してあげてもいいのではないでしょうか。…私にもよくわかりません。朱志香さんと嘉音さんの恋に、何か問題でもあるというのですか…?」
「やれやれ! どうやら君も君たちも、何もわかっていないようだね!」

「私たちに祝福されれば、二人の恋をゆっくり育むことが出来るの! 胡散臭い悪魔も、なーんにも関係ないわ!」

「でも、もし僕らに祝福されなければ。君たちの恋路は消えてなくなり、枯れて萎れて、消えてしまう。」

「何でそんなことが言えるんだよ!!」

「「運命だから!! 認めないのも自由、抗わないことだって自由!」」
「………あ、抗わないと、どうなるんですか…?」

「恋路が終わる。……と抽象的な言い方では納得すまい。はて、どう説明すれば、そなたの運命の袋小路を説明できるのか…。」

「右代宮朱志香っ、君が信じているよりはるかに、君たちの未来は前途多難。」
「魔法の奇跡が得られなかったなら、必ずや二人に災いが訪れるの。」

「そしてそれが、被れ、爛れ。二人を破綻させる。……妾も、その過程を詳細に語るほど無粋ではない。しかし朱志香が信じぬというなら、破綻の最後だけ語ろう。……嘉音は使用人を辞め、この島を去る。永遠にな。」

「君は島を出て想い人を探す旅に出るだろうね、しかしそれは決して報われない!」
「あぁ、そうしてあなたは嘆いて恨むの!」

「誰を?!」
「あなたを!!」
「僕をかい?!」

「「いいえ、今のあなたを!!」」

 二人は芝居がかった仕草で、朱志香を指差す。

 ……この場を逃げれば、後悔するのは自分自身だと挑発しているのだ。
「な、……何を、…言ってやがる……。」

「想い人を失ったあなたはその時、気付くわ。想いを遂げる試練を逃げた、あの時の自分が憎いって!」

「そうさ、僕たちは未来の君からのメッセンジャー! どうか、今のこの瞬間を、君の恋に真剣になって、戦いに臨んでほしい!」

「もしあなたが、未来の自分のメッセージに耳を貸さないならば?!」

「尾を飲み込む愚かな蛇は、そのままどんどん飲み込み続け!」

「永遠の苦悩の輪廻は、自らを飲み込み、……消えるのみよ。」
「わけが、……わからない…!!」

 朱志香は混乱を怒りの表情で示す。

 ……しかし、脳裏に薄っすらと、ずいぶん前に聞いた記憶が蘇っていた。
 ……僕は姉さんと違って、何年もここに勤めるつもりはありません…。

 ほんの数年で、……あるいは。

 ……姉さんがここを辞めることがあったら、僕も一緒に辞めようと、……思っています………。

「嘉音、……くん……。」
「……………………。」
「そなたが魔法の奇跡を紗音と譲治に譲るなら。……二人は結ばれ、島を出る。……そして嘉音もまた、島を出る。それは避け得ぬ、運命なのだ。」

「で、……では、魔法の奇跡を得られたなら…?」

「無論、嘉音は島に留まり、いつまでも朱志香の傍にいる。……朱志香が望んだ、音楽活動とやらも一緒に始められるだろう。……それ以上の関係にどう進むかは、愛し合う二人の問題だ。朱志香が望むように、二人だけでゆっくりと関係を育めばよい…。」

「……ただ。…その場合は、私と譲治さんもまた、結ばれません。」
「………僕たちは、自らの幸せと未来を賭けて、……戦わねばならぬ、運命なんです。」
「ふ、……ふざけるなよ…! 何だよそれ…?! つまり、自分たちが結ばれれば、必ず相手は破綻するのか?! そんな悪魔のゲーム、冗談じゃねぇぜ!!」

「間違えるな。そなたらが奪い合うゲームではない。……黄金蝶のブローチの力がなければ、そもそもどちらの恋も、実らぬ運命なのだ。」

「だ、誰がそんな運命を決めたんだよ!!」

「恋を許されぬ家具に恋した、そなたらの罪ゆえにだ。……嘉音はそなたにはっきりと、家具は恋をする資格がないと拒んだはず! そなたはそれを承知で、嘉音を恋の相手に選んだのだ。知らぬとは言わせぬ…!」

「……………ッッ。」

 何も納得できはしないのに、朱志香は言い返すことが出来ない。

 すると譲治が、いつもフォローしてくれるような柔らかな口調で言う。
 ……しかしその表情は、相変わらず、冷酷なくらいに真剣だった。

「……朱志香ちゃん。こう考えないかい。」
「考えるって、……何を…。」

「僕はね、紗音を愛している。どんな試練も障害も、全て乗り越えて結ばれようという覚悟を持っているよ。………君はどうだい?」

「そ、そりゃ、……私だって、多少のことでへこたれるほど、ヤワなつもりはねぇぜ…。」

「うん。なら、そういうことだよ。……僕たちは今、試されているのさ。僕たちが、どれだけ気持ちの強さを示せるか、ということをね。」

「………譲治兄さんは、……このわけのわからない話で、納得してるっていうのかよ…。」

「納得なんか必要ないよ。……僕は、紗音と結ばれるために、全ての試練と障害と戦うことを、婚約指輪にかけて誓った。……どんな理不尽な、到底理解できない試練であっても。……僕に退くという選択肢はないね。」

 譲治はきっぱりと言ってのけ、……そして冷たい眼差しで朱志香を見る。
 ……もう、朱志香も理解しかけている。

 朱志香がぐだぐだと、悪魔たちの試練を拒むなら。……彼らが競わせようとしているゲームは、自動的に不戦敗となる。

 つまり、譲治と紗音の勝ちだ。
 そして、彼らに魔法の奇跡が与えられて、恋が成就され、………そして、朱志香と嘉音は破綻し、……やがて嘉音は島を去って、永遠に再会することは出来ないという未来を、確定させることになる。
「……僕にとって。……君がこの試練を辞退してくれるなら、これほど嬉しいことはないんだ。……君と、戦わなくて済むからね。そして、君の嘉音くんへの想いは、その程度のものだったんだねと、蔑むことになるんだ。」
「ん、……………く、…………ッ。」
 譲治は一見、冷酷そうに言うが、……彼はあくまでもフェアだった。

 不戦敗などということになれば、朱志香の未練と後悔は永遠に断ち切れない。
 そして譲治だって、心のどこかにしこりを残すのだ。

「……僕たちは、たった一つの奇跡を巡って、正々堂々と戦わなくちゃならない。……その結果、仮に僕が破れたとしても。……互いがベストを尽くして戦った上での結果なら、諦めがつく。そして、だからこそ、心の底から相手を祝福できるんだ。」
「…………ふっ。…譲治の覚悟、…なかなかのものよ。」

「そこまで言われて、」
「君は逃げ出すのかい?」

 二人の悪魔はくすくすと笑って挑発する。
 もちろん、譲治は笑わないが、冷酷な目で、やはり彼も挑発していた。

「………紗音は……、」

「……お許し下さい、お嬢様。……私は、譲治さんと結ばれるために、一歩たりとも退かない覚悟です。………たとえ、……私の想いを貫くことが、……お嬢様の恋路を閉ざすことを知っていようとも。」

 朱志香は、紗音にこのような厳しく、そして真剣な言葉をぶつけられたのは初めてだった。

 そして、気弱でいつもおろおろしていると思っていた彼女に、こんなにも強い意志が眠っていたのだと気付き、驚く。
「嘉音くん………。」

「僕は、……お嬢様と新しい人生を歩みたいです。……その歩みが、………姉さんの幸せを踏み越えていくことを意味しようとも、………僕はここを退きたくない…。」

 嘉音も、精一杯の克己を見せる。

 そう。

 誰もが、……自分に対し、一切の甘えを捨てて、……真剣なまでに正直だったのだ。

 黄金蝶のブローチだとか、魔法の奇跡だとか。
 悪魔たちが課そうとしている試練がどうとか、……そんなものは、どうでもいいのだ。

 ただ彼らに、想いを遂げる強い意志があるかどうか。
 それだけが問われているのだ。
 朱志香は握り拳を振るわせながら、……下唇を噛んで俯き、震える。

 彼女は沈黙するが、すぐに、決して退かぬ鋼の決意を持つだろう。
 ……それはほんのしばらくの時間を必要とするだけだ。

 芝居がかった仕草で人を茶化した二人の悪魔たちは、朱志香が決意するのに必要とする沈黙を、汚したりはしない。

 愛ゆえの葛藤と、そこから至る決意への覚悟。

 その尊さを、愛を司る悪魔として、誰よりも理解しているのだから…。
「…………朱志香さん……。」

「そして、……その魔法の奇跡は、そなたであっても、享受できるものであるぞ。」

「私にも………? そ、それは、……どういう……。」

 愛し合う2組の話だと思っていた。

 突然、話が自分にもかかわるとは思わず、ベアトは思わず驚く…。

「黄金蝶のブローチの奇跡は、………そなたの願い、……戦人への好意を認められたいという願いさえも、叶えることは容易い。……そして、その奇跡なくして、結ばれることも、また、…………ない。」

「……………っ…。」
「君も蚊帳の外じゃないということさ。」

「愛の沼を渡り切りたい! あなたの望みのはずっ!」

「僕たちは君の願いだって、決して蔑ろにしたりはしない!」
「……そなたと戦人の関係とて、やがては爛れ、腐り落ちる。……いくら楽観的なそなたであっても、……何かの奇跡がない限り、やがてはそのような運命を迎えることを、すでに理解しているはずだ。」

「……………それは………。」

 ベアトは、悲しげに俯く。

 クッキーの件で挫けたつもりはない。
 ……しかし、傷つかなかったといえば、それはあまりに大きな嘘…。

 戦人に近付こうとすればするほど、それは彼を傷つけている。
 しかし自分は、戦人に近付くために生まれてきた。

 …まるで、寒さに凍え、身を寄せようと近付く針鼠。
 愛ゆえに近付くことが、傷つける……。

「そこまでわかっているなら、奇跡に託すのも、また一興というものよ。買わぬ宝クジに当たり無しとも言うでな。ゼパル、フルフル! この妾の妹も加えよ。」

「あぁ、もちろん!」
「よろしく、もう1人のベアトリーチェ…! 私たちは、初めからあなたも加えるつもりでいましたわ!」

「「なぜなら僕らはゼパルとフルフル! 愛を司る悪魔だから!!」」

「……わ、……私も、……参加してもよろしいのでしょうか……。」
「君が望むなら、いいんじゃないかい。誰であっても、僕は拒まないよ。全ての障害に勝利し、全員に僕たちを祝福させる。……もちろん、逆でもさ。全力の僕たちを退けて成し得た恋ならば。僕も紗音も、心の底から勝利した二人を祝福することを約束するよ。ね、紗音。」

「はい。私たちは負けません。そして負けても、心の底から祝福します。」

「……僕も同じです。僕は負けません。」
「………退けねぇケンカだってんなら。……買おうじゃねぇかよ。……私も嘉音くんも! 不戦敗ってのだけは、ゴメンだぜ。」
「それは、そなたもだな。」

「は、……はい…。……お父様に、ぁ、…ぃぇ、……戦人さんに私を認めてもらえる可能性がわずかでもいただけるなら。私もそれに、自らを賭けたいと思います。」

「よくぞ言った。それでこそ我が妹っ。ゼパル、フルフル! 役者は揃ったぞ!」

「それでは始めようか、フルフル!」
「えぇ始めましょう、ゼパル!」

「「たった一つの魔法の奇跡を巡っての、愛し合う者たちの試練を…!!」」
 ヱリカは、与えられたゲストハウス2階の自室に戻っていた。

 隣は空室。とても静かな部屋だった…。
 耳をつけても、いとこ部屋の声は何も聞くことが出来ない。
 探偵権限に裏付けられた聴力を以ってしても、何かを気取ることは不可能だろう。

 この部屋は、いとこ部屋から遠く離された一番奥の部屋だった……。
「前回は私の部屋は、いとこ部屋の隣だったのに。……なるほど、今回は私の部屋を遠ざけてきましたか。」

「ゲームマスター権限で許された範囲の、初期配置の変更デス。妥当な初手カト。」

「まぁ、その方が私もいいです。あのクソガキどもの、トランプで遊ぶ黄色い声なんて、聞きたくもありませんから。」
「………………。」
 ヱリカはずっと机に向かって、作業をしていた。
 それは、……例の、封印のガムテープの製作だった。
 熊沢に一番粘着力の強いガムテープを所望したのだ。

 それに油性マジックで複製不能の複雑なサインを書き入れ、切れ目を入れる。
 こうして、塞がれていたことを証明したい箇所に貼り付けることで、それは赤き真実に匹敵する強力な封印となる。

 前回のゲームで猛威を振るい、夏妃を徹底的に追い詰めた、あの封印だ…。
「………ん、……。……これ…。」

「如何しましタカ。」
「……やられました。……戦人め、周到ですね。」

 ヱリカは肩を竦めて、切り取ったガムテープ片をドラノールに示す。
 一見しただけでは、ヱリカが何を不満なのかわからない。
 しかしそれを受け取ってすぐに、違いに気が付いた。

「……これでは駄目デス。」
「えぇ。粘着力、ほとんどないです。これじゃ、赤き真実には至れない。」

 ガムテープも、品質の悪いものもあれば、経年で劣化するものもある。

 熊沢に持ってきてもらったそれは、本来の用途でも少々微妙。探偵の封印として使うには、まったく粘着力の足りないものだった。

「綺麗に剥がすことが可能デス。これでは、封印を示す証拠にはなりえマセン。」

「……戦人も、そこまで見下げ果てたほど、無能じゃないってことですね。おそらく、ゲームマスター権限で、この島の全てのガムテープに干渉したんでしょう。」

 彼女にガムテープを持たせるだけで、それは魔女にとって致命的な武器となりうる。それは前回、証明済みだ。

 だから戦人は、その武器を屋敷中から取り除いたのだ……。

「恐らく、ガムテープに代わる品も、全て干渉を受けているに違いないデス。」
「……ですね。ま、良かったことにしておきます。お陰で、この冷たい雨の中、みっともない姿で外壁を這い回らなくて済みますから。」

 ヱリカはガムテープを無造作に放り投げると、ベッドに転げて大の字になる…。
「事件が起こるのを、パイプふかして悠然と待つのも、探偵の嗜みですし。……あんたも、どうせ第一の晩が発覚するまで出番ないんですから、どこかに姿消して、一服でもしてたらどうですか。………私の顔なんか、見てても疲れるだけでしょうし。」
「……煙草は吸わないデス。子供ですノデ。」
「そーですか。……私は吸いたいです。…喫煙者たちが謳うほどの、気分を爽快にさせる効果があるならの話ですが。」
「……ご機嫌が、優れられないようデス。」
「………そう見えます?」
 ヱリカは天井を見上げたまま、気だるそうにそう答える。
 それは半ば、質問の答えになっていた…。
 二人の沈黙は、室内を雨と風の音で満たす。

 時計が時を刻む音に気付いてしまうほどに、……静かだった。

「………ヱリカ卿。お尋ねしてもよろしいデスカ。」
「内容によります。多分、ノーですが。」

「………………………。」
「……………。一応、暇潰しに聞いてあげます。何です?」
 ヱリカも退屈なのだろうか。
 ……あるいは雨の音に感傷でも覚えたのか。

 彼女らしくもなく、ドラノールの話に付き合う。
「ナゼ。……ヱリカ卿は、魔法を嫌われるのデス。」
「……あぁ。……さっきの下の、真里亞とのやり取りの件ですか。」

「あんなの、子供騙しの下らない手品デス。誰だってわかっていマス。……あぁまでして、幻想を打ち砕く必要があったのデスカ。…私にはわからないデス。」

 ドラノールに言われるまでもなく、……ヱリカも、大人げない喧嘩だったことはわかっている。
「……自称、知的強姦者としましては。魔法なんてもので、真実をうやむやにすることが許せないわけです。」
「それを暴くことに愉悦を感じられている、ということデスカ。……私には、他の感情が感じられマス。」
「他の感情? ………何です?」
「愉悦というよりは、……もっと何か別の、負の感情を感じマス。」
「はっ、……やっぱりあんたはただの殺人人形です。その目も節穴みたいですね。」
「………失礼しまシタ。許してほしいデス。」
 ヱリカは不機嫌そうに寝返りをうち、ドラノールに背中を向ける。
 だからその表情はドラノールには見えない。
 ……それでも。

 その、誰にも見えない、観測者なき表情は苦々しいものに違いないと、なぜか想像することが出来た…。
 ひとりにしてくれという意味だと理解し、ドラノールは一礼してから姿を消そうとする。
 するとヱリカが不意に、言った。
 あまりに唐突な言葉だったので、ドラノールは自分の耳を疑って、聞き直さなければならなかった。
「……今、何と仰いましタカ。」
「あなたのことが好きです。」

 それは、……本当にあまりに唐突な言葉だった。

 その真意を確かめたかったが、ヱリカは相変わらず背中を向けたままで、その表情はわからない…。
「…………ありがとうございマス。」

「以前は、別の子と付き合っていましたが、今は完全に切れています。周りの人たちは僕たちを妬んでありもしないことを言いますが、気にしないで下さい。」
「……………………………。」

「俺は君に、生涯の全てを捧げるから、君も俺に、全てを捧げて欲しい。二人で一緒に、幸せになろう。」
 ドラノールはあえて、何の話デスカと聞き返さず、黙っていた。
 ヱリカはしばらくの間、少女漫画にでも出て来そうな、くすぐったい言葉を、無感情に淡々と続ける…。

 そして不意にまた、脈絡のないことを口にした。
「………新しい財布。」
「………………?」
 もちろん、何を言っているのか、わからない。

 しかしヱリカは相変わらず背中を向けたまま、……その脈絡のない言葉を続けた。
「変な猫のキーホルダー。趣味の合わないアロマオイル。演劇の先輩に借りたという、趣味違いの音楽テープ。………先輩の付き合いで断れなくて。急にバイトが入っちゃって。ダチの電話が長くてなかなか切れなくって。」
 作り過ぎたカレー。
 増えた演劇の稽古。
 キッチンペーパーの畳み方。
 もう食べてきたから。
 化粧道具に詳しくなった。
 ごめん、寝てた。
 便座の蓋が閉じていた。
 舞台仲間のところで泊り掛け。
 演劇仲間とここで飲み会してさ。誰かの忘れ物だよ。
 綺麗になった排水溝と三角コーナー。
 行動圏外のレシート、ポイントカード。
 靴底の泥は雨天の日曜日に外出した証拠。カレンダーの謎の記号との合致。あなたの演劇仲間にこの長さの髪の毛の人間は存在しません。誘導尋問。どうしてまだ見てない映画の筋書きを?

 証拠、証拠、状況証拠。観察、監視、追跡、尾行。採取、盗聴、聞き込み、問い詰め。
 私があなたを愛した、たくさんの証拠が見つかった。

 あなたが私を愛した、たくさんの証拠が見つかった。

 あなたが浮気をしてない証拠だけ、見つけられない。
 いい加減にしろよ、俺のこと愛してんなら信じろよ。それが出来ないなら、お前はもう俺のことを愛してないんだよ。そんなやつ、俺だって愛せるわけねえだろ。お前を一生大事にするし、演劇も同じくらい頑張りたいんだよ。お前は演劇やってる俺が好きだって言ったろ。そのお前が何で演劇やめろなんて言い出すんだよ。どうしてお前と演劇のどっちかなんてことになるんだよ。お前、変だよ、疲れてんだろマジで。あのさ、お互いの顔見て喧嘩しかしないんなら、お互い少し冷却期間を置かね? 俺も次の舞台まで集中したいし。先輩のとこの女の子、急に出れないとか言い出してさ。脚本、明日までに書き換えなくちゃならないんだよ。こうしてる時間も惜しいわけ。
 つかさ、そこまで俺が信用できないんなら、もう俺たちは終わってんだよ。来んなよ、帰れよブス、お前なんかもう愛してねぇよ。泣くなよウゼェな、キメェんだよ死ねよ。近所迷惑だろ喚くんじゃねぇよクソブタ。マジうぜえ消えろ二度と来ンな。
「……愛がなければ視えない? …………はっ。逆なんですよ。」
「………………………………。」
「愛なんかあるから、ありもしないものが、視えてしまう。」
 ……それは、自分にしか視えず、なのに自分でも触れられない、ただの幻。

 愛さえなければ、ニンゲンは虚実など何も見ずに済むのだ。

 虚実が視えてしまうから、……惑う。苦しみ。泣き叫ぶ。
「………私は今、幸せです。………仮とはいえ、真実の魔女になれて。……今の私は、もう、……赤くない言葉に、苦しめられなくて済むのだから。」

「………………………。」

「…………………………。……あんたなら。私のエンドゲーム、どう返しますか。」
「私、デスカ。」
「あの凡庸な男じゃ、ゲームの相手は務まりませんでしたから。……あんたなら、どう返してくれるかと思いまして。」
「………………………………。」

 ドラノールは突然に、かつてヱリカが、その男に挑んだ魔女のゲームの相手を求められる。
 ヱリカの過去のカケラが共有され、ドラノールも全ての状況を把握させられた。

 盤面は二人の脳裏に完全に再現されている…。
 状況は、一方的。

 ヱリカ側は無数の状況証拠で青き真実を構築し、それら全てを駒化し、もはや詰め将棋のような局面となっている。

 ドラノールはしばし、沈思黙考し、……定石に従い、自分の一手を告げた。

「初手。……私が浮気している証拠の提出を要求しマス。」
「青き真実で反論。構築に状況証拠、物的証拠を84点提出。」

「青き真実で反論。今も愛し続けている状況証拠、物的証拠を6点提出デス。」
「グッド。青と青では相殺ですが、構築する駒の数が圧倒的ですね。」
 双方、青き真実で相殺された場合、状況、物的を問わず、証拠という名の駒の数量で判定が行なわれることがほとんどだ。……ニンゲンの世界の場合は特に。

 よって、スタンダードルールの場合、ヱリカの判定勝ちとなる…。

「1点先取。次なる手は?」
「…………攻守逆転を狙いマス。逆にヱリカ卿が浮気をしていない証拠の提出を求めマス。」
「パーペチュアルチェック。お互いが同じ質問を無限連鎖する千日手となりますから禁じ手です。」
「では証拠無くも、現在もヱリカ卿を愛していることを、率直に表明しマス。」
「赤き真実でないから無効です。仮に赤かったとしてもそれ、ステイルメイトです。私に反論する手が、なくなりますから。」
「…………………………。」
 ドラノールはしばしの間、沈黙する。

 それから静かに、ヱリカがチェックメイトに至るまで、……ドラノールは無言で応手を続けた。
 ステイルメイトは、魔女たちのゲームにおいては、ゲームの破綻を意味し、禁じ手となっている。
 しかし、チェスにおいては同時に、引き分けも意味する。
 ゆえに、もはや逆転不可能の劣勢側が狙う、最後の妙手となっている。

 この場合、明らかに優勢なのはヱリカ。
 ……対するドラノールは、引き分けに持ち込むために、ステイルメイトを狙うのは当然。
 しかし、それはチェスならばの場合。

 ……魔女たちが真実を弄ぶゲームでは、禁じ手。

 ゆえにもはや、チェックメイトも同然。
 ドラノールに、返す手は存在しない…。

 しかしそれではこのゲームは、…………本当の二人の真実にかかわりなく、……………。

「……他に手は? 真実を守る魔女狩り大司教?」
「…………イエ。……リザインデス。」

「ね? ほら。………………ふん…。」

 ヱリカは見事、……かつての想い人が、もはや自分を愛していなくて浮気しているという、彼女の主張する真実で、打ち破る。
 相手に反論の方法はない。

 ………なぜなら、ニンゲンには、――――が、許されていないから。
 見事なゲーム、見事な詰めの優勢勝ち。

 相手の真実がどうであれ、ヱリカが勝利できる。

 見事な、……勝利。
 ドラノールは、沈黙で応えるしかない。

 それっきりヱリカはもう、何も喋らない。
 ……もう何も話す気はないから、消えろということだろう。
 ドラノールもそれを理解したが、それでも。

 ………姿を消す前に、一言だけ伝えたかった。
「見事なゲームデス、ヱリカ卿。」
「探偵は勝利して、当然ですから。」

「あなたはベルンカステル卿の駒になる以前から、実に見事な青き真実の使い手デス。………しかし、ヱリカ卿。ニンゲンに許されるのは、青き真実だけデス。そして、青き真実に反論できるのは赤き真実だけデス。そして赤き真実は、ニンゲンには許されていマセン。」

「…………ならばどうやって。…あなたのお相手は、彼の真実を示せば良かったのデスカ。」
「………さぁ。……赤き真実に時に勝るとかいう、例の黄金の真実とやらでも持ち出したらどうですか。」

「………………………。……ゲームは確かにヱリカ卿の勝ちデス。しかし、真実の守護者として申し上げマス。」

「何です。……どうせ不愉快なことでしょうから、それを言ったら、とっとと消えて下さい。」

「……ハイ。………確かにこのゲームはヱリカ卿の勝ちデス。しかし。……私が示した、あなたを今も愛している青き真実の証拠6点は、未だ否定されていマセン。……あなたさえ、ニンゲン。それを否定する赤き真実を使えは、しないのデス。」

「探偵権限で、84点の証拠を赤き真実に、後に昇格させました。我が主のお力によって…! 私はニンゲンにしてニンゲンを超えた存在。探偵にして魔女。真実の魔女、古戸ヱリカです。他に質問は?捨て台詞は?」

「………ありマセン。……それでは、失礼いたしマス。」
 ドラノールは一礼してから姿を消す。

 ……後には、苦い過去を、相応しい苦い笑顔で笑い捨てる真実の魔女がひとり、残されるだけだった…。
 ベッドサイドの置時計を見ると、今まさに24時になるところだった。
「……さぁて。ひと寝入りさせてもらいますか。いよいよ二日目、10月5日の幕開けです。……今頃どこかで。今回の殺人が起こっているんでしょうかね。今回の犠牲者さん、せいぜい色々なダイイングメッセージをよろしくお願いしますね。うっふふふふっふっふっふっふ…!」
「どうして母さんに相談しなかったのッ!! あなたの人生を最後まで支えるパートナーの話なのよ?!」

「そうだよ。生涯、一緒にいたい女性なんだ。」

「だからこそ真剣に決めなければいけないんでしょう?! どうしてそんな軽率にッ!!」
 ゲストハウスの外の、……ひさしの陰に、絵羽と譲治の姿があった。
 紗音との婚約を、打ち明けたのだ。

 ……間髪入れず、絵羽は怒りを爆発させた。

 譲治にとって想像の範囲内だったので、彼は冷え切ったくらいに冷静に受け答えしていた…。

「………寝たの? 子供が出来たとか言われて、結婚を迫られたんでしょう!」
「失礼だな。僕は婚前の貞操は厳しくあるべき主義なんだ。」

「じゃあどうして婚約なんてッ?!」
「僕は求めた。彼女は受けた。それで成立じゃないか。」

「ううん、違うわ違うわ!! 結婚はね、あんたが思ってるような、漫画か何かみたいに簡単なものじゃないのッ!! 先方のご両親は? 両家の交流は? あんた、野良猫じゃないのよ?!右代宮譲治なのよ?! ひょっとしたらお祖父さまの後継者に指名されるかもしれないこの時期に、どうしてそんな軽率なッ!! どうして、母さんに相談してくれなかったの…!!」

「今、こうして相談してるよ。いや、相談じゃないか。これはただの報告だね。……お祖父さまの後継者に指名されるのはまったく期待してないよ。いや、むしろ辞退したいくらいさ。僕は、自分の国と城を、父さんがそうしたように、何もない原野に築き上げたい。」
「あ、あのね…!! 父さんが今日までどれくらいの苦労をしたのかわかってるの?! あんたが真似て出来るようなことじゃないの!! 今日まで、どれほどの運や偶然に助けられたことか!!」

「そして、母さんという良き理解者の伴侶がいたからだよ。紗代は僕を支え、より強く生まれ変わらせてくれる人だ。……母さんが、たくましくなったと褒めてくれた今の僕は、彼女がいなかったらありえない。」
「はぁッ…!!! いい?! 譲治?! とにかくここは一度母さんに任せなさい。頭を冷やして、よーく考えて! 紗音ちゃんだけが、あなたに好意を持ってるわけじゃないのよ…?! お見合いした亜由美さんだって、あなたのことをとても気に入ったそうよ?!」
「初耳だね。」
「あなたもわかってると思ってたのよ…!! 先方のご両親も大変あなたのことを気に入ってるそうよ?! もしあなたに、父さんのように一国一城を築きたい夢があるなら、その手伝いが出来るのは亜由美さんの方でしょうッ?! 彼女の気持ちを裏切るの?!」
「……裏切るも何も。僕は亜由美さんと、特に交流があったわけじゃない。お見合いをして、その後、親たちが勝手に盛り上がってるだけじゃないか。数度、無理やり引き合わされたけど、僕たちは互いに、目さえ合わせちゃいない。」

「亜由美さんは育ちのいい、奥ゆかしい女性でしょ!! 男性の譲治に目を合わせるなんて、恥ずかしいし不躾で出来なかっただけよ…!! あなたが、目を見て話してくれなきゃ気持ちが感じられないというなら、彼女にそう注意するわ。きっとこれからはあなたの目を見て話してくれるはずよ…!!」

「亜由美さんと結婚させたいのは、それが母さんにとって利するからさ。……母さんの縁談には、僕の気持ちがわずかほども含まれていないっ。」
「譲治ッ!! どうしてそんなことを言うの!! 母さんがあなたのことを考えないことなんてあった?! ないでしょう?! 親という漢字はどういう字?! “木”の上に“立”って“見”ると書いて“親”なのよ?! 母さんたちはね、あなたよりはるかに高みから、人生の遠くまでを展望してるの!! そしてあなたが、若さゆえの一時の感情で、間違った道へ進もうとしているのが見えているの!! だからこうして、憎まれることを承知で言ってるのよ?!」
「あんたがどうでもいい子だったら、こんな喧嘩しないわ! どこの変な女とでも勝手に結婚しなさいって、放っておいてるわよ…! ね、譲治? 母さんに全て任せなさいッ。もうあなたは紗音ちゃんに会わなくていいわ。全部、母さんたちで話をつけてあげる。……大丈夫よ、紗音ちゃんにも悪いようにはしない。だって、譲治に、成長のきっかけをくれた人だものねぇ…? ちゃんとそれに配慮してあげるから。だからあとはもう、母さんたちに任せなさい……。譲治…………。」

「………………………………。」

 激情の絵羽は、いつの間にか目から涙を零していた。

 その涙に戸惑いを覚えたのだろうか、……譲治は、背中を向け、肩を落とす…。

 やはり譲治も人の子…。

 ……結婚は愛し合う二人の同意さえあれば、他には何もいらないとわかってはいても、………それを親に認めてもらいたいという気持ちは拭えない…。

 だから、今日まで世話になった母の涙と、自分が選んだ婚約者の間で、葛藤して………、………いない…?
「………もう、いいよね。そろそろ。」
「え…………?」

「今日まで。立派に育ててもらって、本当に感謝してる。僕も子を持って親になったら。………母さんみたいな親になるよ。子供のために、本当に戦える、世界で一番尊敬できる親にね。」
「譲治…………。」
 譲治は背中を向けたまま、……傘を捨て、……ゆっくりひさしを出て、雨の中に出る。
 そして、……ゆっくりと、振り返る。
 それは確かに、絵羽のよく見知った、最愛の息子の顔。

 ……だけれども、血の繋がりさえ忘れる、……克己した、一人の男としても存在していた。
「もう、そろそろいいと思うんだよ。」
「……何が、……よ……。」
「子離れしても、いいんじゃないかな。母さんは。」

「…………譲、……、」

「ここからはもう、親子の関係はなしで話そうじゃないか。僕は譲治。君は、絵羽。親だからどうこうというのは抜きにして、互いの立場から本音をぶつけようじゃないか。………君が、僕を望み通りの相手と結婚させたい理由は、……経済的事情、世間体、……それから、未だ諍いのなくならない、伯父さんたちへの見得。……それ以外に、何もない。」

「………………………。」

「いっそ、それをすっきり認めてくれた方が、潔いね。……僕はこれから、僕の立場だけで語るから。君もそうした方が、いいんじゃないかな。……………負けるよ? 君。」

 譲治の瞳にはもう、……母に対する敬愛は、一切浮かんでいない。
 ただただ、……自分の未来を縛ろうとする魔女を冷酷に見下す、冷え切った光があるだけだ。

「……譲治……、……どうして、……母さんをそんな目で見るの……。」
「今、僕は、母さんを見ていないからさ。……僕の目に映っているのは、……僕の選び取ろうとする未来の前に立ち塞がる、試練の壁だけさ。……母さんだって人間だ。夢や野心があって、それを今も追い続けてるのは知ってる。そしてそれを、素晴らしいと思う。……自分の夢を決して諦めないことの大変さを、僕たちは知っているのだから。」

 だから、その素晴らしき力を、僕も受け継がなきゃならない。

 僕は、両親や友人たち、そして紗代から、様々なものを学んで成長してきた。
「その最後に学び、獲得して完成されるのが本当の、………右代宮譲治という男なんだ! 僕は今、あなたという最後の壁を、超えるッ!!」
「………………ッッッ!!!」
「………何…?」
 絵羽の姿が、消えた。

 降り注ぐ雨は、全ての地面を等しく叩いている。
 いや、……わずかに遮られている場所があった。

 しかしそこに、誰の影もない。
 ……雨を遮るのは、地上に立つだけじゃない。

 なら、…………まさか………、
「…………ッ!!」
「いいわよぅ、本音をぶつけ合うのもたまにはいいじゃない! 私も言っちゃうわ。だからあなたも言っちゃえばぁ?! あっはははははっはっはっは!!」
 この降り注ぐ雨の中空に、浮かぶはずのない月を背負って、……やがて右代宮家の全てを手に入れる、未来の黄金の魔女が、そこにいた。
 母の姿のその変わり様にも、譲治はまったく動じない。

 むしろ譲治はそれを、潔し、と短く一言、感嘆する。

 母は正直に素直に、……本当の姿を晒してくれたからだ。
 これでこそ、……僕は安心して、本当の自分へ、今度こそ姿を晒せる…。
「行くよ、母さん。そして、……絵羽。これが僕の、……君の束縛から踏み出る、最初の第一歩だ…!」

「第一歩ォおぉおおおォオ…?!?!」


 その第一歩の足元に、違和感。

 泥濘とは違うネバつく感触に、譲治はその第一歩さえ許そうとしない、母の傲慢を確信する。

「小さい頃、お話をたくさん読んであげたわね? あなたが大好きだった西遊記、覚えてるゥ?」
「………懐かしいね。多分、僕が、一番最初に愛したファンタジーだ。」
 神の座を求めた孫悟空に、お釈迦様は試す。

 この手の平から飛び出すことが出来たなら、それを認めようと。

 そして孫悟空が辿り着いたと思った世界の果てにそびえ立つ五本の柱は……、お釈迦様の指で、未だその手の平を脱してさえいなかった、というエピソード。
「……僕が母さんから決別すると宣言した第一歩が、それだと言いたいわけだね…?」
「うっふっふっははははっはっはッ!! あなたの反抗も葛藤も、苦悩も克己も全て全て!! 私がすでに通ってきた道…! あなたのその第一歩など、私という人生に飲み込まれる程度!! いつまで目を背けてるのゥ? 見ちゃえばァ?! 足元ぉ!!!」
 譲治の足元には、雨が叩く濡れた漆黒の大地が。

 そこに、うっすらと赤く、禍々しく光る帯のようなものがあって、……それを譲治の第一歩が踏んでいる。

 それは粘性と深みを持っていて、譲治の第一歩を咥え込んでいるのだ。
 空に浮かんで見下ろす絵羽から見ればそれは、……譲治を中心に放射状に広がる、広大で真っ赤な、蜘蛛の巣。
「…………そうさ。これが僕さ。生まれた時から数々の習い事で縛り付けられ、……あんたの野望のためだけに育てられてきた僕の姿さ。」

「いいえ、それは違うわ。なら、わかるようにしてあげる。見せてあげる。そして悟っちゃえばぁ?! あっははははっひゃっはアぁあ!!!」
 大地の広大な赤い蜘蛛の巣が、鍋に浮く灰汁を掬うかのようにあっさり、譲治を大地から掬い上げる。
 そして網の罠で捕らえた鹿のように宙に釣り上げ、振り回す。

 エヴァの狂った笑い声とのそれは、まるで小学生が体操服の入った巾着袋を振り回すみたいに無邪気で、……そして残酷だ。
「…う……………ぐお………ッッ…ッ!!」

「くすくすくすくす!! さぁさ思い出して御覧なさい? 火曜日には何があったのか…!!」
「がはッ!! ぐ、……ご…………。……覚えてるさ。……ピアノ教室だよ。今でも、猫踏んじゃったを聞くと、背中の毛が逆立つね。」

「幼稚園の頃はバイオリン教室だったわぁ。デキる子はやってそうでしょオ? あんた才能なさそうだったからね。途中でピアノに変えたけどッ!!」
「じゃあ水曜日は覚えてるゥ?!」

「お、………覚えてるさ。進学塾の日だよ。遠くてね、通うのが苦痛だった…。」

「じゃあ木曜日は? あっはははっはっはっはっはァ!!!」
「補習塾だわ。暗記科目は苦手だったものねぇ?! あなた、応用は出来るのに暗記は苦手な、典型的な“やれば出来る子”だったわァ!」

「………痛烈だね。子供が三者面談で言われて、一番イラつく言葉だよ。」

「“馬を水場に連れて行くことは出来るが、水を飲ますことは出来ない”。」
「イギリスの格言だね。」
「あなたのやる気を出して維持させるのが一番苦労したわァあぁあおぁおおおおおオぁああああああぁああッ!!!」
「ごッ、…………ぐはッ、がは…!!」
 真っ赤な蜘蛛の糸で雁字搦めにされた譲治は、もはや魔女の玩具…。
 狂った笑いとともに、無邪気に振り回されては、打ちのめされる。何度も、何度も。
「金曜日は覚えてるゥ?!」
「………もちろんさ。ユニークな塾だったね。親と一緒の塾なんて、色々な意味で窮屈だったよ。」

「“子に釣竿を買うな。一緒に釣りに行け”。」
「母さんはイギリスの教育論が好きだね。………ぅおッ!!!」
「親にとっても辛い塾だったわねェ!! でもあれが一番、あんたには効果的だったわ! 高いお月謝、毎週、金曜の夜を費やさなければならない面倒!! でもね、一番効果があった! その時悟ったの!! 子供はね、親が見ていないと伸びないの!! 子が芽なら親は太陽だわ! 太陽なくして芽吹く草木も、咲かせる花も存在しないの!!」
 雁字搦めのまま、譲治は、投げられ、叩き付けられ、打ちのめされる。
 譲治に出来ることは何もない…。
 未だ母の手の平を出ることの出来ない孫悟空と同じ。

 しかし、彼は屈服しないということで、いつ如何なる時も、抵抗を見せることが出来る…。
「じゃあ、土曜日は?!土曜日は?!」
「……家庭教師が来てくれてたね。」
「向こうから来てくれるから楽だったでしょう?!」
「……聖域である自室に、毎週他人を迎え入れるのは苦痛だったよ。……先生が帰った後に残る汗の匂いが、今でも思い出せるくらいに嫌だったね。」
「あなたに学習姿勢を叩き込んでくれる素晴らしい先生だったわよ! 弁護士の相談費用並のお月謝を払った甲斐が本当にあったわァア!!」

「………そして迎える日曜日と、塾の予定がない月曜日だけが、僕の安息日だった。………これは皮肉だね。火曜日から土曜日までの塾が、僕を抑え付けてきたのか。……まさに僕は、孫悟空だったわけだ。」

「くっくくっくっく!! そうね、私の手の平から逃れたいなんて思い上がりは、お釈迦様に五行山で潰してもらうといいわぁ!!」
 神の座を欲した孫悟空は、火、水、木、金、土、の五つの行を司る五つの山に押し潰されて封じられた。

 孫悟空に憧れた譲治にとって、この歳になって気付く最大の皮肉だった。
「思い上がったあなたは、孫悟空と同じに、少し反省とお仕置きが必要だわァ。あなたが改心したら、私が解放してあげる。」
「それは解放じゃないね、洗脳だ。………………うッ!!」
「何も考えなくていいの! ママに全て任せちゃえばぁ?! 私があなたの全てを決めてあげる。それがあなたにとって、一番素晴らしい人生なのよッ!!」

「世界で一番知的で、あなたのために全てを捧げてくれる女性を用意してあげる!! 全ての成功も、それに至る道も、全て全てママが用意してあげるわッ!! そしてやがては右代宮家で最高の名誉である、当主の後継者にあなたは指名されるの!! それから初めて、あなたは自分の人生を始めなさい…!!」

「第一歩ォ? 笑わせないでよ、あんたはね、まだ生まれてさえいないのよッ!! これはあんたを捕らえる私の巣じゃないわ。……あんたを慈しんで育む、私の子宮の中なのよォぉおおおぉおおおぉ!!!」
 譲治は何度も大地に打ちのめされる。
 ……血の繋がった息子に対するものとは思えない、あまりに無慈悲な暴虐。

 しかしそれも、……絵羽にとってみれば、可愛い息子への、愛ゆえなのか…。
 赤い網袋に閉じ込められた人型の肉塊が、何度も叩き潰され、そして天に打ち上げられ、……全身を鮮血で彩った無残な姿を大の字にして、天の巨大な蜘蛛の巣に磔にする。
 磔の譲治は、ぴくりとも動かない…。

 いや、もしまだ抵抗する力があったとしても、……磔にしている赤い巣は、わずかほどのそれも許さないだろう…。

 最初からずっと、変わらずに降り続けている雨は、磔の譲治を静かに苛み、そして憐れむ…。
「………五行山に封じられて、しばらく頭を冷やしなさい。……紗音ちゃんが悪い子だからやめなさいと言ってるわけじゃないのよ…? 彼女は譲治に、青春と成長のきっかけを与えてくれた、とても良い子だわ。」
「……でも、後先を考えない婚約は別の問題よ。相手が彼女だからいけないと言ってるわけじゃないの。それをわかりなさい…?」
「……“友を責めるな。行為を責めよ”、………だね。……これも、イギリスの格言だ。」
「………本当にあなたは賢い子に育ったわ。……いえ、育っているわ。………私のお腹の中でね…? もう少しじっくりと育ちなさい。さぁ、お仕置きは終わりよ、謝りなさい、母さんに。」
 磔の譲治を蜘蛛の巣は、ねとりと未練の尾を引きながらも解放する。

 そしてどさりと、雨天の大地に落として捨てた…。
「ありがとう、………母さん。」
「……………………。」
 譲治は、四つん這いまで立ち上がるのがやっと。
 ……泥を掻いて踏み止まりながらも、顔を上げることは未だ出来ない…。
「………これまでの全てが、……僕を思っての、…ことだったんだね……。……ありがとう、………本当にありがとう……。」
「そうよ。……今は憎いでしょう。でもいつかきっと感謝するわ。私がどれほどあなたを愛していたかを、きっと理解する。」

「火曜日から土曜日までの連日の塾での縛りつけも、……僕を立派な男に育てようという、……母さんの努力だったんだね……。」
「………これもイギリスの格言よ。“子供を幸福で包むことが、最高の教育”。」

「…ありがとう。……だから僕からも母さんに、イギリスの格言を贈るよ。」
「なぁに…?」

「“全ての木に斧を一撃ずつ加えても。一本の木も切り倒せはしない”。」
「………なぁに。…それは、………どういう意味……?」
「こっちの方がいいかな。………“学問に時間を費やし過ぎることは、怠惰に過ぎない”。………フランシス・ベーコン。」
 泥と鮮血に塗れた男が、……歪んだ眼鏡を直しながら、……ゆっくりと立ち上がる。
 母の羊水の中でまどろむだけの男には決して纏えない、……克己した男だけが見せられるその姿は、薄汚くも、…神々しかった。
「僕が紗代から学んだことは数え切れない。……僕は彼女の前で初めて。……勇気と男気と、向上心とウィットとユーモアと、それからちょっぴりのお洒落を学んだんだ。皮肉だね。……今日、母さんが僕を立派になったと認める要素のほぼ全てが、……母さんの教育の賜物じゃないんだ。」
「じょ、………譲治……、……あんたは、………まだ、……そんなことを…ッ!! 戻してあげるわ、母さんの子宮に!! そしてもう一度温かな海で、育て直してあげるッ!!!」
 エヴァが吠えると同時に再び、譲治の足元に真っ赤な蜘蛛の巣が現れ、彼を宙に掬い上げて捕らえようとする。

 しかし、その刹那。
 譲治の周囲に一瞬だけ、力ある魔法陣が浮かんだのが見えた。
 譲治は蜘蛛の巣に掬われるより早く、自ら跳び、……鋭利な切れ味を伴った踵とともに、華麗な前転を見せて、……束縛の蜘蛛の巣を裂く。
「…………なッ、……?!?!」

 その華麗な動きは、……彼に初めから、この束縛を逃れるだけの力があったことを示す。
 彼は望んで、蜘蛛の巣の捕縛に身を臨んでいたのだ。

「……母さんのこれまでの恩をひとつずつ。……痛みで相殺させてもらったよ。……お陰で僕も、親離れがきっちりと出来そうだ。必要だね。………たまには親子喧嘩も。」

「譲治ッ、……わ、…私に、どうしてそこまで逆らって、あんな小娘とッ?!?!」

「必要なのはやはり。母さんの子離れのようだね。…………じゃあ、そろそろいいかな。」

「な、何がよ?!」
「“そろそろいいかな。反撃しても”。」
 エヴァが遮るように放つ、蜘蛛の巣のカーテンは全て遅い。

 譲治はその隙間を縫って、……次の瞬きの時には、眼前に…。
「………お、おぉおおおおおおおぉおおお!!」
 譲治の足元を刈り倒すかの足払いを、エヴァは跳ねてかわし、……二段目の回し蹴りを自らの上段蹴りで相殺する。
「母さんの習い事で、……1つだけ感謝しているものがあるよ。」
「へ、……へぇ、それは何曜日のかしらァ……?!」
「長期休暇の度に集中的に習わされた、武道教室の数々だよ…!!」
「…は、……きゃっはっはははッは!! 嬉しいわ、譲治ッ、たった一つでも感謝してもらえるなんて!! 母さんは嬉しいわッ!! きゃっはっはあアっは!!!」
 エヴァの鋭い足が稲妻のように瞬く。
 下段下段下段、中段直撃。
 前のめりになった譲治の頭部を両手で捕らえて、大地に叩き付けるかのように。

 それを、エヴァの膝蹴りが、大地から天へ向けて稲妻が昇るかのように打ち砕く。
「ムエタイも習えば良かったのに! 譲治も一緒に習えば、もっと楽しかったわァ!!」

「……そうだね。母さんと一緒に武道を学ぶ時が、一番楽しかったよ。」

「なら今が一番楽しいんじゃない!! 楽しいね譲治ッ、楽しいね!!!」
「楽しいかい、母さん。……息子と遊ぶのは。」
「えぇ、楽しいわ!! あなたは私の最愛の息子ッ、私のお腹の中でやさしくやさしく愛してあげるわ!! あなたがお腹を蹴るのさえ愛おしいッ!!」
「了解だ。だがその蹴りは、お腹の外からになるけどね。」
 譲治の鋭い膝が、……エヴァの下腹部にめり込む。

 その痛打を理解する直前まで、エヴァは息子の足蹴に満足な笑みを返し、……嘔吐した。
「ごぼッ!!! が、…………がはッ!!」

「母さんももう歳なんだから。……いい加減、そういう、若い子向きの服は自重した方がいいんじゃないかな。」

「じょ、………譲治ィイいぃいぃいいいぃいいぃ……ッ!!!」

 吐しゃ物に顎を汚しながら、エヴァが歪んだ苦悶で譲治を見上げる。

 彼女は自分がどんなに無様な顔をしているか、……彼の眼鏡の反射で知ることが出来た。

「母さんも、僕も。……一緒に子供時代とお別れしよう。さよなら、母さん。」
 激しい落雷と雨が、……過熱した時間を、冷却する。

 譲治の美しい蹴りが、………絵羽の胸の直前で、寸止めされていた。
 しかし、譲治のまとった赤い魔法陣の力はすでに、……エヴァの体を貫いていた。
 足が寸止めされているのに、………エヴァの背中からは、ごぽりと血が溢れ出す。

 胸には傷一つ付けず、……心臓を打ち抜いていた……。
 エヴァは、ぐらりと後ろへ仰け反り、………水溜りにバシャリと転んだ。
 痙攣もしない。
 ……苦痛にのたうつ一瞬さえ与えず、絶命させられていた…。
「……その辺にいるんじゃないかい。ガァプ。」
 眼鏡の歪みを直しながら、……譲治は背後の、バラの茂みの陰に告げる。

 するとそこの中空に漆黒の穴が開き、………ガァプが降り立った。
「………大したもんね。……あの、エヴァ・ベアトリーチェを、継承前とはいえ、打ち倒すなんて。」

「やはりいたかい。……余計なちょっかいを出さなくてありがとう。親子水入らずで過ごせたよ。」

「まさか。いなかったわよ、私は。…………今、あなたが私を召喚したんだわ。」

「どっちでもいいさ。……君にお願いがあるんだ。」
「聞く義理はあるの?」

「……………聞いてくれないのかい…?」

 譲治は背を向けたまま、……眼鏡を掛け直す。
 声の凄みは、……悪魔たちを束ねる王の貫禄を持つ。

 ガァプはその貫禄に、ごくりと喉を鳴らし、舌なめずりをしてから、……その背中に最敬礼を返す。

「私はイケてる男が好きだけど。王者はもっと好きだわ。……何なりとお命じを、魔王陛下。」
「………右代宮家の当主に憧れ、その夢と妄執に生きた彼女の亡骸を、相応しい場所に安置してほしい。」
「じゃあ、金蔵の書斎へ?」

「いや、………。………貴賓室がいいな。屋敷の2階の、あの開かずの貴賓室。」

「…………あの部屋ね。了解したわ、ジョージ陛下。」
 ガァプは、エヴァの死体に近付くと、そこで右足の踵で、軽くタップを踏む。

 すると大きな穴が開き、ガァプと死体を丸ごと飲み込み、消えた。
 しばらくして、宙に小さな穴が開き、エヴァが常に持っていた、右代宮家の長を意味する片翼の鷲の杖を吐き出し、水溜りに落とす…。

 死者にはもはや、不要な杖なのだから…。
「………………………………。」
 譲治はゆっくりとその杖に近付き、………その杖の端を、鋭く踏みつける。
 すると杖は激しく回転しながら宙に舞い上がり、………魔王を祝福する青い月を経て、譲治の天を掴むかのように伸ばしていた腕に自ら飛び込む。
 それを受け取った瞬間。

 激しい落雷が間近にもう一度落ち、…………閃光が晴れた時、握り締めた杖は、数匹の黄金蝶の飛沫となって、……消えていた。
 それはまるで、譲治が杖を天で、握り潰して消したかのようだった…。
「これで、………僕はノルマクリアだ。……次の人に番を譲るよ。」

「……じ、…自分の母さんを、……手に掛けるなんて……。」

「…………自分を世界で一番最初に愛してくれる人であり、……そして一番最後に決別すべき人だ。……それが、家を出る、ということだよ。これが僕が、紗代を娶るために見せられる勇気だ。」

「譲治さま………。」
「………………。」
「天晴れなり、右代宮譲治。まずは見事であるぞ。」
「……たとえゲーム上のこととはいえ。駒のこととはいえ。……自分の母親を殺すのは、愉快なことではないね。………しかし、それが君たちの課す試練だというから、僕は応えたよ。」

 じろりと二人の悪魔を見る。

 悪魔たちは互いの顔を見合わせてから、そろそろ見慣れた大仰な仕草で驚きを表現し合う。

「素晴らしいわッ!! 何て見事なのかしら、ゼパル!」

「そうだねフルフル! 譲治くんの決意は本物だ! どうやら僕は君を見誤っていたようだねッ。謝るよ、許してほしい!」
 譲治は、その芝居がかった会話には付き合わない。

 ただ静かにゲーム盤を見下ろし、………自分の駒と隣り合っていた、……母を意味する駒を静かに、倒す。
 ……ゼパルとフルフルが課した試練が、これ。

“二人の愛を貫くために、一人の命を自らの手で捧げよ”。

 それはかつて、ベアトのゲームにおいて、当主を選ぶ試練として課せられた3択のゲームに似ている。
 しかし、愛し合う二人が、互いの命を見捨てることが、あるわけもない。

 だから自動的に、二人以外の命を捧げるように、もう選択肢が選ばれ終わっている。
 ……むしろ。自分たち以外の全員の命を捧げろとまで言わないだけ、慈悲深い。

 それに、あくまでも駒として奪えというだけだ。
 ゲーム盤を唯一の世界とする“彼ら”には、それは痛ましい親殺しだが、……この魔女の喫茶室でゲーム盤を囲む“彼ら”には、……それは親を超える意思を、駒の動きで示しただけに過ぎない。
 しかし、無限にあるカケラの世界の中のほんの一つであっても。……悪魔たちは、命を捧げさせることを強いたのだ…。
 譲治は、悪魔のゲーム上のことと割り切れているようだが、……朱志香には、たとえ駒であっても命を奪わねばならぬことに、未だ抵抗を持っているようだった。

「……………………………。」
「……ふふっ、怖気づいたか?」

「い、……いいえ……。……ば、戦人さんの望むベアトリーチェは、……こんなことでは、臆したりしません…。」

「「さぁッ、次は誰が試練に挑戦を?!」」

「誰でもいい、次なる犠牲者を選び出してほしい!!」
「誰でもいい、次なる挑戦者は名乗り出てほしい!!」

「誰も名乗り出ないならッ、」
「………僕の勝ち、ということだね。」

「えぇ、そうなるわッ! ならばおめでとう、右代宮譲治!!」

「あなたとあなたの愛する人の恋の成就へ至る扉の鍵を、」

「「僕たちは今こそ授けんッ!!」」
「まッ、………待てよ……!!!」
 譲治が勝利者だと囃し立てる悪魔たちの歓喜を、……次なる挑戦者が遮る。

「………朱志香……さん……。」

「……次は、………私だぜ……。……いいぜ、やってやらぁ。…私だって、嘉音くんのこと、ハンパに考えてるわけじゃねえってこと、見せてやらあッ!!」
 今年の親族会議も、相も変わらず泥沼。
 一度頭を冷やそうということになり、小休止となっていた…。

 当事者である四兄弟たちは、それぞれ言いたいことも言えるが、夏妃や霧江などは外様なので、自由に意見しにくい空気があった。
 言いたいことが言えない会議というのは、ただ黙っているだけでも疲れる。

 霧江も、大きな溜息を漏らさずにはいられなかった…。
「…………………………。」
 ここは、屋敷の2階の廊下だった。

 留弗夫が一服の間、ひとりになりたいというので、彼女もひとりになりたくなって、……ふらりと階段を上り、ここに来ていた。
 夫がいなければ、崩せる表情というものもある。
 ……霧江は、滅多に見せない疲労の表情を晒すのだった。
 ひんやりと冷えた窓ガラスに額を押し当てる。

 鋭気を少しでも取り戻して、夫の支えにならなくては。たとえ発言権がなくても。

 ……それが、私の勝ち取った責務なのだから。
「…………………、……誰?」
 不意に人の気配を感じ、振り返ると、廊下の向こうに朱志香の姿が見えた。
「………………………。」

「あら、朱志香ちゃんじゃない。……ゲストハウスに行ったんじゃなかったの?」

「……ちょっと、その、……本を取りに自分の部屋へ戻ってたんです。」

「そう。ゲストハウスに戻るところ?」
「は、はい。そうです……。」
「嫌な雨ね。風はだいぶ強いのかしら…?」
「今は比較的、弱いみたいです……。」

 窓の外の様子をうかがう霧江の背中を、……朱志香は落ち着かない様子で見ていた…。
「……霧江叔母さん…。……ごめんよ、運がなかったと思ってくれ…。」

「あぁ、ゼパル! 朱志香の運命のルーレットは、霧江を選んでしまったわ!」

「どうするんだい、朱志香! ルーレットは霧江を選んだけど、それを拒否して、再びルーレットを回すのも君の勝手さ!」

「「試練に捧げるのは、誰の命でも問わないのだから…!!」」
 朱志香は、譲治とは違った。

 譲治は、紗音と結婚するという新しい人生に踏み出すため、古き人生との決別を意味して、絵羽を生贄に自ら指名した。
 しかし朱志香は、指名する相手など思いつきはしなかった。
 ……なので、それを運命のルーレットに託すことにしたのだ。
 それは別に大仰なことではない。

 ……彼女が好きに歩き回り、……最初に出会った人物を生贄に選ぼうと、自らにルールを課したのだ。

 そして、運命のルーレットは、……彼女を霧江に巡り合わせた…。
 もちろんそれに、強制力はない。

 しかし、朱志香は自分が一度決めたルールを破りたくなかった。
 ……悪魔のゲームに臨む自分が、それでも貫きたい唯一の正義だったからだ…。
 今なら、その無防備な背中から襲い掛かれる…。
 しかし朱志香はまだ、最後の決意が出来ずにいた。
「……………………。……どうしたの? 何か私に話でも…?」
 朱志香の妙な間に気付き、霧江が振り返る。
 ……無防備な背中はもうない。

 朱志香は自らの躊躇が、最初のチャンスを失わせてしまったことを知る…。
 ……嘉音への愛を証明するために挑んだ、悪魔のゲーム。

 しかし、……愛ゆえに、悪魔に魂を売ることが、……本当に許されるのだろうか…。
 すでに達観していた譲治に遅れを取りたくなくて、勢いで自分も悪魔のゲームを承諾したが。

 ……未だ心の整理はつかない……。
「あの、………………。……き、霧江叔母さんにこんな質問、……まずいかな………。」

「……なぁに? 朱志香ちゃんが私に質問なんて珍しいわね。……答えられるものだといいんだけれど。」

「実は、あの、…………私、…好きな人がいるんです。」

「あら、そうなの? それは素敵ね、くす。まさか、恋の相談なの…?」
「え、……えへへ…。…そんな、……ところです。」

「………いいわよ。私で良ければ力になるわ。」
「あ、ありがとうございます…。……実はそれで、その、……。」
「まだ片想いなの?」
「いえ、……そこから両想いに、なりたて、って感じのとこです…。ただその、………結ばれるには、……試練があって……。」

「試練? なぁに、それ。」
「……私たちと、もう一組の恋人たちがいて、……争わなくちゃならないんです。」
「三角関係? それとも四角関係…? 複雑そうね。……それで?」

「勝った方の恋人同士しか、結ばれない…。……そういう複雑なことになってるんです。つまりその、」

「………嫌な話ね。……相手を踏み台にしてしか、どちらも成就できない恋なのね。」

「はい…。……自分たちが結ばれれば、……相手が破綻します。……そして、逆も然りです。」

「……質問の趣旨が大体わかったわ。……こういうことでしょう? 人は、幸せになるために、どこまで他者を踏み台にすることが許されるのか、……でしょう?」

「…………………………。」

 やはり、……霧江は頭のいい人物だった。
 朱志香のもっとも聞きたかった問いを、彼女はすぐに察してくれる…。

「戦わなければ、自動的に相手が勝って、朱志香ちゃんたちは負けになる。……しかし戦って勝てば、相手を破綻させることになる。……どちらも嫌な話ね。でも、聞くまでもなく、答えは決まっているわ。」

「…………はい……。」

 霧江はくすりと笑う。
 ……自分の恋を貫く気がないなら、その程度の関係だ。

 ならば戦わず、相手の恋人たちに勝利を譲ればいい。
 しかし、譲れない恋ならば。
 ……勝利もまた、譲れない。

 よって、……戦う以外の選択肢は、存在しなくなる。
 結局のところ朱志香の悩みは、その唯一の選択肢を選ぶことで、相手の破綻を自ら強いることになる、罪の意識による躊躇、だ……。
「……やっぱり、………私は、……甘えているでしょうか……。」
「そうね。……甘えてるわ。」
「………………………。……でも、…自分たちが結ばれるために、誰かを踏み台にするなんて、……そんなの、……辛いです…。」
「じゃあ、朱志香ちゃんは恋のお相手を、……諦める?」

「……それは………。」

「断言するわ。その方が、辛いわよ。地獄を這うことになる。……生涯ね。」

 霧江の眼差しには、いつの間にか厳しさが宿っていた…。

「……私は6歳だったから、当時は何もわからなかったけれど。……遺品の中に、お母さんの手記があったわ。」

「それは、日記のようなものか…。」

「どちらかというと、随想録ね。日記よりももっとアバウトなものよ。……亡くなってすぐにそれを見つけて読んだけど、…その意味を理解できるようになるには、長い時間と私の成長を待たなければならなかったわ。」

「………なるほど。…霧江の、夫婦仲についての悩みが記されていた、というのか。」

「あれは、……完全にお母さんの呪い帳よね。……その中身は、6歳の私がずっと漠然と感じていた疑問を次々に氷解させてくれたわ。」


 6歳の私には、両親はとても仲がよくて何の問題もないように見えた。

 ……そして、同じ家族のはずのお兄ちゃんが、どうして別居していて、たまにしか帰って来てくれないのか、不思議には思っても、そういうものだと納得していた。

「明日夢のことは、知らなかったのか。」

「……お兄ちゃんが、誰もいない時に話してくれたような気がするけど、小学校前の私に、それが理解できるはずがない。……だって、写真すらない相手よ。……お母さんは、明日夢さんの映った写真の全てを、お兄ちゃんに送って、家の中には一切残さなかったそうだから。」
 縁寿の前でも、そしてたまに帰ってくる戦人の前でも。……常に笑顔を絶やさない霧江。

 その胸中は、彼女の手記がもし残らなければ、縁寿は永遠に知りようもなかったろう。
 留弗夫は学生時代から、異性に特に人気のある、典型的なプレイボーイだった。

 大胆で突拍子もなく、それでいてちょっぴりだけ女性へのやさしさも持っていて。……多分、こうすれば女にモテるという方程式を、自分の中で確立していたのだろう。
 そんな留弗夫の寵愛を独り占めにしようと、たくさんの女性が、様々な色仕掛けで近付いた。
 留弗夫は多分、それを一番、楽しんでいた。

 もとより、留弗夫にとって恋愛は、遊び。
 特定の伴侶を見つけるための試行錯誤、などという気持ちは丸っきりない。
 わざと女性同士にやきもちを焼かせ、彼女らの媚びの上澄みだけを啜って、ハーレムを謳歌していたに違いない。

 ……自分のお父さんの話ではあるけど、……ひどいヤツだと思う。
「でも、お父さんも同時に、媚びへつらう女の子たちをきっと、見下してもいたのね。……そんな中に、自分の価値観をしっかりと持ち、知性を見せるお母さんは、目立って見えた。」

「……それすらも、留弗夫の目を引きたい霧江の知恵かも知れぬがな。」

「………………………。……かもね。お母さんは、色々な意味で、頭が良かったから。」
 留弗夫も他の右代宮兄弟同様、強い野心と上昇志向があった。

 彼は「やったモン勝ち」「バレなきゃいい」を合言葉に、詐欺ぎりぎりの、あるいは法律すれすれの商売を立ち上げては逃げ、立ち上げては逃げを繰り返した。
 大学時代から、すでにその才能は発揮されており、破廉恥な企画や、そのパーティー券の乱売で狡猾に稼ぎ、常に財布に壱万円札を百枚入れていることを自慢する男になっていたという……。
 多くの女たちは、突拍子もない企画の仕掛け人である彼のカリスマや、分厚い財布と気前の良さに惚れていた。

 ……霧江も、そうでなかったと言えば、嘘になる。
 しかし霧江が他の女たちと大きく異なったのは、………ビジネスパートナーとしても、留弗夫を支えたという点だった。
 大規模なパーティを成功させ、濡れ手に粟の大儲けで笑いが止まらない留弗夫。取り巻きの女たち。

 そんな中、霧江だけが冷静に、……収支と支出、改善点を洗い出し、さらに次の企画の案までもを出すことが出来た。
「そうして、……留弗夫にパートナーとして、次第に認められていくわけであるか。」

「………男子厨房に入るべからずって言うように。……女もまた、財布に入るべからずって空気はあるわよね。……女は奢られて当たり前。…男の出す壱万円札を、どうやって捻出してるかは野暮だから、聞かない、知らない、興味もない。」

「霧江は、金に対する価値観が、男性的であったということだ…。」
 留弗夫はそこに特に、光るものを感じた。
 壱万円札一枚を生み出すのに、どれだけの苦労が必要か、彼を知り尽くしていた。

 だから、その苦労に思いも馳せずに浪費する女たちのことを、心のどこかで見下していた。
 ……そんな中、霧江だけが、留弗夫と同じ、鋭利な経済感覚を持っていたのだ…。

 留弗夫は新しい企画を思いつく度に、それを霧江に話し、練り上げて成功させた。

 そうして霧江は着実に、大勢の取り巻きの中のナンバーワンに上り詰めていく。
「でも、お母さんだって女。……他の女たちにちやほやされてるお父さんを見て、心が安らいでたかどうかは、疑わしい。」
「……ナンバーワンより、オンリーワンの方が良いというもの…。」

「そういうこと。お母さんは、お父さんの右腕として活躍しながらも、その陰では狡猾に、他の女性を切り離していったわ。……お母さんの恋の成就は、もはや時間の問題だった。」

「明日夢は、いつからいたのか。」
「……留弗夫さんの取り巻きの一人よ。…いえ、取り巻いてさえいなかったわ。ただのファンのひとりだったわ。」

「話したことはあるんですか…。」
「もちろん。……私は彼女のことをよく知ってるわ。留弗夫さんが、明日夢さんの名前さえ知らなかった一番最初からね。………あの子も、きっと頭のいい子だったのよ。狡猾だったわ。……私は、頭の良さで目立とうとしたけど、………彼女はまったくその逆で目立とうとしたの。」

「……頭の、…悪さで……?」

「くす…。………庇護欲の掻き立て方がうまいって意味よ。媚びてイチャついてくる女たちの中で、……彼女の仕草のひとつひとつが、派手な女たちに食傷を起こしていた留弗夫さんには目立って見えたのよ。」
 ……明日夢と留弗夫の接近を許した失態の一部を、霧江は今も認めている。

 霧江は、ビジネスパートナーという座の獲得によって留弗夫を完全に自分のものに出来たと思っていた。
 ……そこにはひょっとしたら、慢心もあったかもしれない。

 そして、他の女たちとの関係の清算を強いようとする自分の、傲慢もあったかもしれない。
 時に、ビジネスパートナーとして頑張りすぎるあまり、正論とはいえ、彼を追い詰め過ぎていたかもしれない。

 次第に留弗夫には、何も難しいことを考えずに、……静かに黙って癒してくれる女性が必要になり始めていた。

 ………それが、明日夢だった。
「私は、冷酷で知的。合理的で経済的。……カルネアデスの舟板のような状況があったら、躊躇なく相手を蹴落とすわ。……そんなパートナーが、あの人には相応しいと思っていたから。」
 しかし、その冷酷さは、ビジネス面では頼もしさを与えたものの。
 ……留弗夫の、ビジネス以外の面では、彼の心さえも不安にさせたかもしれない。

 留弗夫はいつしか、……霧江の力を認めつつも、静かで温かな包容力に憧れるようになっていた。
 明日夢は、それを全て満たしていた。

 難しい話は一切聞かない。
 話しても、わからないからと首を振る。

 でも、誰よりも体を気遣ってくれて、静かに毛布を掛けて朝までじっと側にいてくれた…。

「……確かに私は、ビジネスのパートナーの座を手に入れた。……しかしいつしか。……留弗夫さんには、心を癒してくれる、メンタルのパートナーが必要になっていた。私は愚かしくも、知的を自称しながら、それに気付けずにいたわ。」

「…………それで、……留弗夫叔父さんは、…明日夢叔母さんと結婚を……?」
「……………………………。……えぇ、そうよ。寝取られたの。」
「……………………。」
「たくさんの女と寝てたもの。……今さら、どこの女と寝たって、情を移すような人じゃない。それにあの人にとって、女と寝るのなんて遊びでしかなかったもの。………だからこそ私は、体以外を武器に自分の存在を示していた。」
「……慢心だな。女として…。」

「間もなく、二人は懐妊するわ。……明日夢さんは、それをすぐにお父さんに打ち明けたけど、お母さんは逆だった。」

「………身重になることが、ビジネスパートナーの座を揺るがすことになりかねないと、恐れたのだな…。」

「当時のお母さんは、食が細くて月経異常とか当たり前だったみたい。だから、懐妊に気付くのもずいぶん遅れた。」

「気付いたのは…?」

「……明日夢さんとお父さんが、電撃入籍をしてからよ。……お母さんはその後に妊娠を知って、明日夢さんやお父さんを揺さぶろうとずいぶん暗躍したみたいだけど…。」
「明日夢さん、………あんなにぼんやりしてそうなのに。…留弗夫さんを咥え込んだら、離しやしない。……“だから何ですか、どうぞお引取下さい”、ですってよ。……バスひとつ乗るにも、怖い怖いと縮こまってた、あの小娘がね。」
「………あの時、悟ったわ。…本当に狡猾だったのは、彼女だったってね。……そうよ、乗り物恐怖症だって、留弗夫さんの気を引くための嘘だったわ。……………。」
「…………………ごめんなさい。こんな話を聞いても、つまらないわよねぇ。」
「あ、……いえ、………。」

「せめて。私の産む子だけでも認知させたかったわ。……留弗夫さんもそのつもりはあったみたい。病院もきっちり手配してくれたし、明日夢さんの出産が近付いても、甲斐甲斐しく私のところにも来てくれてたっけ。………もはや向こうが本当の奥さんなのにね。ひどい人だわ、本当……。」
 あとは、……語るも呪わしい物語。

 自分も明日夢も、……同じ日が出産日だった。
 なのに、向こうの懐妊は結婚に結びつき、……私の懐妊は意味を成さなかった。
 私は、絶対に自分の子を、留弗夫さんに認められる子に育てようと誓ったわ。

 明日夢さんと私の戦いは、私の敗北に決まった。
 ……でも、まだ負けじゃない。
 生まれてくる子の優秀さで明日夢さんに勝てて…、留弗夫さんに、もっとも認めてもらえる子になれたなら、私は報われる。………そう信じたわ。
「しかし、……霧江の子は死産だった。」

「えぇ。……明日夢さんにはお兄ちゃんが生まれた。……しかしお母さんからは、誰も。……お母さんの、せめて第二夫人の座に残りたいという最後の希望は、…絶たれた……。」

 霧江は、パートナーから第二婦人に、……そして、子供という、かすがいを産めず、……ただの愛人に、……転がり落ちていった。

 彼女がどれほど明日夢と、……その子供、戦人を憎んだか、想像もつかない。

「……そんなのをおくびにも出さず。……お母さんは、お兄ちゃんとも親しげに接してたわ。………ショックだった。あのやさしいお母さんが、……お兄ちゃんに、そんな負の感情を持っていて、それを隠し果せてたなんて。」

「……………………。……憎かったであろうな、戦人が。」

「でしょうね。……もし、死産が明日夢さんで、お母さんの方がお兄ちゃんを出産していたなら。……何か歴史は変わっていたかもしれない。もしもそうだったなら、明日夢さんと離婚させて、自分と再婚するようなシナリオを描きたいと、思ってたみたい。」

「………それも、随想録にか?」
「えぇ。………だからこそれは、随想、妄想。………涙で濡らしたシーツの端を噛みながらの、……お母さんの怨嗟。」

「後悔は一点だけ。」

「………懐妊、…ですか?」

「違う違う。………私の驕りだけよ。………留弗夫さんはもう私のものだから、絶対安全。……あんな明日夢なんていう小娘に負けるわけがない。……彼女がバスや飛行機でぎゃあぎゃあ喚く時、私はその手配と経費を適正に処理できた。……だから私は一番、留弗夫さんに信頼されていると、……驕り高ぶっていた。」

「……………………。」

「恋って、育むって、言うでしょう?」
「は、……はい。」
「間違ってないわ。……二人で水をやり、世話をして、育む。……そして最後に結実するのが、愛という実なの。知ってる? 結実して終わりじゃないのよ? ……愛を収穫しなきゃ、恋は成就したことにならないの。」
「………収穫って……?」
「それは朱志香ちゃんが考えなさい。……実らせても、収穫しなきゃ、痛んで腐ることもある。虫が集ることだってもちろんあるわ。いいえそれどころか、……盗人が現れて、もぎ取っていってしまうことさえもね。」
「………………………。」
「朱志香ちゃんたち若い子の恋愛感は、育むところで終わってる。……それは甘いわ。……愛を収穫しなきゃ、恋は報われない。」
「愛を、……収穫……。」
「それは、一見、愛し合う二人きりだけの問題に見えて、そんなことはないのよ。だからいつ収穫しても自由なんていう先延ばしは、盗人に機会を与えるだけ。……苦労して育てた実が、翌朝にもぎ取られてなくなっていたら? ……昨日の内に、面倒臭がらずに収穫しておけば良かったと後悔するはずよ。……辛いわよ、その後悔は。……地獄を這うわよ。」
「……………………。」

「私は幸運よ。その地獄が18年で終わったから。……だからもう、私は自分を、間違えないの。……あの人は私のものよ。もう逃がさない、手放さない。そして主に感謝する。………その機会を与えてくれて。絶対にあの人を諦めないという“絶対の意思”に、“奇跡”が応えてくれたんだわ。」

 朱志香はもはや絶句して、……相槌さえも打てない。

 ……霧江が教える恋の正しい姿とは、彼女が想像するよりも、ずっとずっと苛烈なものだった…。
「今の私は。……留弗夫さんを私のところに繋ぎ止めるためなら、何でもするわ。そして、留弗夫さんの敵には一切容赦しない。……あの人が望むならば私は、人殺しさえも、躊躇しないかもしれない。」
 「………18年目にしてようやく、その決意を持ったからこそ、………絶対の意思が奇跡を、……私にもたらしてくれたんだわ。………奇跡はね、それを自ら成し遂げられる者のところにしか、現れない。」
 明日夢の死は、断じて殺人ではない。

 しかし霧江は、死んでしまえと常に呪い続け、……18年目にしてとうとう、自らの手で殺してやろうと決意するに至ったのだ。
 そして、……実際に、……殺すための刃物さえ用意した………。

 そこに、奇跡が起こったのだ……。

「……明日夢叔母さんが亡くなったことが、……奇跡……。」

「違うわ。……そんなの全然、奇跡じゃない。」

「…………え?」

「だって。……彼女が死ななければ、私が殺していたもの。……つまり、彼女は必ず死ぬ運命だった。……奇跡なのは、彼女が死んだにもかかわらず、“私が自らの手を汚さずに済んだ”。この一点に尽きるのよ。」
 ……霧江が、今まで一度も朱志香に、……いや、留弗夫にさえも見せたことのない、眼球の一番奥底を、曝け出してみせる。
 それは、恋や愛が、少女たちが想像するような、甘くてふんわりとした、綿菓子のようなものではないことを、はっきりと断じていた。
 朱志香はその迫力に飲まれ、……絶句する。

 そして認めなければならなかった。

 これが、………恋を成就させるという、意思の力なのだ。
 彼女はこれほどの意思を見せて、留弗夫を妻として支えているのだ。

 そしてそれは、譲治もだ。

 ……身分差のある恋を成就させるため、全ての障害と対決する決意を、彼はすでにもっており、それを証明している。
 今なら、……はっきりと理解できる。

 譲治が冷酷に、……悪魔たちの試練を遂行してみせた、それに至る決意の重さが…。
 なら、……自分は………?

 嘉音との恋を実らせるために、……そしてその結実を収穫するための覚悟が、本当にあるのか………?
「くす、ごめんなさい。軽いアドバイスのつもりが、怖がらせすぎちゃったかしら…? ……くすくす。この天気のせいね。軽く凄むだけのつもりだったのに、加減を間違えちゃったわ。」
 霧江は、ふわっと弛緩した笑顔を見せる。
 ようやく張り詰めた空気が緩んだ。

 ……しかし、彼女が残した言葉は、しっかりと胸に刻まれている。
「朱志香ちゃんの恋が、どんなものかはわからないけれど。………ライバルがいて、お互いが譲れない状況ならばなおのこと、のんびりなんかしてられない。……じゃないと、私みたいになっちゃうわよ。…………女は恋のために。人生で一度、殺意を持つべきよ。……世界中で母を名乗る、全ての女がそうだったと断言できるわ。」

 だって。
「そうじゃない女は、他の女に食い殺されて、生涯を嫉妬と後悔の地獄で、這い続けるのだから。………私はその地獄に18年いた。……私は幸運よ、たった18年で恩赦になれた。……あの地獄には、今も大勢の女たちがいて、……死ぬまで出られないの。……後悔する自分を、自らの手で処刑しない限りね。」

「……………………。……何て言うか、……言葉も…ないです。」

「くす。……エールを送るつもりだったのに、私ったら脅し過ぎたわ。…本当にごめんなさい。……恋愛なんて、もっともっと気楽でいいのよ? 恋愛なんて、本当に火遊び。誰でも簡単に気軽に遊べちゃう。……そして間違えて大火傷した時、その傷が生涯残るんだけどね? ………くすくすくすくすくす。」

 恋愛の後悔は、生涯、拭えない。

 霧江が伝えたかったのはその一言だけだった。

 ……それを短く伝えず、普段なら避けたいはずの彼女の過去話まで語るなど、霧江らしくもなかった。

 しかし霧江は、……朱志香にはそれを聞く資格があると、思ったのかもしれない。

 彼女がおずおずと切り出す、恋の相談事。

 ……その瞳の奥に、朱志香なりの決意の炎があるのを見て取ったからこそ、包み隠さず、全てを話したのかもしれない。

「じゃ、私はそろそろ戻るわね。……今の話、私たちだけの内緒よ? うふふふふ…。」

 秘密めいた笑顔で、にやっと笑うと、霧江は踵を返す。
 ………脅し過ぎちゃったかしら。

 でも、脅されて知る地獄の方が百倍いい。
 ……そこに堕ちた時は、もう手遅れなのだから。
 がんばってね、朱志香ちゃん。
 ややこしそうな恋だけど、負けないでね。

 うふふ、たまには人生の先輩らしく振舞えたかしら…。
「……ん? なあに、朱志香ちゃん…?」
 え………、
 暴風が、霧江の頭部を掠めた。
 紙一重だった。
 霧江がわずかに体を捻らなかったら、顔面に、その鉄拳はめり込んでいただろう。

 朱志香は初弾で仕留め損ねたことに、苦笑いを浮かべる…。
「言っとくけど、卑怯者だから不意打ちをしたわけじゃねぇんだぜ…。……わけのわからないうちに一撃で、痛みさえ理解できないうちに終わらせようとしたのに…。」
「………言ったでしょ、嫉妬の地獄で生きてきたって。刺されそうになったことの二度や三度あるんだから。わかるのよ、不意打ちの直前の雰囲気が。」

「気配でわかったとでも…?」
「それプラス、一番最初の嘘かしら?」
「……嘘?」

「だって。ゲストハウスから来て、朱志香ちゃんの部屋で本を取って帰ろうとしたら、ここでこの向きでは出会わないもの。……あなたがその嘘をつく必要性について、チェス盤理論で想定した7つのケースの中で、最悪のものがこれだったわ。」

 霧江相手にいい加減な嘘をついても、警戒されるだけだ。

 もしも朱志香がその嘘さえつかなかったら、奇襲は成功していたのだから。

「………やるね。……さすが、…霧江叔母さんだぜ。」

「どうして? あなたは最初から私を殺すつもりだったわ。」

「誰でも良かった。」
「最悪だわ。」
「霧江叔母さんの話のお陰で吹っ切れた。………感謝するぜ……。」
「………な…………ッ、?!」
 霧江は鉄拳をひょいとかわし、その拳に手を沿え、激しく壁へ打ち付ける。

 本来ならそれで、朱志香は壁を殴らされて自爆し、拳を抱えて苦痛に転げ回るはずだった…。
 しかし、朱志香の拳は、何と壁に、直径1mはありそうなクレーター状のへこみを作ってみせたのだ。

 朱志香の表情には、拳を壁にぶつけた苦悶どころか、仕留め損ねたと舌打ちする苦笑いが浮かんでいた…。
「……すごいわね。さすが蔵臼兄さんの子だわ。ボクシングでも始めたの…?」

 ありえない…。朱志香は素手だ。
 何の凶器も持っていない…!
「…………抵抗しないで、叔母さん。頭一発…。 痛みなんか、感じさせない。」
 霧江は余裕を装うが、現実離れしたその破壊力に困惑を隠せない。

 その鉄拳がもし直撃すれば、彼女の予告どおり、一撃で頭部を砕き、痛みすら感じさせずに殺すだろう。
「行くぜ………。」
「………ッッ!!!」
 霧江が床を蹴って後ろに飛ぶのがもう一瞬遅れていたら、腹部が打ち砕かれていたかもしれない。

 跳び退いて紙一重にかわしたはずなのに、朱志香の左ボディブローは、爆風にも似た凄まじい風圧で、霧江を吹き飛ばした。
「……これは夢? 私、寝惚けてるッ?! わ、わけがわからないッ!」

 この朱志香は、見掛けは朱志香だけど、何かが違う…!
 人間じゃない、常識が通用してない!

 多分これ、……何かの悪い夢…!!
 霧江はゆっくりと立ち上がる。

 そして朱志香を見て、数m以上も間合いが開いてしまったのを見て、自分が風圧だけでどれだけ転がされたのかを知る。

「………………恨んでくれていいぜ。…でも私も、……霧江叔母さんの言うように、……引けないんだ。………私も自分の恋、……中途半端には、…終わらせられねぇんだ。」

「………あなたは何を言ってるの…? ねぇ、何を言ってるの?! 何なのよ、これは一体ッ?! 誰か教えてぇえええええぇえぇええッ!!!」
 朱志香の周囲の景色がゆらりと、高温で歪むかのように見えた。

 それは彼女の両拳から立ち込めているように見える。……そして、赤い魔法陣のようなものが、彼女の足元に浮かび上がっているようにも見えた。

 それはまるで、………地獄の灼熱の中に立つ、西洋の悪魔そのもののように見えた。
「…炎熱付与。……重量付与。……徹甲付与。」
 朱志香がそれらを呟く度に、両拳が禍々しく赤く、脈動するように光る。
 ……蒸気さえ噴出すその両拳は、紛れもなく、………悪魔が振るう、地獄の鉄槌そのものだった…。
「さッ、さよならッ!! これは悪夢なのよ…!!」
 霧江は脱兎の如く駆け出す。

 そう、それが今、彼女の選べる最善手。
 この悪夢から逃れる方法が、頬をつねることだと誤解しなかったのは流石だった。
「……ロノウェ。」
 朱志香が再び呟くと、真っ赤な魔法障壁が廊下を遮断した。
 霧江はそれに激しくぶつかり、退路を絶たれたことを知る。
「くッ、……や、……やめてよこんな、わけのわかんないのッ…!! これは、……悪夢だわ、……悪夢なのよ、……覚めて、……早く………。」
「……あぁ、悪夢だぜ……。………それが望みなら、すぐに覚めさせてやるよ。………一撃さ…。動かないで……。」
 朱志香が灼熱をまといながら、ゆっくりと歩いて、……近付いてくる。
 彼女が足を床から引き剥がす度に、……その足跡が、灼熱の湯気を漂わすのだ…。

 それは、……まさに悪夢……。……霧江は両手を頭を抱え、何度も横に振る……。

「悪夢なのね……? これは、……悪夢なのね………? お願い、そうだと言って……!!」

「あぁ、悪夢だぜ。」

「悪夢なのね…? 悪夢なのね……? あ、……ああぁあああぁあああああぁああ!!」

「私が認めてやるぜ。……これが、悪夢さ。」
「認めるわッ!! これは悪夢だと認めるッ!! だ、だからッ、」
「覚ましてやるぜ、一撃でなッ。ぅうぅぉぉおおぉおおあああああぁああぁああああアぁあああッ!!!」
「く、………かか…か……………、…??」
 朱志香の頭が奇妙な角度に曲がり、……何が起こったのかわからないとでも言うのように、白目を向きながら、……ぎこちなく後退る。
 朱志香の額に斜めに、……悪魔の杭が打ち込まれていた。
 それが自ら引き抜け、ぐるぐると回りながらレヴィアタンの姿となって着地する。

 抜けたあとの、朱志香の額の穴から鮮血が噴出した。
「嫉妬のレヴィアタン、ここに……!」

「悪夢の中だっていうなら、………私の悪夢に出てくる友人がいてもいいわよね。嫉妬の地獄の、友人よ。危機一髪だったわ、ありがとう。」

「……感謝は早いわ。こいつ、……堪えてる…!!」
「………か、…………か………、」

 脳天に深い一撃を食らわせてやったはずなのに、……朱志香は立ったまま、白目を剥いて痙攣するだけで、……倒れもしない。
 額から噴出していた鮮血も治まり、……ぎょろりと人形のような瞳を取り戻した。
 そしてゆっくりとその額の傷に自分の手の平を押し当てる。……ジュウと、まるで焼きごてを押し当てるような音がした。

 それが、傷口を塞ごうとする行為であるのは容易に理解できる。

 今、逃げ出さなければ、もうその機会は永遠にない…!

「あいつを倒せる…?!」

「無理ね。……あいつ、大悪魔の誰かと契約してるわ、不死身よ…!」

「それは愛ゆえにッ!! だから不死身なのさッ!!」

「あぁ、愛よ偉大なれ! 我らの祝福する者に不死身あれ!!」

「この赤い魔法の壁は破れる?」
「ロノウェさまも大悪魔ッ。私じゃ無理よ…!」

「窓から逃げられる?」
「窓もとっくに! ロノウェさまの結界で塞がれてるわ…!!」

「すごいわね、恋のために悪魔に魂を売った訳かしら。」
「よくもあんな大悪魔たちとこんなにも契約が…! あぁ、妬ましい…!!」
「……………………………。……装甲付与。……全属性防御、攻撃反応装甲付与。」
 その言葉に反応して、拳でなく、彼女の体自体が脈動するように赤く光る。

 ……レヴィアタンの攻撃が二度と通用しない防御力を、自らに付与する……。

「あいつ、何を言ってるの…?」
「……自己増強よ。エンチャントって言うの。……今のあいつは、私に二度と貫かせない防御力を持ち、その上、攻撃者にダメージ反射する力まで持ってる! ……もう、ニンゲンじゃないわ。バケモノよ…!!」

「なぁんだ。さっきと大して変わってないわね。」
「そうとも言う?」

「最初の時点から、勝ち目がないことに何の変化もないわ…!!」
「…………………………。…………痛かった。……でももう、…効かない。」
 朱志香がゆっくりと、べりりと、額に当てていた手を剥がすと、……もうそこに穴は開いていなかった。

 廊下の前後は結界で絶たれ、窓も封印されている。逃げ場はない。

「そこの部屋の扉、封印されてる?」

「うぅん、ただの施錠だわ。……でもただの部屋よ。窓はあるけれど、すでに封印されてるわ。つまりは密室、私たちの棺桶ってわけ…!」

「棺桶、上等だわ。鍵を開けて。……あぁ、妬ましいわッ、あんたにしか開けられないなんてッ!!!」
 レヴィアタンの杭は音速で飛び回り、その部屋の扉の鍵穴に突き刺さる。

 彼女の杭の先端は、杭ではなく、鍵になっていた。開錠と同時に扉が勢いよく開く。
 霧江たちはその部屋に転げ込み、そして素早く施錠した。

 そこは多分、蔵臼の書斎だった。
 落ち着いた調度品が、蔵臼が好みそうな高級感を醸し出している。
「施錠なんかしても、あいつは扉を一撃で打ち砕けるわ!! 霧江は自分で自分の棺桶の蓋を閉じただけよ!!」

「でもね、棺桶の中で私たちにトドメを食らわせたかったら、蓋を開けなければならない!」
「…………………?」

 朱志香はその霧江の言葉に、輝きなく瞳で、小首を傾げる。
「…………何を言ってんの…? ……その小さな部屋が、…どうして叔母さんを守ってくれると…?」
「確かにこの部屋は密室だわ。私たちの退路はない。でもね、あなただってこの部屋には侵入できないのよ。それが密室というもの!」
「……何を言っている……? そんなちっぽけな部屋の、……こんなちっぽけな扉一枚で、……どうして、私から逃れたつもりに……。」
 朱志香は物憂げに、理解できないという表情で自分の灼熱の拳と扉を見比べる。

 そしてゆっくりと、……脈動する赤い光を拳に宿らせる……。
 必殺の破壊力を生み出す重みを、自らの拳に何度も繰り返しエンチャントする。
「……こんな扉、……粉々にしてやる………。」

「出来るならね。やって御覧なさい。」
「き、霧江ぇええッ……!!」

 霧江は扉一枚を隔てて、悠然とそれを言い捨てると、人差し指一本で扉を押さえる。
 朱志香はゆっくりと、……灼熱を纏う悪魔の鉄拳を振り上げる……。
「……さよなら、霧江叔母さん……。」
「霧江ぇえええええええええッ!! …………ッ……、………………?!?!」
「……………これは………。」
 朱志香の拳は、ゆっくりとスローモーションで扉に打ち込まれた。

 それはまるで、映画などでよく、決定的なシーンの演出で見るような、そんなスローモーションだった。
 しかしそれは、演出ではない。

 ……本当に朱志香の拳が、……蜂蜜の瓶に沈むスプーンのように、……ゆっくりと飲み込まれるように、速度が鈍化したのだ。

 そんな拳は、もはや拳ではない。ただのノックに過ぎない。
「嫉妬するのよ、あなたに。」
「……………嫉妬……。」
「私は、恋に対する甘えと傲慢から18年、嫉妬の地獄を這ったわ。……だからあなたが妬ましいの。……あなたは私の忠告を受けて、恋を成就させて、美しい人生を歩むでしょうね……?」
「………………………、……はっ…。」
「……あぁ、妬ましいわ。女の、一番美しい時間を、あなたは私よりも18年も長く過ごせる。…あぁ妬ましいッ…!!」
 朱志香は何度も何度も鉄拳を扉に打ち込もうとする。
 だが、拳が扉に近付くにつれて、その速度はどろりと鈍る。

 打ち破るどころか、ノック程度にしかならない…!
「…………速度付与。……瞬発付与。……音速付与。」
「無駄よ、お嬢ちゃん。」
「……砕けろ…………!!!!」
 朱志香の鉄拳は、徹底的な速度付与によって、音速1225kmを得る。

 しかし、その速度を得るのに、朱志香が嫉妬した時間は?
 譲治と紗音の仲を嫉妬した日々が、約2年ほど?

 2×365=730日、
 730×24=17520時間。
 しかし常に嫉妬し続けたわけではない。

 紗音がたまに惚気る時だけだ。

 紗音のシフトが週に3日程度として、
 ÷7×3。
 一日中、惚気を聞かせるわけもない。
 その惚気が朱志香に尾を引くのもせいぜい1時間くらい?

 つまり1日の24分の1。

 17520÷7×3÷24=312
 (端数切捨)
 霧江の嫉妬した日々と時間は、157680。
 つまり、霧江の嫉妬の日々の0.2%にしか及ばない。
 音速1225kmも、500分の1に除算された世界では、時速2.45km。
「……わかる? ……あなた、恋も嫉妬も足りないわ。」
「………………ッッッ!!!」
 朱志香の音速の拳をもってしても、……霧江の世界では、子供の歩くスピード程度にしかならないのだ。
 朱志香は拳を扉に押し当てたまま、ぎりぎりと歯軋りする。

 それを扉の両端から見たなら、まるで霧江が、指一本で扉ごと押さえているように見えた…。
「さっすが、霧江ッ…!!!」

「ね? この部屋は密室でしょう? 朱志香ちゃんはせいぜい、ノックをすることは出来るけど、中の私たちには指一本触れることは出来ない!」
「ベアトリーチェの密室定義、ですな。」

「………何それ…。」

「こうなるとこの密室、ちと厄介ですな。密室殺人を行なうのはニンゲンには不可能。……それが行なえるのは魔法だけです。……朱志香さまが真に魔法を理解されない限り、打ち破れますまい。」
「もはや朱志香ちゃんに、私を詰めることは出来ない…! やがて時間は進み、私がいつまでも戻らないことに気付いた親族たちが屋敷を探し始めるわ。そしてあなたは観測される。魔女も魔法も、観測されたら消えるッ。………悪夢の時間は、もう終わりよ、お嬢ちゃん!!!」
「……く、……く…そ……………。」

「おや?! 朱志香がいきなり脱落なんてビックリだよ!!」

「あぁ、どうか頑張って! 愛しの嘉音のためにも!!」

「「さぁ朱志香、愛を信じてどうか奇跡を見せておくれッ!!」」
「訂正するわ。時間の経過を待つ必要さえない。……だってここに、内線電話があるんだもの。もちろん断線なんかしてないわ。……私は、この受話器を、……取るッ!! これがッ、私のッ、……チェックメイトッ!!!」
「………構築完了。………密室殺人。」
「……おや。……有効ですな。」
「………浸透付与。………打撃伝達、間接攻撃力付与。」
「え……………、」
 扉に押し当てた朱志香の拳が、赤く光り、そして白熱する…。
 朱志香は拳を振り上げもしなかった。
 ただ、扉に拳を押し当てたままだった。

 しかし、……朱志香の“殺人”は、“密室”に及ぶ……。

 書斎の扉の隙間から、鍵穴から、地獄の炎が破裂するように噴出した。
 室内の様子は朱志香の目にはわからない。

 ……しかし、灼熱地獄が室内を飲み込んだことが、こうして扉越しでもはっきりと理解できた。
「ぐ、………ぎゃ、…………が…、…………、」
 扉の向こうから、燃え盛る霧江の断末魔が聞こえる。

 灼熱の業火の中で死のダンスを踊り、……膝をつき、……倒れる音までを、朱志香はしっかり、聞き終える。
 朱志香はゆっくりと、……押し当てていた灼熱の鉄拳を、扉から引き剥がす。
「………そんなに嫉妬の地獄が恋しいなら。焼かれてろ。……嫉妬の炎で、永遠に。………嫉妬から学ぶものもあるだろうぜ。……だが、それは誇るもんじゃねぇし義務でもねぇ。…………やっぱりあんた、奢ってたぜ。……霧江叔母さん。」
「……お見事な、……密室殺人ですな。」

「後片付けを頼むぜ。………やがて見つかる遺体が黒コゲじゃ、あまりに申し訳がない。……綺麗にしてやってくれるか…。」

「かしこまりました、お嬢様。」
 ロノウェは蝶の姿に変わり、蔵臼の書斎に鍵穴から入っていく。

 ……そして灼熱地獄を終えた凄惨な部屋と、……変わり果てた霧江の残骸を、まずはどこから綺麗にしようかと腕組みして考えなければならなかった…。
「………………………………。……はあッ、………はぁ…。」

 朱志香はようやく、腹の奥底でずっと止めてきた息を吐き出す…。
 そしてようやくその瞳に、朱志香本来の、ニンゲンの輝きを取り戻す…。

 ……そして、…愛を貫くための、ゲーム盤の上の試練とはいえ、……自らのしたことに慄かなければならなかった…。
「……悪魔どもッ、これでいいんだろ?!」

「「えぇ、お見事です朱志香ッ! あなたの愛も本物だッ!!」」

「……………………。」

 譲治は乾いた拍手で朱志香を讃える。
 ……ベアトもおずおずとそれに従ったが、すぐに朱志香に一喝されて止める。

「……ゲーム盤の上の話じゃないか。そこまで悲しむことじゃない。」

「理屈じゃわかってるッ!! でも、だからって、……心の整理がつくわけがねぇだろッ!!」
「………お嬢様……、」

「嘉音くん、……私、……君のことが好き…! 諦められないよ…!! だから、示したよ、私の気持ち…! 私、…間違ってないよね? 間違ってないよね?! ぅ…、ぅわぁああああぁあああぁああ……。」
「……………お嬢様…。」

 泣きじゃくる朱志香を、…嘉音は静かに抱き締める。
 そして、彼女の示した決意に、自分も続かねばならないと自覚する…。
「何も間違ってないさ、君は。……そして人の心を残し、苦しむことも間違ってない。……僕は、そういうことに対し、少し君よりストイックだっただけの話さ。」

「……誰もが、譲治さまの境地に至れるわけではありません。……しかしどうあれ、お嬢様は兎にも角にも、試練を成し遂げられた。……お見事です。その決意の強さ、敬服します。」
「ふむ、そういうことであるな。譲治も朱志香も。見事やり遂げたことは同じだ。天晴れであったぞ、朱志香! ……今の“密室殺人”、魔女の妾も見惚れる、なかなかのものであった。」
 密室に篭城した霧江を、朱志香は“魔法”で殺した。

 あの瞬間、朱志香は密室殺人を“構築”し、それを悪魔に認められて、魔法に昇華させたのだ…。

「これで二人の試練が完了だわ!!」
「さぁ、次は誰が挑戦を?!」

「ベアトリーチェさまかしら?!」
「いやいや、紗音かもしれないよ!」

「うぅん、ここは嘉音の出番に違いないわ!」

「「さぁ、名乗り出てほしい!! 次は誰?! 誰が試練を?!」」
「…………………ん、」

「魔女がゲーム盤の殺人に臆してどうするというのか。奥手も、過ぎれば恋を殺すぞ。」
「………………………。」

「さぁ!! 次はッ、」
「誰が恋の殺人を?!」
「…………………。」
「………………っ。」
「…………ん、」
 残された3人は顔を見合わせる。

 ……もし、他の2人が、もう数瞬、手を挙げるのに躊躇うなら、自分が挙手しよう。

 ……3人は全員、そう思い合っていた。
 だから。3人の挙手は同時だった。

 ……愛する者が、すでに決意を見せている。
 続かないわけには、いかない。
 楼座の姿は客間にあった。
 小休止で散会した親族たちは、みんな一人になりたかったらしい。

 誰もが集まりそうな客間を、みんなが避けたためか、このゆったりとした温かな部屋を、楼座は独り占めすることが出来ていた…。
 だからといって、寛げているようには見えない。
 彼女の表情は憂いと疲れで、ぼんやりとしていた。

 食堂から持ってきた紅茶のカップは、すっかりぬるくなってしまっている……。
「……………………………。」
 ……心地良い静寂。

 楼座の心は、他の誰の姿もなくなって初めて、覚醒するのだ。
 四兄弟の会議では、いつも自分は年下扱い。
 何の発言力もない。

 しかしそのせいか、中立に思われているらしい。
 兄たちに同意を求められることが多く、まるで審判か裁判官のような扱いを受けている時もある。
「……それをうまく生かして、……私の望むように、会議を誘導しなくちゃ。」

 1億近くのカネを、何とか3月までに用意しなくてはならない。

 それが、“あの人”の仕事を応援するために背負った、私の精一杯の気持ちのはずだった。
 今は、……もう、よく、わからない。

 借金を無事に返済できたら、……彼は連絡をくれるのだろうか。
 ……冗談じゃない。
 今さら連絡なんかくれても、……こっちから願い下げよ。
 ……でも、………あなたは真里亞の父親なのよ……?

 せめて一度でいいから、……会ってあげて……。
「……愛というのは、………貫くのも、辛いのですね。」
「え?! だ、………誰………?」

 誰もいないはずの客間なのに突然、声を掛けられ、楼座はびくっとする。
 ……一体、いつの間に。
 嘉音の姿がそこにあった。

 いくら考え事をしていたとはいえ、……まったく気配にも気付けないとは……。

「……びっくりしたわ。…ごめんなさい、考え事をしてて気付かなかったみたい。……何?」

「いえ。………楼座さまを今、苦しめているのは、愛ゆえにです。……違いますか?」
「と、唐突ね。……何の話か、よくわからないわ。」

「……楼座さまは、真里亞さまの父親に、借金の連帯保証人を求められ、それを引き受けられました。」

「…………………、……。…困った子ね。……蔵臼兄さんが話してたのを、廊下か何かで聞いてたのね…。」
 ……確かに蔵臼は日中にこの部屋で、楼座が連帯保証人を引き受けたせいで、莫大な借金を背負っていることを看破してみせた。

 しかし、その相手が真里亞の父親だとまでは、言っていないはず……。

 どうして、……そこまでを、知っているの……。
「楼座さまは、とても聡明な方です。……連帯保証人を引き受けることが、どういう意味を持つか、よく考えもせず、引き受けたわけがありません。」

「……………籍こそまだだったけれど、……これから結婚する相手で、パートナーだと思ってた。私の名前がなければ借りられないお金なら、それに協力するのが、未来の妻の役目だと思ったのよ。」

「……未来は、来ましたか。」
「…………………………。」
 未来は、来なかった。
 だからいつまで経っても、……楼座は、ひとりぼっち。

 そしていつまでも、……真里亞に父親はいない。
 でも、時間は進んでいる。

 二人の結晶のはずだった真里亞だけは成長を続け、まるで、楼座の這う地獄を量る、生きた砂時計のようだった……。

 だから、真里亞の成長が、……辛い。
「……皮肉よね。……私はあの男のことを、何度も忘れようとしたわ。……でもね、忘れても借金は消えないのよ。」

 そんなことは当然だ。……だから、愛を忘れようと、忘れなかろうと、返済しなければならない。
「でもね、……こうも思うの。………私が立派に返済しきったら、……それは彼が私に与えてくれた、愛の試練に打ち勝ったという意味にもなるの。……結局は返さなくちゃいけない借金なのに、どうしてその結果、得られる愛を先に自ら捨てるの…? 返済してから考えても、遅くはないと思わない……?」
「………………………。」
 愛に苦悶する者にしかわからぬ、詭弁かもしれない。

 楼座も薄々は、自分が騙されたかもしれないことを悟っている。
 でも、見事、借金を返し果せたなら、……その内助の功を、彼は認めてくれるかもしれない…。

 その時に、愛が取り戻せるかもしれない。
 もしも愛を捨てていたら?

 ……借金が、“彼のくれた試練”が、何の意味もなくなってしまう……。
 そう、彼女には借金自体が、……愛を試す試練に見えているのだ。

 いや、そう見ようとすること自体が、……未だに未練を断ち切れず、過去に妄執している彼女の、愛ゆえの盲目なのかもしれない…。
 そしてその苦しみは今もなお、続いている……。

 少なくとも、……莫大な借金を返済して、さらに短くない期間を経て、……彼女が自らの想いに引導を渡せる日まで…。
「………これが、霧江さまの言う、……地獄なのか。」

「……そうね。……何の話かはわかりかねるけど、……私の世界が、地獄で満たされてることは、間違いないわ。」

「それは、どうやったら終わらせられるのですか…。」
「………さぁね。それがわかったら、……誰も恋の病に蝕まれたりは、しない。」
 それは重篤な病。

 ……時に生涯を蝕み、……近しい者にも伝染し、傷つける。

 その病は、今もなお、彼女を、………苛み続けている…。
「霧江さんの話が出たから言うけど。………彼女の話は、私にとって、希望、……夢なの。」

 男を寝取られても、彼女は18年間、辛抱強く待った。
 自暴自棄にならず、それでもなお留弗夫の側で支え、じっと伏して奇跡を待ったのだ……。
「真里亞はまだ9歳よ。………霧江さんが待った18年の、まだ半分じゃない。……それくらいで根をあげてたら、……彼女に笑われるわ。」

「……あと9年で、……奇跡が起こると思いますか。」
「…………………………。……それを疑ったら、おしまいよ。」
「………………………。」
「ある意味、私は亡霊なのよ。……私はすでに死んでいる。それに気付かず、生きている。」
「………決して来ない人を、永遠に待つ、亡霊……。」
「そうよ。………彼の夢を応援したいなんて甘えたことを言ったあの日に、私は多分、もう死んでいた。………やっぱり、あの日は後悔すべき日だったのかしら? 俺には夢がある。海外を巡りたい。このちっぽけな日本を飛び出して、必ず大物になって帰ってくる。……懐かしいわね…。」
 ……あの頃の私は、互いの途方もない夢を認め合うのが恋人同士だ、みたいな考えだった。

 だから彼も、私がデザイナーとして大成して、パリで新作を発表して、取材陣に揉みくちゃにされる、なんて夢を楽しそうに語って喜ばせてくれたわ。
 思えば、本当におかしな、……足に地がついてない日々だった。
 …………互いに互いを浮かれさせて、ふわふわしあってる感じ。

 だから、彼が日本を飛び出したいなんて言い出した時、私はそれを喝采して、応援を約束したわ。
 互いの高尚な夢を、口先だけで認め合うなんて、恋人同士の定番のピロートーク。

 でも、それに実際の行動が伴ったなら、………そこからは冷静に打算的であるべきだった。
「……私はあの日、彼を見送ったことを、長いこと、誇りにしてた。……うぅん、今も誇りにしてる。」

「…………………。……でも、後悔もしているんですね。」

「………そうよ。………あの日、泣き喚いて反対してたら、私は地獄に堕ちなかったかもしれない。……それを笑顔で見送ったのが、私の勝利? 違うわ。それはある意味、戦うべき時を自ら放棄した、不戦敗みたいなものだった。」

「…私はその負けを美化して、……男の海外への挑戦を笑顔で見送り、甲斐甲斐しく娘と帰りを待つ良き女の幻想に酔ってるだけ。………電話一本寄越さず、彼が教えてくれた住所への郵便も、転居先不明で戻ってくるのにね…。」

「………………………。」

「……ここが、地獄よ。………戦うべき時に戦わなかったことを、死ぬまで後悔する地獄。……私はその地獄に、娘まで引き摺り込んでいる。…………いっそ、誰かに殺されたい。……お前はすでに殺された、亡霊なのだと、宣告されたい。」

「…………恋は、……戦わなくちゃ、……地獄を這う。」

「……そう。恋は戦うもの。」
「勝って、得るか。負けて、死ぬか。」

「でもどうか死を恐れないで。」
「なぜならそれは、安らかな眠りだから。」

「「真に恐ろしいのは、…勝てず、そして死ねもしなかった、眠れぬ亡者たちの堕ちる地獄。」」

「……その地獄に、終わりはない…。」
「恋の戦いは、戦いもせず、死ねもしなかった者に、もっとも残酷なんだ。」

「……恋は当たって砕けろってわけだ。そういう討死は、……清々するよな。」
「人を最も苛む毒薬は、恋を腐らせて作るという。……その苦しみは、……どのような悪趣味な地獄の拷問をも、上回る。」

 それを知るから、……このような苛烈な試練であっても奮い立てと、……自らの分身でもある妹に、叱咤激励しているのだ…。

「…………わかります。」

 戦人さんに、いつか認めてもらいたいという気持ちが胸の中で疼く時、………胸の中に種があるのを、感じるから。

「……その種を、芽吹かせるも死なせるも自由。……でも、そのまま胸の中で腐らせれば、……きっとその毒は、私を永遠に苛む…。」

「それこそが、………我ら千年の魔女をしても最も恐れる、……世界で一番恐ろしい拷問だ…。」

「見届けよ、恋を愛を軽んじる者たちよ! この楼座の地獄こそが、」
「恋の種を芽吹かせる勇気を持てず、腐らせたる者が辿る末路。」

「「その苦しみは、自分の手では終わらせられない。」」
 ………え?

 ………今、……何か、赤い光が……?
「………………失礼しました。」
「……え…? ………何………?」
 今、何か、……不思議なものが見えた気がする。
 ……疲れてるのかしら、……多分、気のせい。
 楼座は冷め切った紅茶のカップを取る。

 すると、……その液面にひらりと、…………小さな、赤い薔薇の花びらが浮くのが見えた。

 ……薔……薇……………?
「………そのソファーは、楼座さまが幼少の頃、……好んで横になられたものと、聞いております。」
「………………………………、」

 それは、……薔薇の花びらではない。
 楼座の目から、……ぽたりと落ちる、……血の、雫。

 嘉音は、………楼座を、一瞬にして、………命の糸、一本だけを、美しく正確に切断していた…。
 楼座の体には、傷一つない。

 ただ、……目元から数滴の血の雫を、……零しただけ。

 苦痛も不安も、悩みさえも、……もう何もなかった。
 ゆっくりと、………ソファーに横になるように倒れる。
 それは、彼女が一番幸せだった日の、一番幸せな仕草の一つだった……。
「お休みなさいませ、……楼座さま。……あなたの地獄は今、…終わりました。」
 嘉音は戸棚にしまわれていた毛布を取り出すと、……それをやさしく、楼座に掛ける…。

 誰が見ても、……楼座は安らかに眠っているようにしか、見えなかった……。
 ……あの悪魔どもが語る、恋を巡る試練の戦いは、決して誇張なんかされていない。

 むしろこうして、恋に破れればそれは死だと、残酷ではあっても、決して誤魔化さない点において誠実だとさえ言える…。
「……これで、僕のノルマは終わりだ。……見届けたか、悪魔ども。」
「……し、……しまった………、」
「よくもママを殺したなッ!! よぐもッ、ママをッ、殺ぢだなぁああぁあおおぉわぁあああぁあああああああああッ!!!」
 マリアージュ・ソルシエールの双璧の魔女、マリア。
 魔女見習いなれど、その秘めたる力は在りし日のベアトリーチェさえ一目を置く。
 マリアにとって、楼座は黒き魔女であると同時に、……それでもなお、愛さずにはいられぬ母の依り代でもあるのだ。

 それを奪われた彼女の怒りは、もはや狂気にさえ達する。
「よくもママをッ、ママをママをママをッ!! うごががががががくかかかげげごがぁあああアぁあああァああぁ!!!」
 マリアの攻撃は感情に任せ過ぎた。

 だから数瞬の間、嘉音がすでに姿を消していたことに気付かず、すでにいない虚空に暴風のような攻撃を叩き付けていた。
 その間に、嘉音は壁を蹴り、壁を蹴り、跳んで、マリアの背後に…。
「……………あれ…ぇ…ッ、」

「……ノルマ以上の殺しは不本意だ。……でも、火の粉は払う…ッ!!」
「…………うりゅぅ。」
「お、……お前、……はッ……、」

「……外交官特権! ……僕とマリアを照準することを、許さない…!」

「しッ、……しまった………。」

 嘉音の手より伸びる赤い軌跡の剣が、たちまち霧散する。

 消えたものを、再び顕現しようと努力するが、それをマリアたちに振るおうとすれば再び、霧散してしまう。

 さくたろうの力により、マリアたちを攻撃の対象とすることが出来ないのだ。
「……いたァ。……いつの間に、そんなところに……。」

「うりゅぅ…。……マリアをいじめる人は、誰であっても許さない。」
「く、……くそ…ッ…!」

 マリアがようやく、嘉音の存在に気付き、ゆっくりと振り返る…。
 嘉音はなおも、剣を顕現させるのだが、させてもさせても、まるで電池切れの懐中電灯のように、頼りなく消えてしまう…。
「もう、……逃がさないよ……。……真里亞のママを奪った罪、………許さない…。……殺す。…ママがみんなを殺したように、無慈悲に、殺すッ!!!」
 マリアが吠えると同時に、客室全体が、真っ赤な魔法障壁の立方体で隔離される。

 嘉音を断じて逃がさない結界を、概念化した密室だ。
「……く、……そォぉおおおぉ…!! こんな、……ところで……ッ!」
 嘉音は自分の不運を呪う。

 悪魔の試練のノルマはこなせても、……ここで殺されたら、ゲーム盤から引き摺り下ろされてしまう…!

「………マリア。……ほどほどにね。」

「うん、ほどほどに。……ママよりちょっとだけ、手加減するよ。……くっひっひひひひっひ、はっははっはっははアっはっはははははははははひゃっはあぁあああぁあああああ!!!」

「……ッ?!?!」
「うりゅ、誰?!」
「……失礼します、真里亞さま…。 ゼパルさま、フルフルさまとの契約により、お命、頂戴致します…!」
「紗音、……邪魔を、……するなぁああああぁああぁぁぁあぁ!!」

「無駄だよ、紗音。……マリアは誰にも照準できない…!」
「はい。照準など、大それたことは致しません。……ただ私は、身を守るだけです。」
 客間の中央に立つ紗音の周囲を、円柱状の真っ赤な魔法障壁が囲む。

 それが輝きと厚みを増し、その半径を一気に拡大して部屋を飲み込む。
 それは、マリアを照準していない。
 紗音が身を守るために発揮している力だからだ。

 だから、さくたろうの力で霧散しない。
「………ね、……姉さん……。」

「お嬢様への気持ちはこんなところで潰えるの? ……しっかりなさい…!」
「ぅ、……ぐご、ご………!!」
「うりゅ…ぅぅ………ッ!!」
 もはや、紗音を中心としたシールドは部屋全体を覆い尽す。その力はマリアたちを部屋の隅へ押し潰す。

 皮肉にも、嘉音を逃がさないために張った密室結界と紗音の結界で、完全に押さえ込まれていた。
「…だ…め……、…逃げ……られない……。」
「……くっくくくく、くっひひっひひひひひひひひひひひひひ!! そっか、この部屋は密室なんだね…。……きっひひひひひひひひひ! ベアトの魔法を否定する探偵気取りには丁度いいかもしれない。」
「………チェックメイトです、真里亞さま。……よろしいですか?」
「うんッ、いいよ!! 潰して! ……きっひひっひっひっひっひっひィ!!」
「それでは、これにて…!」
 室内がシールドの真っ赤な光に完全に満たされ、……出力と圧力が限界まで上昇する。

 ……そして、シールドと自らの密室結界に挟み潰されて、……マリアとさくたろうは、その姿を失い、黄金の飛沫に砕け散って消える…。
「……ありがとう。……ここで消えるわけにはいかなかった。」

「こんなとこで負けてたら、諦めがつかないもの。」
「………そうさ。こんなとこで負けてたら、諦められない。」

「ゼパルさま、フルフルさま。私たちも共に試練を終えました。これでよろしいですか…?」

「やぁ、本当にお見事だね! 二人とも文句なしだったよ!」

「では、最後はベアトリーチェの番かしら…? おや、彼女はどこに?」
「もちろん、彼女の選んだ生贄のところにさ。」

「「さぁ、私たちもそこに行ってみよう!」」
 ……夏妃の姿は、自室にあった。

 蔵臼からは、もう休めと命じられたが、このような大事な日に、自分だけぬくぬくと眠っていられるわけもない。
 しかし、自分が興奮しやすい性質で、時折それが、夫の足手まといになっていることも、理解はしていた…。

 だから、……とても悔しいが、……どうしようもない…。
 もうそろそろ、小休止も終わって食堂に集まり、再び親族会議が始まる頃だろうか。

 夫はたった一人で、欲深な兄弟たちから、……右代宮家の名誉を守らなければならない。
 自分が側で感情的になれば、足を引っ張る。

 …静かにここで引き下がっているのが、一番、力になれるとわかっていても、………待つのは辛いことだ。
 夏妃は、自分の宝物を納めた小箱を、引き出しから出す。

 それは彼女の、秘密の小箱。
 中身は、価値あるものから、ただのガラクタまでいろいろ。

 ……しかし、そのどれもが、夏妃にとって思い出深い、大切な宝物だった。
 その中から、……小さな巾着袋を取り出す。
 その中身を手の平に出す。

 ………それは、嫁ぐ時に実家が持たせてくれた、お守りのようなもの。

 …魔除けの、霊鏡だった。
 その鏡には、自分の顔が映っている。

 ……いつまでも若くない。
 最近、自分の顔に、両親や祖父母の面影を感じるようになってきた。

 だからこうして、じっと鏡に映る自分を見ていると、実家の両親たちの近くへ、魂だけが帰ってきたような気がするのだ…。
「……お父様、…お母様……。……夏妃が不勉強なばかりに、……夫の支えになれません…。」

 鏡に映る自分の顔は、もちろんそれに答えたりはしない…。しかし夏妃は続ける。
「……夫を愛しているからこそ、私はここで待っています。……しかし、愛は寄り添うものと、私は思ってしまいます。……ここでこうしているのが、一番の協力になると、理屈ではわかっているのに、………そんな自分に惨めさを感じてしまうのです…。………辛いですね、……愛ゆえに、待つのは…。」
 ぽたりと、……鏡に涙の雫が落ちる。
 懐かしい、実家の日々の記憶が蘇る。

 今こそ自分は、……かつての両親の背中を、模範としなくてはならない…。
 帰りの遅い父が、いつ帰宅しても良いように、常に背筋を伸ばして待ち続けていた母。

 ……常に父を玄関で、正座で向かえ、どんな深夜に帰宅しても、必ず子供たちを全員起こして、並ばせて迎えた。
 当時は、厳しい母だとしか思わなかったが、………最愛の夫に留守を任されてなお、愛を貫けるその強さを、この歳になって初めて知った。
「その夫への愛ゆえに、……見知らぬ赤子を抱かされるのが、許されなかったのですね。」
「……ッ?!?!」

 突然の声に、夏妃はがばっと立ち上がり、部屋を見渡す。
 すると、………豪華なドレスに身を包んだ、西洋の貴婦人と言わんばかりの姿が、そこにあった。

「だ、……誰ですッ?!」
「……………………。」

 夏妃は困惑する。
 こんな人間、この屋敷にはいない。

 しかし初対面のはずなのに、なぜか見覚えがある気がするのだ…。

 プライベートな自室に、勝手に入り込んできた狼藉者に対する怒りと、正体不明の人物の登場で頭が真っ白になってしまい、……夏妃はその姿が、肖像画の魔女そのものであることに気付くのに、もうしばらくの時間を必要とした。
「……あなたが19年前のあの日に、見知らぬ赤子を殺めたことに、私は罪を問いません。」
「なッ、………何の、…は、…話ですか……ッ。」
 ベアトは生贄に、夏妃を選んだ。

 それは、“戦人”の仇だからだ。
 戦人自身の出生について、ベアトもよく知らない。

 ………しかし、前回のゲームのカケラを知り、戦人が本当に、19年前に夏妃に崖下へ落とされた赤ん坊の可能性があるかもしれないことを知った。
 夏妃を冤罪から庇うための、戦人の青き楔ではあるが、……それが戦人自身の告白であると考えるなら、ベアトにとって夏妃は、戦人に辛い人生を強いたであろう仇なのだ。
「夫への愛ゆえに、夫の血を引かぬ赤子を殺した罪を、私は愛ゆえに問いません。」
「何の話か、……わかりませんッ!! 出て行ってッ!! ここは私の部屋です!!」

「ならば。……私の愛ゆえに、あなたを殺すこともまた、問わないで下さい。」

 ベアトはゆっくりと両腕を突き出し、……何もない虚空を、両手で絞るような仕草をする。

 ……その、絞りは、……夏妃の首を、絞り上げる。
「ぐ、……ぁ、……ぇ………ッッ、」
 夏妃の踵が浮き、首元には紫の手形のようなものが薄っすらと浮かび上がる…。
 夏妃は懸命に、自分の首を絞り上げる何かに抗おうと、自らの首を掻くのだが、そこには何もない。

 ……だから傍目には、苦悶の夏妃が爪先立ちで、自らの首を掻き毟っているようにしか見えなかった。
「………愛し合う二人たちが、皆、決意を見せました。……私の、…戦人さんへの想いが、それに劣っているとは思いません…。……私が19年前のあなたの罪を咎めないように、……私も、自らのこの罪を咎めません…!」
「………ぇ………が………ぐ……………、」
 悶絶する夏妃が、さっきからずっと握り締めていたものを落とす。
 それが足元に転がってきたため、ベアトは何だろうと目線を落とした…。
 ……それは、……夏妃の霊鏡。

 それを覗き込んでしまった時、………バチンと電気が爆ぜるような音が聞こえた。
 その音は、見えない手に束縛された夏妃を解放し、そしてベアトを人形のように後ろへ転倒させた。
「げほッ、……げほげほ………ッ? ……………………?!??」

 夏妃は咳き込みながら、一体、何事かと状況をうかがう。
 ベアトは、立ち眩みで転倒して、後頭部を打ったかのような朦朧とした様子で、ゆっくりと立ち上がろうとしているところだった。
 その目は、白黒としていて、自分でも何が起こったのかよくわからないという風だった。
「………ん、……これは、…………何なんですか……。」

「これは、…意外だ……。蜘蛛の巣を触っても平気だったそなたが、……霊鏡は駄目だというのか…?」

「……わ、私にも何が何だか、……わかりません…。一体、何が………。」

 蜘蛛の巣や魔除けで火傷をし、霊鏡に力を封じられるなどの、人ならざる者の弱点は、姉のベアトだけが持つものと思われてきた。

 しかし、……どういうわけか、霊鏡に限ってはベアトにもその力を発揮してしまうようだ。

 ベアト自身も、霊鏡の何が自分に、これほどの威圧ある力を発揮するのか、理解できずにいた。
「………………ッッ!!」
 しかし夏妃は違う。

 肖像画の魔女という、この世ならぬ存在がたじろいだ理由が、……霊鏡の力であることをすぐに理解した。
 だからすぐに、這うように駆け出して床の霊鏡を拾った。
 そして、見せつけるように、それをベアトに突きつける…。
 ……ベアト自身は、未だによくわかっていないので、尻餅をついたまま、それをきょとんと、再び見てしまう。
 だから今度こそ、二人は完全に状況を理解した。

 ベアトは、霊鏡が自分に対し、忌むべき力を発揮していることを。
 そして夏妃は、霊鏡が魔女を退ける力を持っていることを。
「……ぐ、……ぅううぅ……!! 鏡が、……ど、…どうして……?!」

「それは、お前が邪な魔女だからですっ。………霊験あらたかなるこの霊鏡は、邪悪な存在の全てを退けるのです…!」

「………それを、……向けないで……ッ…!」
 霊鏡を突き出したまま、夏妃は慎重に間合いを詰めていく。

 突然、豹変した彼女に霊鏡を奪われないように慎重に、……だけれども、邪悪を追い詰めるために、確実に。
「あ、あなたが何者なのか、私にはわかりませんっ。……わかるのは、あなたは私を殺そうとしたこと。そして、この霊鏡に怯む、邪悪な存在であるということですっ。……退きなさい、邪悪め…!!」
 ベアトも、何が何やらわからない。

 ……どうして自分が霊鏡に怯まねばならないのか、自分でもわからない。
 しかし、霊鏡が放つ眩しい光を見ようとすれば、ベアトの瞳を鋭く刺す。

 なぜ恐れねばならぬのか理解できなくても、恐れなければならないものであることは、理解できるのだ。
 もはやベアトも、霊鏡は恐ろしい有害な存在であることを理解している。

 近付けられるに従い、……焼きごてを近付けられているような、痛みを伴う灼熱感を全身に覚えるのだ。目を開けようにも、鏡は眩しく痛く輝き、それさえも許さない…。
「ぅううぅ、…ぁ、……ぁああぁぁ………ぁ…、」
「さぁ、元の世界へ退散なさい、邪なる者よっ! この右代宮夏妃、邪悪に対して一歩たりとも怯みはしませんっ!」
 ……だ、……だめ………。
 ……どうして……?

 どうして私は、……こんな古ぼけた鏡に、こんなに………。
 ここで、……負けたら、………私だけが試練に、………脱落してしまう……。
 私だって、……譲治さんや紗音さん、朱志香さんや嘉音さんのように、………自分のことを戦人さんに認めてもらって、……大切な存在だと思ってもらいたい気持ちがある…。

 それに、…ようやく素直になれたのに、………私だけが、……………こんなところで…………。
「諦めちゃうの?! あなただけが?!」

「信じるんだ! 愛の奇跡は、必ず起こる!」
 ……私は、………戦人さんを、……愛してます…。

 戦人さんに振り向いてほしい。
 そして私の気持ちを認めて、受け取ってほしい……。
 お父様と呼んで尽くしていたのは、……親に対する奉仕ならば、それが無償であるのが当たり前だと、諦められるからでした…。
 それは、私自身を騙すための、欺瞞です……。

 ……私は、……戦人さんを愛しています。

 そしてそれを認められたい。
 認めます。
 もう誤魔化しません。

 ……私は、戦人さんを愛し、そして愛してもらうために生まれてきたのです………。
「……だから、………こんなところで、………負けられないんです…ッ……、」
「退散なさい、邪なる者よっ!! ここにあなたの居場所は存在しませんッ!」

「ぅ、……くううぅ…!!!」

 自身の決意が、もはや全て遅い。

 その決意が、最初からあったなら、……怯むことなく直ちに夏妃の息の根を止めていただろう。

 それがあやふやだったから、夏妃を殺すのに手間取り、……このようなことになってしまった。
 でも、もう決意した。

 戦人さんを愛したい。愛してもらいたい。
「……だからここで、負けられない…ッ! 戦人さんのために私は、……生まれてきたのだから…ッ!!」
「そう、それが、」

「聞きたかった。」
「………あッ…?!」

 室内を激しく甲虫が跳ね回るような音が聞こえたと思った次の瞬間、夏妃が突きつけていた霊鏡が弾き飛ばされる。

 それは床を転がり、……激しく室内を飛び回った杭が、激しい音と共に貫いて砕いた。
「傲慢のルシファー、ここにっ! ……久しぶりの獲物が古ぼけた鏡一枚だなんて、私を愚弄するにもほどがあるわっ。」
「………え?! あ、……ルシファー…さん……?」

「ベアトリーチェさま、試練の遂行を…! 逃げられます…!」
「だ、……誰かッ!! 誰か来て下さい!! 誰かぁあああぁあぁ!!」

 頼みの綱の霊鏡を割られ、さらにおかしな悪魔が増えたとあっては、夏妃も逃げ出すしかない。
 しかし騒ぎになって人が増えれば、反魔法の毒でベアトが焼かれる。

 今だけがチャンスなのだ。
「あ、……ありがとう、ルシファーさん…! …………か、覚悟っ、右代宮夏妃…!」

「………ッッが!! ぐぐ、……………く……ッ、」
 ベアトは再び、虚空を絞る。

 今度こそ、逃がしはしない。

 彼女を弄ばないためにも、苦しみを直ちに終わらせなければならない。……でも、……力が、……足りない……。
 夏妃は首を掻き毟りながらも、この部屋から逃れようともがく。
 ……震える手が、扉に、……施錠に伸びる。
 密室は、魔女を魔女たらしめる定義の一つ。
 施錠が解かれるだけで、反魔法の毒はその濃さを多少なりとも増す。
 密室の状態でこれが限界のベアトにとって、もし夏妃が施錠を開けたら、……一気に力が衰え、きっと彼女を廊下に逃がしてしまうだろう。
 力が拮抗する。しかし、わずかに夏妃の力が上回り始める…。

 生ける者が生きようとする力は本来、魔法の力よりも強いのだ。

 無論、ベアトも渾身の力を振り絞っている。しかし、ほんのわずか、……夏妃が勝る……。
「………充分だ。……ルシファー、やれ。」
「ぎょ、御意っ!」
 ルシファーはその姿を杭に変え、夏妃の霊鏡を叩き落した時のように、激しく室内を飛び回る。……そして、夏妃の額を一撃した。
 夏妃は、……ゆっくりと崩れ落ちる。
 それを見届けてから、ベアトも床に膝をつき、荒い息を何度も吐き出した。
「ねぇ、ゼパル! これってありなの? ベアトリーチェは自分の力だけで試練を成し遂げていないわ?!」

「そうだね、フルフル! 確かに試練は、誰の助けも借りずに成し遂げなくてはならない!」

「でもね、ひょっとしたらそれには例外があるんじゃないかしら?!」

「「愛する二人は、互いで一人だもの! これは手助けじゃない!」」
「………ば、……戦人さんっ……。」

「たかだか第一の晩から、はらはらさせるな、お前は。」

「も、……申し訳ございません…。お言い付けを守らなくて…。」
「お言い付け?」

「……その、………部屋で大人しくしていなくて……。」

 ベアトが申し訳なさそうに俯く。
 ……それを見て、戦人もばつが悪そうに頭を掻く。

「それを言ったら俺も、……申し訳なかった。……言葉を選ばなかった。」

「い、…いいえ、……お父様、……いっ、いえ、…戦人さんは何も悪いことはありません…。」

「いいぜ、好きに呼べばいい。」
「え………?」

 戦人が新しきベアトに向ける表情には、いつも険しさがあった。

 しかし、今の戦人には、それがない…。

「……確かに、かつてのお前は俺を戦人と呼び付けで呼んでいた。……俺は最初、お前にそれと同じ呼び方を求めて、押し付けていたかもしれない。……しかし、そんなのに意味はないんだ。お前はベアトだが、お前は、お前だ。………好きに呼べばいい。」

「ば、………戦人さん………。」
「そうだな、その呼び方がいいな。……さすがにお父様は、俺の趣味じゃねぇぜ。」

「…は、………はいっ…。」

 それまで、戦人の名を呼ぶことさえはばかられていた。

 呼び付けで呼ぶ事を求めていると知っていても、とても今のベアトには出来なかったし、………もし出来たとしても、もっと戦人を傷つけたかもしれない。

 しかし今、……彼女は、名を呼ぶ事を許された。

 それがどれほど嬉しいことだったかを語る必要は、……彼女の瞳を見ることが出来るなら、あるまい…。

「ゼパルとフルフルに聞いた。……おかしなゲームが始まっているようだな。」

「は、はい…。勝手なことをしてすみません……。」

「いや、いい。そういう無軌道で何を始めるかわからないところも、実にお前らしい。……それにその、…まぁ、ゲームの趣旨も聞いてる。二人一組で挑むのが正しいことになってるらしいな。」

「えぇ、そのとおりです、バトラ卿!!」
「もしも見事、我らの試練を勝ち残れたなら!」

「「我らはあなた達二人を祝福し、魔法の奇跡を授けましょう!」」
「こいつらが、ベアトの黄金蝶のブローチに力を与えてたらしい。だから、その効果は保証済みってわけさ。………俺とお前の腐れ縁も、もうずいぶんになる。たまにはこういう遊びがあってもいいだろうぜ。」

「……戦人さん…………。」

「おや、聞いたかいフルフル! バトラ卿も試練に参加するようだ!!」

「驚くには値しない! だってこれは最初からわかっていたことだもの!」

「「ようこそ我らの試練へ、バトラ卿! ではあなたは誰を生贄に?!」」

「……俺の仕事は、すでに終わってる。確認するといい。」
「かしこまりました、バトラ卿! さぁ、フルフル、確認してこよう!」

「えぇ、そうしましょう! でもゼパル? これで愛し合う6人はみんな試練を成し遂げてしまったわ? 次はどうすればいいかしら?!」

「「6人の覚悟は本物だ! さらに次の試練で試すとしよう!」」
 賑やかな二人の悪魔は姿を消す。

 それは、さっそく戦人の殺した生贄を確認に行くようにも見えたし、……ようやく、互いの顔を見て話が出来るようになった、戦人とベアトを二人きりにするために姿を消したようにも見えるのだった……。
「……ここまでの物語は、如何ですか……。」
 不意にそれを聞かれ、縁寿は、はっと我に帰る…。

 そして、彼女の物語に自分がずっと没頭していたことに気付き、ちょっぴりの敗北感を覚え、わざと不機嫌を装った。
「あ、……愛の試練云々で巧みに誤魔化してるけど、ちゃっかりと6人が死んで、第一の晩を構成してるわ。うまいものね。」

「ありゃ、本当だ。こいつぁ気付かなかった。」

 一本取られたとでも言わんばかりに、天草が手を打つ。
 私より先にそれに気付いたくせに、道化を装う。
「……愛し合う恋人たちの数が、たまたま6人だっただけのこと。それが第一の晩とうまく合致したのは、偶然半分、様式美半分。……その方が運命的で面白い。」

「人間は、無意味な2つの事象を、無理やり関連付けようとする悪癖がある。それを運命的と読み解かせるのが、読み物の“騙し”でしょ。」

「お嬢は、ディステニーとかミラクルとか、そういうのに冷たいタイプらしいですなぁ。」

「UFOと同じよ。誰もが知ってるけど、誰も見たことないものだわ。」
「そいつぁクールな例えだ。」

「……と。いつもの私なら、愛だの幻想だのは、ミステリーには不要な無駄なシーンねとバッサリ行きたいところだけど。」

「……それは小此木さんに否定されたわ。そういう、愛のない見方だけでは、真実に迫れないってね。」

「あぁ、小此木の旦那の殺し文句ですかい? 愛がなければ視えない?」

「それそれ。……人の家族を、物語の中で勝手に殺すことに対する怒りは置いておいて。……あえてこの物語を書いた八城先生に敬意を表して言うなら、その描写には、意味があることになる。何しろ、これだけの文章量を割いて、さんざん、愛だの試練だの語ってる。……つまりこれが、この物語のテーマであり、キーワードだってことになるわ。」
「……おや。……赤インク以外で書いた文字は全て読むに値しないとまで言い切る御仁も多いというのに。……光栄なるかな、人の子よ。黒い文字も読んでくれて。」

「物語は、書き手が何かを伝えるために書くものよ。そしてそれはどういうわけか、直接書いたら無粋という、奥ゆかしい面倒な作法がある。………愛がなければ真実に至れない云々という描写は、これまでの作品にも頻出するわ。それがこの新作ではさらに顕著。……書き手が一番伝えたくて、考えて欲しいのはそれ、ってことになるわ。」
 ……思えば、ベアトは初めて登場した頃から、愛を語るシーンは多い。
 紗音の前に初めて姿を現した時も、世界の一なる元素は愛云々と、朗々と語った。
 そして与えた黄金蝶のブローチもまた、愛を司るものだった。

 愛の種を蒔き、拗らせるのは楽しいと言い切り、紗音が決別した時の口論もまた、愛を問い合うものだった。
 ……戦人との交流が盛んになってからは、しばらく、愛を語る話は鳴りを潜めるが、……“愛がなければ視えない”とする、魔法の定義は繰り返された。
 そして、ベアトが廃人のようになった前回の物語では、まるで戦人とベアトが互いを認め合う好敵手か、あるいはそれ以上の関係があるかのような演出が目立った。

 最後には、戦人は何かの記憶を取り戻し、ベアトに対する心象を完全に反転させている。
 ……そして、今回。

 初めからここに至るまで、ずっと繰り返し語られるのは“愛”だ。
「あなたが書いた物語は“愛”が何度も繰り返される。でも、それは真里亞お姉ちゃんの主張でも、ベアトリーチェの主張でもない。……八城十八の主張だわ。」
「……そうです。それこそが、私が語りたいこと。そして、私なりの“答え”なのです。」

「答え? ……じゃあつまり、12年前の事件は全て、おかしな悪魔の、愛の試練で引き起こされたと?」

「馬鹿馬鹿しい。私はあんたの恋愛小説を読みに、ここまで来たんじゃないわ。……私が知りたいのは、あんたが至ったと自称する、真実よ。」
「……愚かなるかな、人の子よ。…これだけ文章を割いて、まだ伝わらないというのですか。」

 八城は、明らかに見下すような目つきで、肩を竦める仕草まで見せる。
 挑発されているのは明らかだった。

 ムカつくなら出て行けという意味だろうし、自分の高尚な作品を読んで、理解できないか、する気もないなら、それも出て行けという意味もあるだろう。
 ………普段の縁寿ならば、もうとっくに短気を起こし席を立っているだろう。
 しかし、……縁寿にはそれが出来なかった。

 人の家族の運命を、作中で弄んでいることに不快を覚えながらも、……ここまで物語を読み進め、別の確信も覚えつつあるのだ。

 ……彼女の信奉者たちが認めるように、……確かにこの物語は、……ベアトリーチェが記した物語と同じ気配、同じ匂いがすると。
 確かに書き手は異なる。

 しかし、本当の真実、真相に至っているからこそ、同じ匂いが宿るのだ…。
 縁寿はそれを、認めつつある。

 ……八城十八は、……ベアトリーチェの真実への到達者であり、………無限に広がる、猫箱の平行世界を書き足すことの出来る、ベアトリーチェと同門の、“無限の魔女”なのだ…。
「……ベアトリーチェの真実に辿り着いた者ならば。……私でなくとも、新たな物語を紡げるでしょう。……今回の原稿を以ってきっと、私以外にも真実に至る者が必ず現れる。………その者もまた、新たな物語を紡ぐ資格を得るのです。」

「どんどん無限の魔女が増えていくわ…。」

「そう。そして、何人もの無限の魔女たちが、ベアトリーチェの猫箱の物語を増やして行く。……増えれば増えるほど、また新たに真実に至る者が現れる…。……そうすることで、一番最初の無限の魔女、ベアトリーチェが、あれだけの枚数の手紙に物語を記してボトルに詰めて海に投じた労力が初めて、報われるのです…。」

「……………………………。」

「……あなたは私に怒りの言葉をぶつけ、席を立つことも出来た。しかしそれをしませんでした。………なぜ?」

「悔しいけれど。……あんたの物語の中に、何かの真相、もしくはヒントがあることを、認めつつあるからよ。」
 私なりの見方は、すでにしている。
 でもそれじゃ、片目で見ているに過ぎない。

 私と異なる見方も受け入れ、視点を増やさなければ、真実を立体視は出来ない。

 それが、私の解釈する、“愛がなければ視えない”、だ。
「それでよい、人の子よ。……右代宮家の最後の生き残りであるあなたが、真実に至り、無限の魔女になることを、運命も待ち望んでいるでしょう。……私という存在など、あなたという真の継承者を覚醒させるための、ただの道標に過ぎないのだから。……エンジェ・ベアトリーチェ。」
 彼女が何を言ってるのか、たまにわからないけれど……。
 しかしそれでも、彼女は何かを知っている。

 あるいはひょっとすると、……彼女が自称するように本当に、真実にさえ、至っているかも…。
 ……つまり私は、ベアトリーチェが残した2本のメッセージボトルで真実がわからず、……さらにその後、ヒントの物語を重ねられているわけだ。

「これは、……ヒントという名の挑戦であり、挑発なわけだわ。」
「………如何にも。」

「上等じゃない。……あんたが辿り着いたという真実を、私も掴み取ってやるわ。……やはり私は、ここに訪れるべきだったんだわ。」

「その通り。……未だ至れぬから、私が招いたのです、人の子よ……。」

 あなたに視える真実と、私に視える真実を重ねなさい。

 あなたが片目でものを見るように、私もまた片目で見ている。

 私もあなたを得て初めて、両目で真実を視ることが出来るのだから。
「ふああ、……ああぁぁ…。よっぉやく、第一の晩が起こりましたね。つくづく眠い展開でした。」

「……片目に目やにがついてるぜ。」

「え、ど、どこにッ…。……い、いい加減なことを言わないで下さいっ。」
「……ふん。お望み通り、始めるぜ。……まずは第一の晩だ。」
 ベッドの上でまどろんでいたヱリカは、扉をノックされているのに気付くのに、しばらくの時間を掛けねばならなかった。
 時計を見ると、横になってから大して時間は経ってなかった。
「………はい、どちら様ですか。こんな時間に、探偵の部屋をノックするからには、相応の理由はあるんですよね…?」
「そうだ。……今回のゲームを始める前に一つ、宣言があります。」

「あぁ、例の探偵宣言とやらか。好きにするがいいぜ。」

「いいえ、その逆です。……勝負のレートを上げようということです。」

「何々? 面白そうなことを言い出すじゃない。どういうことよ?」
「……簡単な話よ。前回のゲームは戦人が一本取ったわ。だから今回、ヱリカが一本を取ってもイーブンにしかならない。」
「前回のゲームは、引き分けだったのでは…。」
「勝って当り前のゲームを落としたのよ? あんなの負けでなくて何だと言うのよ。ねぇ、ヱリカ…?」

「は、はいっ、我が主。私が無様を晒さなければ、勝てて当然のゲームでした…。」

「……ははぁん、なぁるほどぉ? つまり今回、わざと探偵宣言を出さないことで、わざと不利に戦い、それでも勝って見せちゃって…! 前回の負けを、帳消しどころか大逆転にしようって魂胆ね?」
「ば、……戦人さんの渾身のゲームに、そんなおかしなハンデをつけて戦うなんて…。身の程知らず以前に、失礼ですっ…。」

「……そうだな。むしろ、負けた時の言い訳にするための保険にすら聞こえるぜ。」
「確かに、そういう見方もあるわね。勝てば大勝利。でも負ければ言い訳可能なんて、ちょっとヱリカ側にムシのいい話だわ。」

「大丈夫よ、ちゃんと賭けるものは公平だわ。……今回のゲームに、探偵宣言なしのニンゲンで勝てれば、戦人たちの魔女幻想は粉々の再起不能。……でも逆に、ヱリカが負けるようなら、このゴミクズ探偵は忘却の深遠に、最悪のカケラと一緒にブチ込んでやるの。」
「…………………………。」

「……ね? 公平でしょう? 探偵という超人でなく、ただのニンゲンが魔女幻想を打ち破るという最高の勝利。……それと引き換えに自身の破滅を賭けてるわけ。私はかつてのベアトとあんたのゲームみたいに、ダラダラとぬるいゲームを繰り返されちゃもう退屈なわけ。……だから勝負のレートを上げて、一気に勝負をさせるわけ。」

「……まぁ、確かにそうね。

……今回のゲームを、戦人が通しちゃったら・・・・・・・
ベアトのゲームに戦人が“勝利”したことになり、ゲームは終了してしまう。……ある意味、逃がすことの出来ない決戦だものねぇ…?」
「…………………。……言い分はわかった。……ヱリカはそれでいいのか。」
「………え、……えぇ、もちろんですっ。……前回の敗北で失った、主よりの信頼を取り戻すために、…わ、…私は自分の破滅すらも賭けるのですっ…。」

「お前の意思なのか…。」
「………っ………。」
「……………………。」

「…………どうしたの、ヱリカ? 答えて上げなさい…?」
「と、………当然ですっ。私の意志ですっ。……私は、絶対に負けません…。……探偵宣言なんかなくても、……あ、…あんたを必ずっ、……打ち破って見せます…!!」
「…………戦人さん………。」

「………………………。……いいだろう。お前がそうしたいというなら、その勝負を受けてやる。」

「………………ッ、……あ、ありがとうございます。受けたことを、必ず後悔させてやりますから。」
「まぁ、思えば戦人だってニンゲン側だった時はずっと、探偵権限なんて便利な力は一切なかった。許されてたのは青き真実と復唱要求だけ。」

「そういうこと。ある意味、前回のゲームの方がアンフェアだったわけだわ。………それで勝ちを落とすのだから、それは負けとまったく同じ…。」
「………………………。」

「好きにしろ。お前が探偵宣言をしたくなったら、いつでもすればいい。……今はそれを保留していると理解しておく。」

「誰が、……宣言なんかするもんですか……。あんた程度の相手に……。」
「……………………。」

「では始めなさい、二人とも。私の退屈は、もう始まっているわ。」
「……お任せを、我が主…!! 必ずや魔女幻想を打ち破ってご覧に入れます…!」
 ヱリカの部屋をノックしたのは、譲治と朱志香だった。
 戦人と真里亞が部屋に来ていないか、というものだった。……もちろん、来ているわけもない。
「ずいぶん前に、下に飲み物を取りに行くと言って下りたきり、戻らないんだ。ひょっとして、ヱリカちゃんの部屋に来てるかなと思ってね…。」

「来るわけないです。……屋敷にでも行ったんじゃないですか?」

「屋敷の、使用人室や食堂に電話してるんだけど、誰も出なくて…。」
「……あなたたちはここに居て下さい。私はちょっと屋敷の様子を見てきます。」

「あ、危ないよ、こんな時間に。」
「この閉鎖された島に、不審者がいるはずもないじゃないですか。いとこ部屋とやらに居て下さい。何かあったら連絡しますから。ゲストハウスの使用人室の人たちにも、ゲストハウスを出ないように伝えて下さい。ではっ。」

「ちょ、ちょっとヱリカさん…!!」
「…………変わった子だね。」

 ヱリカは一方的にそれだけを告げると、階段を駆け下り、外へ飛び出していった。
「……第一の晩は、夜が明けてから発覚がパターンでしたが、今回は即勝負と来ましたか。……ゲストハウスで事件は起きていない。となると、惨劇の舞台は屋敷ってことになりますね…。」
 ヱリカは傘を差しながらも、びしょ濡れになりながら疾走する。
 顔を伝う雨粒をぺろりと、不敵に舐めながら……。

 ……ヱリカは今、最高に活き活きとしていた…。
 前回のゲームの記憶によるなら、屋敷の玄関は、親族会議の開始とともに施錠される。
 しかしながら、今回は施錠が開いていた。

 ……誰かが施錠を開けたのか、あるいは施錠をしなかったのか、出来なかったのか。
「ま、考えても無駄ですね。そんなの、ゲームマスターの気まぐれかもしれませんから。」
 玄関に入ると同時に、客間の扉が荒々しく開いた。
 そこから飛び出してきたのは、郷田の巨体だった。
「おや、こんばんは、郷田さん。何かございましたか?」

「あ、あわわわ、あわわわッ!! け、警察…、救急車を…!! あわわわわわ!!」

 本当にステキでマヌケな顔だわ。第一発見者はそうでなきゃ。

「どうか落ち着いて下さい。台風の孤島で、どうやって警察と救急車が来てくれるって言うんです? どうせ電話は不通にされてるんですから、落ち着いて下さい。」
 客間の中からは、蔵臼や留弗夫たちが騒ぐ声が聞こえる。
 彼らのその取り乱す様子は、まさに第一の晩の幕開けを告げていた……。
「それでは、死者と現場、状況の再構築をお願いします。」

「……小休止に出た人間が戻らないので、大人たちが客間へ行ったところ、扉が内から閉ざされて開かなかった。後にわかるが、客間内の帽子掛けが観音開きの扉に、内側からかんぬきにされていた。」

「扉は内から閉ざされ、そして窓も内側から施錠と言いたいわけですね…?」

「そういうことだ。……外に回り、窓から客間内を見たところ、楼座がソファーに不自然な格好で横になり、額から血を流しているのが見えた。……そこでガラスを割って客間に入り、他に真里亞も、壁際に血まみれで倒れているのを発見した。」
「……なるほど。それは大騒ぎですね。他の現場は?」

「ヱリカが屋敷に入った時、玄関が施錠されていなかったのは、この客間を外から確認するために出入りがあったからだ。……その直前までは施錠されていた為、他にも姿を消した人間たちが、屋敷内のどこかで倒れている可能性があるとして、大人たちは今、屋敷中を探し回っている…。」

「先ほど、長々と見せていただいたゲロカス妄想での犠牲者と死んだ場所は、実際にも同じですか?」

「……同じだ。」
「客間には楼座と真里亞。それから、……夏妃が自室で、霧江が蔵臼の書斎。絵羽は薔薇庭園、……いえ、貴賓室に移動させたんでしたっけ?」
「そうだ。絵羽の遺体は貴賓室で見つかる。」
「これで犠牲者5人ですね。おや、第一の晩には1人足りない。6人目は誰で、どこです?」
「……ッ?! 旦那様! この部屋にもチェーンが…!!」

「切断しろいッ!! 犯人が隠れてるかもしれねぇ!!」
「郷田、やれ!」

 留弗夫と蔵臼は、金蔵の秘蔵コレクションの、あのウィンチェスター銃を持ってきていた。

 そして番線カッターを持つ郷田に、チェーンロックを切断しろと口々に叫ぶ。
 屋敷内の各所で、次々に犠牲者が発見されていた。

 妻を失った男たちは犯人の姿を求め、怒り狂いながら屋敷中を探しているのだ。
 そこは、客室だった。

 以前は親族たちを泊める部屋となっていたが、ゲストハウスが建ってからはあまり使用されていない部屋だ。
 そんな、忘れられた部屋が、内側からチェーンで閉ざされている…。
「……んんん、………えいッ!!」
 チェーンを切断すると、留弗夫が郷田を突き飛ばして、室内に飛び込む。
「誰が居やがる?! 出てきやがれ…!!」
「ベッドに誰かいるぞ…!」
「兄貴、明かりを…!」
 蔵臼が壁のスイッチを押すと、………客室が明るくなり、ベッドの上に横たわっている人物の姿を浮かび上がらせた…。
「ば、……戦人……ッッ!! お、……お前、……どうして……こんなところに……ッ、」

 留弗夫が、膝から崩れ落ちるように、……戦人の遺体に覆い被さる。
 悲しく、そして狂おしく泣き叫ぶ彼に、……掛けられる言葉などない。

 ……彼は一夜にして、…妻も息子も同時に、失ったのだから。
 その間に蔵臼は、洗面所と窓の戸締り、クローゼットの中など、誰かが隠れていないかを探したが、誰も見つけられなかった…。
「戦人ぁ…、戦人ぁああぁ……、畜生ぉおおぉ……ぅおおおぉおぉおお……。」

「お、……お気の毒です……。」
「……信じられんことだが、……この部屋も、……密室だ。」

「え、……えぇ、またですか…?!」

「そうだ……。霧江さんのいた私の書斎、夏妃の自室、絵羽の貴賓室、楼座親子の客間。……そして、この戦人くんの客室。……全てが、密室ということではないか…。……わけが、…わからん…。まさか、自殺だとでも言うのか…?!」
「そんなことあるもんかッ…!! これが、どう自殺だってんだ?! ぅおぉおおおぉおぉおおぉ…、戦人ぁああぁあぁ……。」

「おや。……これは意外でした。まさか6人目は、あなた自身とは。」
「たまには自分殺しも面白いもんさ。」
「そして、全ての現場はいずれも密室です。……魔法以外では成し得ない殺人です。」;<ベアト

「ふん、それを暴くゲームじゃないですか。…即ち、魔法以外で成し得なければならない殺人というわけです。……だって、本当に魔法でしか出来なかったら、それってゲームが成立しませんから。」

「……面白い考え方だな。……なるほど、確かに俺たちのゲームは、そういうゲームだ。」
 このゲームはフェアだ。

 魔法で起こしたと主張する不思議な事件を、魔法以外で説明するのが目的だ。

 それが出来ないなら・・・・・・・・・、ゲームじゃない。

 即ち、ヱリカの言う通り“魔法以外で成し得なければならない殺人”というわけだ…。
 ……裏を返すと、魔女側には義務があるわけだ。

 魔法など使わず、

トリックで事件が再現可能・・・・・・・・・・・・であることが。
 それをニンゲン側が看破できない限り、どんな魔法も幻想も、許される。

 ……つまり、魔法で密室殺人を行なうには。

“ニンゲンの手で可能な事件を作らなければならない”、ということだ。
「………今ならわかるわ。聖ルチーアで、ムカつくクラスメートたちを殺せと七姉妹に命じた時、……どうして彼女らにそれが出来なかったか。……そして、マモンが言った意味が今ならわかるわ。」

「“魔法は、自らの手で成し遂げられることしか、出来ない”、ということ…、か。」
 あの時。私に、クラスメートたちを殺す決意があったなら、……いや、違う。
 あの時。私が、クラスメートたちを殺すことが出来たなら。いや、遂行できたなら。

 ……煉獄の七姉妹たちは、殺人を遂行できただろう。
 私に出来ることしか、遂行できない。

 ……いや、違う。
 私が遂行したことを、“魔法”に、変える。
 もっとも、あの教室には大勢の観測者がいたから、それは無理だったろう。……真里亞お姉ちゃんたちの言うところの、反魔法の毒に焼かれる、ということだ。
 しかし、……あのクラスメートたちを、観測者のいないところに呼び出し、……私が殺人を遂行したなら。

 その時こそ、“煉獄の七姉妹は、魔法殺人を遂行できる”ということだ…。
「……魔女は魔法を以ってしても、自らに出来ないことを出来ない。……自らに出来ることのみ、魔法で“装飾”できる。」

「……面白きかな。……魔法を使わずして成し遂げる者が、魔法を語り、魔女を名乗るのだから。」
「このヱリカとやらは、それを初めから理解している。……だから、絶対に魔女に屈しない。…絶対にトリックで説明できるという信念を持ってる。かつての戦人にはそれがなかったから、これまで、ああも翻弄されてきたというわけだ…。」
「……このルールを見破られたら、魔女に勝ち目はなくなるわ。……だから、それを見破られる前に、相手を屈服させなくちゃいけない。……長引けば長引くほど、……そしてヒントを与えれば与えるほど、……魔女は圧倒的に不利になっていく…。」
 また堂々巡りの思考。

 ……どうしてベアトは、負けるまでゲームを長引かせたのか。

 ………………………………。
 大勢の犠牲者が出て、屋敷は未だ混乱を極めていた。

 秀吉たちは、ゲストハウスの子供たちが心配だと、ゲストハウスへ向かったようだった。

 蔵臼と留弗夫たちは、ホールで今後をどうするか話し合っている…。
 その混乱の一瞬の空白をついて、………ヱリカは屋敷中を駆け回っていた。
 殺人現場を確認するためである。
 本来ならば、探偵権限を持つヱリカは、堂々と心行くまで現場を検証する権利を持つ。

 しかし今回は、その探偵権限をまだ行使していない。……その為、客人という名の部外者に、殺人現場の検証が許されるわけがないのだ。
 だから、自由に動き回れる今の内に、大急ぎで全ての現場を確認しなければならない。
 使用人室に、クリアフォルダに入った屋敷内の見取り図があった。
 それを拝借した為、全ての部屋の場所はわかっている…。

 ヱリカは手際よく屋敷内を回り、次々に犯行現場に飛び込んでいく…。

「ヱリカ卿、……ご存知とは思いますが、念の為、ご忠告をいたしマス。」
「はい? 何です?」

「ヱリカ卿は、確かに写真並みの驚くべき記憶力をお持ちデス。……それは探偵権限と組み合わさることで、何物にも欺かれぬものと成り得マシタ。」

「あぁ、わかってます。……探偵宣言をしていない私は、写真並みの記憶力を持っていても、欺かれない保証はないってわけですね。もちろん、理解していますとも。……かといって、現場を直接視認しないわけには行きませんから。」

「……前回のゲームでは、そこに慢心し、悔やみ切れぬ失態を犯しましたから。」

「極論、今のヱリカ卿は、どれほど検死をしようとも、死んだフリを見破れない可能性が常に残るということです。全ての状況を個別に確定させるためにも、戦人に復唱要求をする必要があるでしょう。」

「それを引き出すために、青き真実を駆使しなくてはなりませんね。……わかってます。基礎を充分に、基本から攻めましょう。……探偵権限などなくてもハンデにはなりません。かつての戦人と同じ条件で戦っているだけなんですからっ。」
 そう。この戦いは、……かつて、ベアトと戦人が激しく戦った日々を、再びなぞっているのだ。
 探偵権限などという便利なものはない。
 ……本当に、かつての日々の戦人と同じ戦い方をしなければならないだけなのだ。

 その意味においては、我が主の言うように、確かに前回の自分はかなり恵まれた、アンフェアな立場だったかもしれない…。
 確かに、探偵としての名誉でもある、探偵権限がないのは辛い。
 しかしそれしき、ハンデになってたまるものか。

 私は魔法の何たるかを理解し、赤と青の真実でどう戦えばいいかを熟知している。
 かつての戦人よりも何倍も、戦い方というものを心得ているのだ……。
 私は、2階の貴賓室、蔵臼の書斎、夏妃の自室、そして1階の客室、客間の全ての現場を足早に訪れ、前回、疎かにした自らの目での確認を終える…。
 まず、全ての現場は密室が主張されていた。

 特筆すべきは、マスターキーがトリックにまったく関与しない点だろう。

 室内は全て内側から、マスターキーなどの外部から施錠開錠できる手段と無関係な方法で、密室となっていたのだ。
 窓は内側から閉ざされ、扉はいずれも施錠とチェーンロック。

 施錠はマスターキーでどうにでもなるが、窓の施錠とチェーンロックが地味に大きい。

 復唱要求で、それらが外部から細工できないことの確認はまだだが、……どーせ、赤で宣言できるだろう。そうじゃなかったら、馬鹿らしい。
「……わかってます。今の私はただのニンゲン。……遺体の死亡確認さえ、満足に出来やしない。」
 ……前回、遺体の確認を疎かにすることで、……とんでもない“魔法”を許した。
 もうあの無様は繰り返さない……。

 あんな無様をもう一度許したら、……大恩ある我が主に、……顔向け出来ない……。

「全ての現場を確認し、情報の整理が終わりマシタ。ご報告いたしマス。」
「お願いします。」
「まず、全ての部屋は、窓の施錠とチェーンロック等による、“外部よりの干渉の困難な”方法によって密室を構築されていマシタ。唯一の例外は楼座と真里亞の死んでいた客間のみデス。」

「謹啓、謹んで申し上げる。帽子掛けがかんぬきにされていたものなり。」

「実質的にチェーンロックと同様の、内側のみより施錠可能と思われるものなりや。」

「マスターキーによる解釈を完全に封じた密室を構成するためでショウ。客間の性格上、チェーンロックがないため、他の何かで代用することも自然デス。」
「……ならどうして、チェーンロックのある他の部屋を密室に選ばなかったかが興味深いですね。戦人が死んでいた客室は、他にも数室あって、同じような構造をしてたわけですよね?」
「ハイ、そうデス。」
「なら、そこに閉じ込めれば、全員、チェーンロックの密室ということで、より美しかったはずなのに、それをしなかった。……どうもこの客間の、帽子掛けのかんぬきとやらが胡散臭いです。復唱要求でよく追求するべきでしょうね。あと、遺体なんですが、……前回の首がバッサリ!みたいに、探偵権限がなくとも、絶対の死亡を確認できるようなものはありましたか?」
 もちろん、今回は彼女も全ての現場で全ての死体を確認している。

 ……しかし探偵権限がないため、いわゆる、死んだフリを“絶対”看破できる保証がない…。
 かつての戦人も、犠牲者が確かに死んでいるのかどうかを疑うところから、戦いが始まった。

 それは、ヱリカも同じということなのだ……。
「謹啓、謹んで申し上げる。絶対の死を物理的に確認できる遺体はないと知り給え。」;<ガート

「謹啓、謹んで申し上げ奉る。いずれの遺体も、装飾された偽装死の可能性を否定出来ぬもの也。」

「……ま、死亡確定の復唱要求をしたところで、戦人が簡単に答えてくれるとも思いませんが。……やれやれ……。」
「私はベアトの時の、六連鎖密室の方が面白かったけど。……でも、マスターキーが一切通用しないという意味においては、密室の完成度は今回の方が上ね。」

「……戦人が狙ってくる密室破りは、概ね2つ。……密室錯覚と、事件錯覚。このどちらかね。」

「密室錯覚はわかるわ。一見、密室に見えて、実はそうじゃないってことでしょ。事件錯覚ってのは何?」

「………事件が起こったと錯覚することよ。つまり、本当に死んでいるのかどうか、ということ。」

「何それ、馬鹿馬鹿しー。いくら密室でも、中の人が生きてたら、そんなのただの、トイレでおしっこしてるのと同じだわ。……でも、今回の密室殺人。ぶっちゃけ、それが解答だとしか思えないのよねー。」

「チェーンロックを外側から細工する無限の可能性は? 隠し扉の有無、遠隔殺人の有無、あるいは自殺の可能性だって。そもそも密室が成立しているのかさえ、わからないというのに。」
「……私は戦人のゲーム盤、裏から見てるから知ってるけど。これは完璧な密室よ。密室は内部からのみ構築され、外部からは構築も解除も干渉も一切できない。」

「それ、赤で言える?」
「さすがにそれは戦人に悪いから遠慮するわー。ベルンが私を愛してるんだったら、私の発言も赤き真実で見えるはずよ…?」

「………なら、密室は完璧。つまりこれは、事件錯覚ってことになるわ。」

「そうなるわね。だとしたらこれは全部、狂言密室だわ。……大方、ヱリカがあまりに空気読めずに探偵探偵と騒ぐものだから、右代宮家みんなで結託して、狂言殺人を披露してからかってみたってことじゃない? あら、これ正解? 私ってば超ォ名探偵ぇ☆」
「それが困ったことに、……これは狂言じゃないのよ。犠牲者はきっちり殺されてるわ。」
「えー?! 2日目の24時の時点で、とかじゃなくて?」
「探偵宣言を出してこそいないけど、彼女の検死は極めて正確よ。私が赤き真実を与えられるくらいにね。」

「それで? ヱリカの検死時に間違いなく死亡してたってことになるの?」
「えぇ、そうよ。それはもう、がっつりと。」

「でも、赤き真実では言ってあげないのねー。くすくす、ヱリカはその赤が、喉から手が出るほど欲しいだろうにー。」

「だって今回のあいつ、探偵でさえないもの。赤き真実なんてあげないわ。くすくすくすくす。」

「しかし、……となるとスゴイじゃない。戦人の今回のこれ、……完璧な密室殺人だわ!」
「……あら。そうなるわ?」

「ヱリカ、大丈夫ゥ? 一見、フツーの密室殺人だけど。……地味にかなりヤバイ密室だわ、これ。探偵権限さえないヱリカにはちょっと、荷が重いんじゃない…?」

「自称名探偵だもの。きっとヱリカはやってくれるわ。………探偵ですらない、ニンゲン風情に打ち破られたら、戦人もベアトも、最っ高にザマぁないくらいに粉々でしょう?」

「……それに、万一、ヱリカが負けても、最悪のカケラにブチ込んで忘却の深遠に叩き込んで遊ぶから、それはそれで面白そうだし?」
「そういうこと。私たちはどっちに転んでも、退屈しないわ。」
「あんたってば、……ホントーに血も涙もないわね。…ま、そんな黒猫を雑巾のように絞って、一滴だけ滴る雫を舐める時が、私の至福なわけだけど!」
「ベアトのゲーム盤でも、さんざん遊ばせてもらってるけど。……もう何も出て来やしないくらいに絞り尽くしたわ。」
「……このゲームもこれでおしまいなのよ。だから最後に相応しく、ヱリカ・戦人、互いの破滅を賭けた一騎打ち、くらいには盛り上がってくれなきゃね。」

「……ちぇー。このゲームで、無限にあんたと遊ぼうと思ったのに。……残念だわ。」

「とんでもない。充分にあんたに付き合わされたわよ。……また面白そうなゲーム盤を見つけてらっしゃい。そしたら、また遊んであげる…。」

「あぁ………、……本当にあんたは私を飽きさせないわ。……それでいいのよ、ベルンカステル。そんなあんたの表情を苦悶に歪めることだけが、私が覚えてしまった唯一の禁断の蜜なのだから。」
 ラムダデルタは、完全な密室であることを保証する。

 ベルンカステルは、完全な殺人であることを保証する。

 完全な、「密室」「殺人」。
 魔女たちは興醒めを嫌うから、今はまだそれを赤き真実で語らない。

 ……それを追求し合うのは、戦人とヱリカの役目……。
「ずいぶんドタバタと現場巡りをしたようだな。……充分か? 現場検証は。」

「えぇ、充分です。さて、私とあなたの、赤と青の論争バトルですが、如何します? さっそく始めますか? それとも最後にまとめて?」

「お預けは俺の性分じゃねぇな。それはお前もだろうぜ。」

「なら、さっそくこの第一の晩の密室に切り込ませていただきます。……その前に確認です。復唱要求に応じるおつもりは?」

「内容によるぜ。全てに応じる義務はなく、応じない理由も開示しない。」
「グッド。……ではシンプルに、密室定義の確認から参りましょう。ドラノール! 読み上げて下さい。」

「了解デス。……以下の復唱を要求しマス。」

 ドラノールは、西洋のおとぎ話で、よく王様のお触れを読む役人が広げるような、あの丸まった羊皮紙のようなものを縦に広げ、それを読み上げた。

「一つ。“6人の部屋は全て密室でアル”。」
認める。もちろん、郷田たちがチェーンを切断するなどして、密室を破るまでの話だが。」

 ドラノールが頷いて合図すると、後ろのコーネリアがやり取りの記録を取る。

「一つ。“密室の定義とは、外部より構築不可能であるコト”。」
認める。

「……つまり、外部からはどんな細工でも、密室を構築できないということ。チェーンロックを外部より、細い針金などで器用に掛け直した、などは認められないということです。」
「言われるまでもありません。ドラノール、続けて下さい。」

「一つ。“密室の定義とは、内外を横断する一切の干渉が断絶されていることを指ス”。」
認める。ただし、ノックや声、内線電話など、一般的な部屋で想定できる干渉方法を否定はしない。」

「一つ。“密室破壊時、室内には犠牲者(夏妃・絵羽・霧江・楼座・真里亞・戦人)以外存在シナイ”。」
認める。
 これは、殺人犯が密室内に隠れていなかったことの確認だ。

 密室殺人を発見者たちが認識して立ち去った後に、こっそりと部屋を抜け出せば、密室幻想を生み出すことは可能なのだから。
 戦人は、これを赤き真実で認めたため、犯人と犠牲者が2人で作った密室で殺人が起こり、犯人はベッドの下に隠れていて、事件発覚後にこっそりそこから抜け出した…、ということが否定された。
「一つ。“密室破壊時以降に、殺人は行なわれていナイ”。」
「拒否する。」

「……なぜです? 実は密室を破った時点では、犠牲者たちが生きてたからですか? そして、実は押し入った蔵臼たちが犯人で、そこで殺人を行なった。即ち、密室後殺人だから。これが真相だからですか…?!」;<ヱリカ

「いいえ、違います。まだ殺人は続くのですから、これ以降に殺人が行なわれないと赤で宣言することは出来ません。」

「……ちっ、屁理屈を。私たちの趣旨はわかってるはずです。蔵臼たちがチェーンを切断して密室を破り、そして中にいた人間を殺した。これに反論してもらいたいだけです。」

「ヱリカ卿、……“蔵臼たち”との不特定多数な言い方では不十分デス。まずは密室破壊後に、室内に入った人間を確定すべきデス。」

「謹啓。……密室に踏み入ったのは、犠牲者を除き、蔵臼、留弗夫、秀吉、郷田の4人なり。」
「謹啓。これは聞き取りによるものなり。他に踏み入った人物がいないという保証はなきなりと知り奉れ。」

「言われるまでもない。今のを復唱してもらいましょう。……“密室破壊後、部屋に入ったのは、私を除き、蔵臼、留弗夫、秀吉、郷田の4人のみである”。」
「いいぜ。認める。ただしこれは、現時点での話だ。今後のゲーム展開如何では、他の人物が立ち入ることもありえる。」
「復唱要求。“蔵臼、留弗夫、秀吉、郷田は、犯人ではない”。」
「……………………。」

 戦人は顎に指を当て、黙考する仕草をする。

 この犯人という言葉は、かなり広範なものを意味する。そして、魔女の闇を大きく制限するものになりかねない。
「………答えてもいいのではないでしょうか。もし拒否すれば、蔵臼たちが犯人であるという青き真実が残ったままとなります。」

「……………………。……そうだな。……認めはするが、言い方をさらに厳密にしよう。蔵臼、留弗夫、秀吉、郷田たち4人は、夏妃、絵羽、霧江、楼座、真里亞、戦人たち6人の殺人にかかわっていない。

「ということは、“密室に入ってさえいない、それ以外の人間たちもまた、殺人にかかわることは不可能”ということになりますね?」

「さぁな。自分で考えな。密室に立ち入らずに密室殺人を成立させる青き真実が提出できるってんなら、こっちも赤き真実で返答してもいいぜ。……もっとも、俺はお前がこれから提出する青き真実の内、たった1つを打ち破るだけでいい。つまり、今からお前が、遠隔密室殺人のトリックXを青き真実で説明できたとしても、必ずしもそれに赤き真実で応える必要はないわけだ。」
 それが、魔女のゲームのルールだ。
 この辺の詳細は、第4のゲーム時に縁寿がベアトに確認した。
 魔女側は、魔法以外では実行不能と称する謎を、次々出題する。

 人間側は、それをトリックで説明可能であると、青き真実で反論しなければならない。
 そしてもし、たった1つの謎であっても、青き真実で反論できなかったら、その謎は“魔法で行なわれた”ことになってしまい、魔女の存在を否定できなくなってしまうわけだ…。
 つまり、魔女側は、たった1つでもいいから、謎を守りきればいい。

 逆に人間側は、全ての謎を、青き真実で説明し切らなければならない。
 よって、人間側が全ての謎に青き真実で説明をしてきたとしても、その内のたった1つを、赤き真実で迎撃するだけで、魔女の勝利となるわけだ。
 だから、かつてのベアトが終盤のゲームで取った戦術のように、すぐに赤き真実で反論せず、最後の最後まで反撃を保留し、一番脆そうな箇所を一ヶ所、反撃するだけで、魔女側は充分、ということになるわけだ……。
「いずれにせよ、……今の復唱要求には拒否、ということですね?」

「勘違いするなよ。復唱要求は、お前へのサービスではないんだぜ。」
「………く……。」
 復唱要求は、魔女側から見た場合、出題した問題を誤解させないための補足だ。
 よって、あまりに拡大解釈した要求には、答える義務も義理もない…。

「……やりますね、……魔女側プレイヤーとしても、なかなか頑張るじゃないですか。」
「お前とは場数が違うぜ。」

「ちっ…! ドラノールッ!」

「続けマス。一つ、“犠牲者たちは、他殺を除くあらゆる方法で死んではいナイ”。」
認める。

「もちろん、自殺や事故死ではありません。」

「一つ、“犠牲者は、」
「ドラノール、それで結構です。」

「……よろしいのデスカ? まだ項目が…。」

「えぇ、もう充分です。現場の状況は確認できました。ここから、青き真実での反論タイムとしましょう。」
「あぁ、いいぜ。ご高説を拝聴しようじゃねぇか。」
 戦人とヱリカのやり取りは、敵同士であるにもかかわらず、……どこか少しだけ楽しそうに、ベアトには見えた。
 ……多分、これはヱリカへの小さな嫉妬。

 ベアトは、在りし日の自分と戦人のやり取りを、フェザリーヌの書庫で読んだ本から思い返す。……それはきっと、楽しいことだったろうなと思った。
 親族会議中の、わずかな小休止中に起こった、あまりに凄惨な大量殺人…。

 殺された6人は、戦人という例外を除けば、女ばかり……。
 残された男たちは、その卑劣を怒り狂ったり、妻を失った悲しみに塞ぎ込んだり、……それらを何度も何度も繰り返していた……。
「どうして女ばかり……。卑劣にも程があるやないかッ…。」

「俺たちは何だってんだッ?! 同じ屋根の下にいて、自分の家族が殺されてるのに揃いも揃って気付かず、のんびりヤニを吸ってたってわけかよッ、畜生ッ!!」
「……しかし、誰が、……どうやって…。妻たちは決して無防備ではなかったのだぞ…。皆、チェーンをしたままだった…。」

「下らねぇぜ、そんなこと! どうやって殺したかが問題じゃねぇッ、誰が殺したかだけが問題だッ!!」

「なぁ、源次さん、郷田さん。親族会議中の屋敷は、窓も扉も、全て鍵が掛かってたっちゅうんやな…?」
「は、はいっ。それはもう、間違いなく…!」

「……奥様のお言い付け通り、普段は夜の見回り時に必ず、全ての施錠を致しております。今夜は特別でございましたので、お子様方をゲストハウスへお送りしてから、すぐに施錠するように致しておりました…。」

「そりゃあおかしいぜ…?! だったらどうして、屋敷に戦人や真里亞ちゃんがいるんだ?! 入って来れないはずだろ?!」

「戸締りがホンマにしっかりしとったら、そういうことにはならんはずや…! この二人が屋敷の中にいたことが、戸締りが完全じゃなかったことの証拠とちゃうんか…? な?な?!」
 郷田の戸締りがしっかりしていなかったから、不審者の侵入を招いたのではないか、という論法だった。
 少なくとも彼らは誰一人、戦人と真里亞が屋敷に訪れたことを知らなかった。

 来たところで、戸締りがしっかりされているなら、入ることは出来ない。
 呼び鈴を鳴らせば、使用人室の郷田は気付くだろうが、郷田にもその心当たりはなく、一体、彼らがどうやって施錠された屋敷に入ったのかは謎だった…。
「ひょ、ひょっとするとでございますが……。例えば、奥様方のどなたかが、たまたま玄関近くにおいでになり、戦人さまたちのノックか呼び鈴に気付いて、扉をお開けになったとか……。」
「そんなわけねぇだろ! その時、郷田さんは使用人室にいたはずだろ?! 玄関が開いたら、使用人室にチャイムがなる仕掛けがあったはずだぜ? 来客に気付かねぇわけはねぇ!」
「そ、それがその、……、」

「……郷田はその時ちょうど、皆様方のお言い付けで、お飲み物等の配膳におうかがいしており、使用人室に不在でした。」
「何で、こんな大事な日に屋敷の使用人が1人なんだ?! どうして源次さんみたいな重要な人がゲストハウスの当番なんだ?! おかしいじゃねぇか! どうして使用人室を空っぽにしちまったんだ…!!」

「……妻がそういうシフトを組んだのだ。……よく気の利く郷田なら、親族会議中にも、洒落た飲み物を差し入れてくれると期待したのだろう…。」

「しかしな、蔵臼兄さん…! 親族会議やで?! 一年で一番大切な日やで?! そんな日に、何で郷田さん1人だけを屋敷の当番にしたんや…! せめてもう1人おったら、話は変わってたんとちゃうか?! なぁ?なぁ?!」
 泣き出しそうな、そして怒り出しそうな、あらゆる感情のごちゃ混ぜになった顔で、秀吉は郷田に食って掛かる。
 殺した犯人が一番悪くて憎いに決まってる。

 ……それはわかっていても、今、目に見える誰かを恨まなければ、感情のやり場がないのだろう。
「…………皆さんの胸中、心よりお察しします。……ですがどうか、落ち着いて下さい。……郷田さんの戸締りが不完全だったか。……あるいは、ゲストハウスから戻ってきた、戦人さんと真里亞さんを誰かが迎え入れて、その後、施錠し忘れたのかはわかりません。……ただ、それが謎の犯人の侵入と関係があったとは限りません。」
「……何しろ、あれだけの大きなお屋敷です。もっと早い段階から屋敷に入り、ずっと深夜までどこかの部屋で息を殺していたのかもしれません。……誰かを疑いたい気持ちはわかりますが、どうか落ち着いて下さい。」
「……客人の言うとおりだ。……憎むべきは犯人であって、……たまたま当番だった郷田ではない…。……とにかく、落ち着こう。……私とて悔しい。だが、今は我々が率先して冷静さを取り戻さなくては、どうしようもない。」

「兄貴……。」

「皆、辛くて悔しい気持ちは同じだ。そして、犯人を絶対に許したくない。だからこそ、我々は冷静を取り戻さなければならないのだ…。」

「……そ、……そや。……わしにも譲治がおる。蔵臼兄さんには朱志香ちゃんがおる。そして留弗夫くんも、帰りを待つ縁寿ちゃんがおるはずや。犯人と刺し違えたるッ、思うんは、……まだ、…早いんや……。」
「……まだ犯人はこの島にいます。そして、この無残な事件が、これで幕を下ろしたとは限らないのです。私たちは冷静を取り戻し、これ以上の惨劇を食い止めねばなりません。」
 ヱリカはやさしく慰めるように、そして、静かに諭すように言う。

 ……同じことを使用人が言ったら、留弗夫辺りは食って掛かったかもしれない。
 しかし、客人という中立的な立場のヱリカがそれを口にすることで、……彼らの耳にも届くようだった。
「落ち着きましょう。……ここには成人の男性が3人もいて、そして銃を持っています。犯行の手口を見る限り、犯人が銃を持っている可能性は低いでしょう。……つまり、私たちがしっかりしている限り、もはや犯人に手出しする余地はないということです。」
「……彼女の言うとおりだ。右代宮の島で、これ以上、犯人の好き勝手にさせるわけにはいかん。」

「探し出そう! この台風だ。島からは逃げられねぇし、雨宿りできる場所だって限られてるはずだ…!」
「この島は案外、狭くありません。残念ですが、この程度の人数で島を探すのは難しいでしょう。……何しろ皆さんは、見つけたら、即座に撃ち殺さんばかりの勢いです。怯えた犯人が、あの深い森の中に逃げ込んだとしたら、簡単には見つけられません。」

「………………………。……そやな。…大人しく、台風が過ぎるのを待って、船に警察を呼んでもらい、島中を徹底的に探し回ってもらう方がえぇやろ…。警察はな、すごいでぇ。何百人も来てくれて、ホンマに虱潰しで探すんや。……いくらあの深い森でもな、絶対に炙り出して見せるでぇ…。」

「今、一番大事なのは。……これ以上、愛する家族を失わないことだ。………留弗夫。お前に万が一があったら、帰りを待つ縁寿ちゃんはどうなる。」
「……霧江……、……戦人………。………畜生、……畜生ぉおおぉ……。……お前たちに、……俺はまだ、………打ち明けてねぇってのに………。」
「……………………。……蔵臼さん。きっと、いとこ部屋の皆さんも、激しく動揺していると思います。……蔵臼さんが落ち着きを取り戻したところを見せることによって、皆さんも少なからず、落ち着きを取り戻せると思います。……行ってあげてはどうでしょう。」

「………そうだな。みんなに、これからのことを話さなければなるまい。」

「源次さんと郷田さんも、一緒に上に行って下さい。……紗音さんや嘉音さん、熊沢さんもきっと動揺されてると思います。」
「は、……はい…! それはもう、きっと皆さんも動揺されていることでしょう……!」

「………よろしいのですか。……何かお手伝いできることは他にありませんか。」
「だからこそ、蔵臼さんと一緒にいて下さい。何かの時、すぐにそれに応えられるように。……私たちは先に、ここの戸締りを確認したいと思います。すぐに上がりますから、先に行って下さい。」

「わかりました……。……何かございましたら、お呼び下さい。」
 源次は一礼し、蔵臼に頷く。
 蔵臼も、ヱリカに頷き、源次と郷田を伴い、2階へ上がっていった。
 ………男だけの、混迷した現場で、冷静さを持つ異性は、イニシアチブをコントロールしやすい。
 探偵権限がなくとも、とても自然な、見事なコントロールだった。

 ヱリカはとりあえず、使用人たちを上へ追い払いたかったのだ……。

「よし。そうと来たら、さっそく戸締りを確認しようぜ。」
「問題は、ラウンジのこの大窓やな。シャッターもないみたいや。ここをぶち破られたら侵入は防げんで。」

「いいさ、ガラスの割れる音で充分だぜ。蜂の巣にしてやらぁ!」

「……お静かに。皆さんに残ってもらったのは、戸締りの確認のためではありません。……今から言うことを、冷静に聞いて下さい。」
 ヱリカが声を潜めると、留弗夫と秀吉も、何か秘密の話があると察知し、落ち着きを取り戻してから、耳を寄せる…。
「いいですか? 事件は、親族会議の小休止中という、わずかの時間の間に起こりました。……そのわずかの時間中に、誰にも悟られずに6人もの人間を殺すなど、到底、場当たり的な犯行とは思えません。これは、屋敷の内外の構造を知り尽くした、関係者の犯行です。」
「……そ、……それは……………。」

「………そ、そら内部に詳しゅうなかったら……。し、しかし……。」

 彼らはさっきまで、郷田などの使用人の過失を疑い、責めていた。

 しかしそれは、施錠のし忘れを疑い、それが謎の犯人の侵入を許したのではないかと責めているだけで、………よく見知った使用人たちの誰かが、その手で命を奪ったとまでは、思い至っていない。

 …いや、思いたくなかったのだ。

 人は軽々しく、……見知った人間を犯人とは、疑えないのだ……。
「犯行当時。屋敷は内部より施錠され、親族会議にかかわる皆さんしか存在しませんでした。」

「じゃあ兄貴が霧江たちを殺したってのか?! それとも秀吉兄さんを疑えってのか?! ありえねぇ、考えられねぇ!!」

「わしはハナから蔵臼兄さんも留弗夫くんも疑っとらんで…?! わしら兄弟は、みんな夫婦仲は円満や! 右代宮家は確かに、規律やカネには厳しい一族やで。しかしな、家族を大事にするっちゅう気持ちは、他の家に勝るとも劣らんつもりやで…!」

「えぇ、もちろんそれは信じてます。皆さんが奥さんを殺すなど、夢にも思っていませんから。」
 ヱリカはすでに戦人より、赤き真実で、彼らが殺人者ではないことの保証を得ている。だからそこを論点にする必要はない…。

 蔵臼、留弗夫、秀吉、…そして、郷田。………この4人は、殺人犯ではない。

 ………にもかからわず、………ヱリカはこう言う。
「しかし、……郷田さんはどうでしょうか。親族会議の間、ずっと控え室にいて、誰にも知られずに何らかの工作が出来る立場です。」
「郷田さんを疑うのはちょいと早いで?! 郷田さんは小休止の時、食堂に飲み物の配膳に来てくれてたんや。……だいぶ長いこと、一緒にいてくれた。とても6人も殺す時間的猶予があったとは思えんのや…!」

「………しかし、実行犯を屋敷内に手引きすることは、出来たかもな。」
「そういうことです。……郷田さん自身は、実行犯ではないでしょう。しかし、実行犯を密かに屋敷内に迎え入れることは充分に可能でした。」
 留弗夫たちは絶句し、互いの顔を見合う。

 自分たちは家族だ。たとえ兄弟の妻であっても家族だ。……兄弟同士は憎み合うことはあっても、その妻を恨んで殺すことはありえない。

 絵羽や楼座は兄弟の当事者ではあるが、夏妃や霧江、戦人や、幼い真里亞を殺す理由など、あろうはずもない…。
 しかし、……使用人の郷田にとっては、……全員、アカの他人でしかない………?
「私が使用人を疑う点は2点です。まず1点目は、犠牲者たちと面識があり、かつ何れの現場にも争った跡がないこと。全ての現場はまったく乱れていなかったのを、皆さんもよくご存知のはずです。」

「……それは俺も思ってたぜ。……あの喧嘩慣れした霧江が、何の抵抗もなく、綺麗にぱったり殺されるかってんだ。相手の指くらいは食い千切る女だぜ…。顔見知りが犯人で、油断させたところを突然って方が、確かに説明はつく…。」

「そ、それを言ったら、うちの絵羽もや…。何しろ武芸百般。暴漢が襲ってこないかと、日々わくわくしとる女やで。そんなあっさりと殺されるわけがない…!」

「………なら客間の楼座さんだってどうです? 一人娘と一緒の楼座さんが、不審者相手に抵抗もせず、みすみすと殺されると思いますか? そしてこのことは、もう一つ、大事なことを教えています。」

「大事なこと…?」
「………犯人は一人じゃない、ってことか…。」
「そ、……そや…。客間には楼座さんと真里亞ちゃんが二人おったんや。同時に殺さなかったら、大騒ぎになるところやで。それを殺せたっちゅうことは、犯人は単独犯じゃないってことや…。」

「楼座は、真里亞ちゃんのことが絡めば、子連れ熊みたいに怒りっぽくなるヤツだ。……仮に相手が銃で脅したとしても、怯むようなヤツじゃねぇ。………なるほど、楼座にぎりぎりまで、不信感を持たれない人物ってわけか…。」
「……未知の部外者が島に紛れ込んでいるという考えの方が、非現実的であることが、すでにおわかりと思います。犯人は、この島に精通した関係者。そして複数です。」
 犯人は関係者で、複数。

 ヱリカが示した推理は、……彼らが真に疑い、警戒すべきは誰なのかを、明白に示している。
「………ヱリカちゃんは、……使用人たちを疑ってるってのか……。」
「はい。現状を推理して、もっとも疑わしいと思います。……彼らを疑う2点目が、チェーンロックの密室なのです。」

「どうして、チェーンロックが疑わしいんだ。」
「……もし、チェーンロックのない密室だったら?」

「そんなの密室やないで。マスキーの1本もあれば、誰だって密室に出来るわ。」
「……そういうことか…、なるほどな…。………使用人たちが疑われないためには、チェーンでロックする必要があった、ってことか…。」
「その通りです。……チェーンを掛けることで、彼らは疑われずに済む。…逆を返せば、チェーンを掛けねば、彼らマスターキーの所持者は、疑いを免れないのです。」
「チェーンを掛けて、……得をするんは、……使用人だけ、…っちゅうわけか……。」

「連中の肩を持つわけじゃねぇが、……ならどうやってチェーンを?! 外からチェーンを掛けるなんて、出来るのか?!」
「構造的に考えて、不可能ではないと思います。……こんな話、ご存知ですか? マンションの郵便ポストに配達する郵便屋さんの中には、たまに針金で作ったヘラを持ち歩いてる人もいるそうですね。」

「あー、……聞いたことあるで。マンションの郵便ポストは似たような部屋番号のポストが隣接しとる。ひょいっと投函したら、ひと部屋間違ったポストだった、っちゅうことも割とある話らしいんや。」

「マンションのポストは施錠されてることがほとんどです。間違って投函してしまったら、もう取り出せなくなってしまう…。」
 ……そういう時は、間違って投函したことを、そのポストの主に伝え、ポストの鍵を開けてもらい、誤配郵便を返してもらうのが正しい。
 しかし、マンションの住人は大抵、不在。その手間はあまりに面倒臭い。

 その為、郵便配達員の中には、針金でヘラ状の小道具を作り、間違って投函した葉書を、それを器用に使って、ポストの隙間から掬い出したりする者がいるという…。
「……俺も、ビルの管理会社の兄ちゃんに聞いたことがあるな。……たまに、トイレの個室の中で酔っ払って寝込んじまうヤツがいるらしくて、そういうのを連れ出すために、扉の隙間から薄い金具を入れて、かんぬきを外したりすることもあるらしい…。」

「そういうことです。どこの業界でも、本来は開けられないものを、ひょいっと開けられる裏技的な小道具が存在するものです。………同じものを、屋敷の使用人たちが持っていたとしても、取り立てて驚くことではありません。」

「………………………た、……確かに…。」
「……コツさえわかれば、針金で外からチェーンを掛けるのも、出来ないわけじゃなさそうだ。………確かに、……出来ないとは言い切れねぇ…。」
 ……確かに、現実的に考えれば、チェーンロックを外から開け閉め出来る手段が、絶対に存在しないなどと、言い切れるわけもない。
 チェーンロックは、わずかの隙間を許す。

 その隙間から、何かの小道具でひょいっとやれば、……簡単に細工など出来るはず…。……彼らがそう思うのは、とても自然なことだ。
 しかし、ヱリカは知っている。

 現実には可能でも、……今回の密室では、赤き真実によって、密室は外部から構築不能とすでに宣言されている。つまり、チェーンロックを外部から細工することは、不可能なのだ。
 にもかかわらず。……ヱリカは、使用人にだけは密室が構築可能であるかのような幻想を抱かせ、彼らの思考を誘導する…。
 ヱリカは、さも重要なことを真剣に打ち明ける風を装いながら、……自分が望む状況に、着実に誘導しているのだ。

 先ほどから浮かべている真剣そうな表情は全て、……演技。
 いや、彼女風に言うなら、容疑者たちを欺く探偵術……。
「同じ話は、蔵臼さんにもするつもりです。……使用人たちの全員が犯人だとは言いません。しかし、犯人、もしくはそれに加担する人物が含まれている可能性は濃厚です。……彼らを隔離し、銃を持つ人間を監視に付けるべきです。」

 留弗夫と秀吉は、再び顔を見合わせる。

 ……彼女の話は筋が通っていて、現時点でもっとも疑うべき人物たちを、極めて冷静に炙り出しているように聞こえた。
 ヱリカは得意とする話術で、巧みに場のイニシアチブを握っていく。……探偵権限がなくとも、この程度の人心掌握術は可能なのだ。

 如何です、皆様方……?
「……如何ですか。魔女側のプレイヤーは。」

「不思議な感覚だな。………かつては、魔女側に何て有利なゲームだろうと思ってた。だが、いざ魔女側になってみるととんでもないな。こいつはまるで樽にナイフを刺してく、ヒゲ男の樽ゲームみたいなもんだ。」
 人間側からすれば、霧の中で見えない的に銃を撃ちまくるようなもんだ。

 しかし魔女側から見れば、まぐれ当たり一発で、それが致命傷となる。
「……そんなゲームを、…かつての私は、何度も繰り返していたんですね。」

「あぁ、まるでロシアンルーレットだ。……それでもお前は、いつか俺が気付くと信じて、ゲームを限界まで繰り返してくれた。」

「……私が、聞くのも厚かましいですが…。……一体、戦人さんは何に気付かれたのですか? かつての私とのゲームの、最後の最後で。」

 それは、不思議な問い。

 それをベアトがずっと、戦人に問うていたはずなのに。
 それを戦人が気付いた今、ベアトが逆にそれを問う…。
「……正反対だな。……かつては、お前だけが覚えていて、……俺だけが忘れていた。しかし今度は逆だ。俺だけが覚えていて、……お前だけが忘れている。」
「不愉快でなければ、教えていただけませんか…。」
「…………教えるのは、…容易い。……でも、教えたくない。意地悪のつもりはないんだ。……ただ、俺もわずかに、奇跡を信じたい。」

「…………………奇跡…?」
 そう、これは戦人が、一粒だけ残す、奇跡の種。

 ……もしも、教えていないはずのことを思い出してくれたら、……それはきっと、ベアトが本当の意味で蘇ったことの、証。
 だから、教えない。

 ……それだけが、ひょっとしたらベアトが蘇るかもしれないと、……未だに希望を捨てられない戦人の、最後の、種。
「戦人さんが話せないことなら、私も聞きません。……不愉快な思いをさせてしまったなら、どうかお許し下さい…。」

「気にすんな。俺が未練がましいだけだ。…………………。」
 その、悲しい笑顔を見て、ベアトの胸は締め付けられる。

 ……彼が自分を通して、今の自分でない自分を見ているからだ。
 やはり、………彼のためにも、自分はかつての自分にならねばならない。
 蜘蛛の巣で火傷する姉と、火傷しない自分が、一つにならなければならない。
 ……今の自分は、戦人のゲームを見守るより、自らが何者かを問う旅の方がきっと、……戦人の役に立つのかもしれない。

「今回のゲームは如何です。……勝てそうですか。」
「勝てるつもりでいるさ。勝って、……ベアトの望みどおり、この永遠の拷問を終わらせる。」

「終わったら、…………世界は、どうなるのでしょう…。」

「さぁな。……どうなるんだろうな。……ただ、それを俺たちは望んだんだ。……だから、どんな結果が訪れようとも、それを受け入れるつもりだ。」

「…………私は、どうなるのでしょう…。」
 ベアトは、不安だった。

 自分さえも、このゲームの駒に過ぎないだろう。

 ……ゲームが終わるということは、そのルールから生まれた自分も、……消え去るということではないだろうか…。
「ゲームは、消えるだろうな。……だが、俺はもう、魔法を完全に理解している。……だからお前を、ゲーム盤の外へ連れ出せる。………それが、お前の望みだったはずだ。」

「私の、……望み…?」

「………………っ。……それ以上は内緒だ。……お前がそれらを、自力で思い出してくれる奇跡を、……俺は待ってるぜ。」

 戦人は一瞬だけ苦笑いを見せた後、気にするなというように笑う。

 やはり、以前の自分のことを戦人に聞くのは、あまり好ましいことではないのだろう…。

「……じゃあ、俺はちょっと対戦相手殿の様子を見てくる。…あの馬鹿が次はどんな屁理屈を言い出すか、楽しみだぜ。」

「かつての戦人さんも、それにかけてはなかなかでしたよ。……私としましては、第2のゲームの第一の晩に対する、小型爆弾を飲ませて殺した、が最高傑作かと。」

「ぅおぉおぉ、それは俺の黒歴史最高傑作だ…。早めに忘れてくれ……。」

「はい、そのように努めます。」
 戦人は黄金蝶の群になって、闇に姿を消す。

 それが完全に消えるまで、ベアトは会釈を続けているのだった……。
 入れ替わりに、ひらりと一羽の黄金蝶が現れ、……姉のベアトになる。
「……呼んだか? 我が妹よ。」
「はい。………あなたのことを、もっと知りたいんです。そして、……本当の私がどんな存在だったのか、知りたい。至りたいんです。」

「無論、妾も未来の自分を知りたい。……その為に妾たちは互いの全てを打ち明けあったはず。……しかし、一向に妾たちは一つとならぬ。どうやれば、一なる自分となれるのか、理解が出来ぬ。」

「……………